同居人の棗さん
雑居ビルの非常階段を登っていく。経年劣化が激しく手すりは
今の俺は慣れたスニーカーではなく女物の踵の高いブーツを履いている。そのせいで足下がおぼつかず余計に不安感を煽られた。足がもつれて転ばないよう自然と慎重になる。女性たちはこんな靴でよく歩けるなと関心してしまう。
五階建てのビルの屋上まで登り切るとコンクリートの床が広がっていた。その隅に小屋が鎮座している。年季が入っていて、雨風に晒されたせいか外装も剥げている。
人一人が住める程度の小さな物件に俺は歩いて近寄る。ブーツの踵がコンクリートを踏む小刻みな音がビルの隙間に響いていく。
玄関の前にきて、迷わずドアノブを掴んで回した。
「くっそ硬ぇなちくしょー」
室内から聞こえてきた声にドキリとする。
脳内に浮かぶのは大好きな少女の笑顔だ。同居人の気配を感じる度に俺は緊張する。声も口調もまるで違うのに、あの不安と刺激と甘さが入り混じっていた同棲生活を思い出す。
だけど今いっしょに暮らしている女性は、その子じゃない。
いつもいつも錯覚しては落胆する羽目になっている。自分でもいい加減慣れろよと思うけど、あまりにも強く焼き付いてしまったからかフラッシュバックのように当時の光景が蘇ってしまう。
干からびた砂漠で水を追い求めるように、ずっと彼女の姿形を追い求めている。
もちろんこんな感情は同居人に失礼なので、決して口には出さない。
「……ただいま」
玄関でブーツを脱ぎ室内に足を踏み入れる。トイレが設置されただけの短い廊下を抜けるとキッチン付きの部屋に出た。
一見して感じたのは、かなり汚れているということだった。ワンルームの室内には部屋着やペットボトルやゲームソフトのパッケージやみかんの皮が散らばっている。
おかしい。確か出掛ける前に片付けたはず。
「あの、棗さん」
「なに」
部屋の中央では、人をダメにするクッションの上で小麦色の髪の成人女性が寝転んでいる。彼女はゲームのコントローラーを両手で持って壁掛けテレビを食い入るように見つめていた。テレビ画面では銃で武装した兵士が戦場を駆け回っている。
「なんでこんな散らかってるんですか」
「ちょっと待て今いいところだから」
彼女は振り返りもせず答える。だらしない格好ながらコントローラーを動かす指は忙しない。
こういうときの棗さんは決して答えてくれない。俺は仕方なく部屋の入り口から散らかった服やゴミを回収し始めた。
片付けを進めながらも棗さんの状況を盗み見る。タイミングを見計らって話しかけないと怒られるからだ。
――ほんと、いつでもゲームやってるなぁ。
大体ゲームをしているか寝ているか飯を食っている場面ばかりだった。後はたまにネットをするくらいか。立ち上がることすら珍しい自堕落を極めたような女性だった。
そのせいで徹夜明けの腫れぼったい瞼をしているし髪の毛も乱れきっている。万人が美人だと認める容姿も、怠惰によってかなり損なわれていた。
ついでにショーツとキャミソール一枚という裸一歩手前の格好なのも、着替えるのが面倒という棗さんらしい理由だったりする。彼女は局部が隠れていればそれでいいと考えているようだった。
おかげで最初の頃は目のやり場に困ったものだけど、今はすっかり慣れて何も感じなくなってしまった。何事にも恥じらいは必要だと考えさせてくれる。
「うーし終わった」
ゲーム画面では兵士が手を掲げている。棗さんは大きく伸びをすると、座り直してくるりと振り返った。猫を思わせる大きな目で俺を見つめ、ニヤリと笑う。
「で? 首尾はどうだったよ、たー子ちゃん」
「……なんですかその呼び方」
「不満なの? たー美の方にする? それともたー音?」
「普通に太一で」
「なんだよいいじゃん。せっかく可愛い格好してんだからさ。弱々しくて無茶苦茶に犯したいくらい」
愉快そうな棗さんの言葉にため息を返しつつ、俺は自分の髪の毛を鷲づかみにした。手前に強く引っ張ると、ごっそりと髪の毛の束が抜け落ちる。す栗色の長い髪の束を手に持ちながら、地毛の方をわしわしと掻いた。ウィッグをつけていると汗が蒸れて痒い。
「なんで脱ぐー」
「取りますよそりゃ。もう女装する必要ないんだから」
拾った服とウィッグを持って俺は洗面所まで向かう。ウィッグを台の隅に置き、服は洗濯機の中に放り込んで一息つく。それから俺は、少しだけ覚悟をしながら鏡の方へ向いた。
鏡に映るのは俺のしかめ面だ。その顔は女に変装するためばっちりと化粧が施されている。長い付け睫毛やほんのりピンクに染まった頬、赤い唇がいつもとの違いを主張していた。
棗さんが施してくれた化粧はしっかりと俺の人相を変えてくれたが、輪郭や目元まで変わるわけじゃない。正直言って非常に気色悪い。変装の必要があったから仕方なくやっただけなので、二度とやらないと心に誓う。
「確かクレンジングオイルってやつだっけ」
棗さんに教えてもらった通りに化粧を落とし水で洗う。顔を上げると、水滴に濡れているいつも通りの自分の顔面が映っていた。
化粧残りが無いか確かめていると、髪が伸びていることに気づかされる。長髪といって差し支えない長さになってしまったが、髪を切る余裕なんて皆無だった。逃亡中は生きることで精一杯だったし、ここに潜み始めてからも生体浸食を止める方法とあの子の居場所を探すことに日々を費やした。
――……一年も経てば、こうなるか。
あの別れから季節は一巡した。変わることもあった。
だけど俺は何も、進んでいない。
焦燥が胸をちりちりと焦がす。こうして普通に息を吸っているだけでも罪悪感が膨れ上がり、どうしようもなく息苦しくなる。
のうのうと生きている間に彼女がどんな目にあっているか、どれだけ辛い思いをしているか想像すると、喉を掻きむしって死にたくなる。
凄惨な妄想が頭を埋めつくして眠れなくなることも、悪夢に叩き起こされるのも一度や二度の話じゃない。
だけど、希望は手放してない。この底なし沼のような無力感も、今日だけは感触が違う。俺は自分を落ち着かせることができている。
――大丈夫。やっと、連中の動きを掴んだんだ。
わざわざ危険を冒して近づいた甲斐があった。アヤカシ喰いに見つかるのと、こちらが見つけるのとでは訳が違う。
うまく作戦通りに進めば、彼女への道筋が開ける。
――待ってて、依子さん。もう少しで迎えに行くから。
拳を握りしめ頷く。その様子を鏡越しに確認して、俺は安堵した。まだ諦めていないことは、己の目が語っている。
しかし肝心なのはこれからだ。俺一人の力じゃどうにもできないことはわかりきっている。だからこそ棗さんの力を借りなければいけない。
女物のニット服とスキニーパンツを脱いでいつもの服に着替えた俺は、長い髪を後ろで雑に縛って気持ちを引き締める。それから棗さんと作戦会議をするために部屋に戻った。
しかし当の棗さんの姿が見当たらない。
代わりに、人をダメにするクッションの上に小動物が丸くなって寝ていた。ふさふさとした小麦色の毛に包まれたその小動物の外見はイタチやフェレットにそっくりだ。ただし通常の動物と違って、尻尾が三つに別れている。
「ん……段幕薄い、何やってんのぉ……」
小動物の口から日本語が漏れた。もにゃもにゃと口を動かしながら寝言を呟いていた。
人語を喋ることも尻尾が三つある姿にも別に驚きはしない。この獣は、人とは寿命も生態も機能も違う怪異の生物――アヤカシだからだ。
アヤカシである棗さんは本来の姿に戻り、すやすやと寝息を立てていた。
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