棗さんとの契約
というかついさっき偵察の成果を聞いてきたくせになぜ寝てるのだろう。
俺は小さくなった棗さんのそばにしゃがみ込み、遠慮がちに身体を揺さぶる。俺の指先から肘までの大きさしかない棗さんは、なすがままに振られるも一向に起きない。
「本当に寝てる……」
「ぐごごー」という豪快なイビキまで聞こえてきた。
「あの、棗さん。起きてください」
反応はない。わずか数分の間に熟睡されていらっしゃる。
棗さんというアヤカシは基本的にこういうマイペースな性分だ。納得はしていたが、今だけは話を聞いてもらう必要がある。かといって強引に起こして逆鱗に触れるとこちらの身が危うい。
考えた末に俺は、三つ叉の尻尾をむんずと掴んだ。棗さんの身体がぴくりと動く。
「ごめんなさい、棗さん。大事な話があるんです。起きてください」
「……」
返事はないものの、瞼はぴくぴくと動いていた。しかし起きようとはしないので、尻尾を毛並みとは逆方向に逆撫でする。ぞわぞわと小麦色の毛が逆立って棗さんの口から「ふにゃー!」と声が漏れた。
「やめろてめぇ! 殺すぞ!」
棗さんは大口を開けて「シャー!」と威嚇しながら跳ね起きる。激怒した猫のように毛を逆立てて俺を睨みつけていた。しまったやりすぎたか?
「毛を弄くるなって言ったよなあたし! お前らでいえば尻の穴に指突っ込まれてぐりぐりされるようなもんだぞ。やられてぇのか?」
大層下品な例えを口にした棗さんは、実行には移さずクッションに座り直すと尻尾を舐めて毛繕いを始める。不思議なことに棗さんは人間体でいるときよりもアヤカシに戻ったほうが綺麗好きになっていた。
「それとな、勘違いしてんじゃねぇぞ太一」
棗さんは目を細めた。漏れ出た妖力が肌を刺し、俺は無意識に身体を強ばらせる。
「あたしが何してようとあたしの勝手だ。好きに寝て好きに起きる。お前の指図は受けない。半妖の都合に流されるようなアヤカシがいると思うか?」
縦に細くなった瞳が剣呑な光を宿す。ゆらゆらと揺れ動く三本の尻尾が不機嫌さを表していた。殺意までには届いていないが、それでも十分に怒らせてしまったようだ。
冷や汗が滲んで、胃の奥がキリキリと締まった。小動物を前に射竦められる大人というのはシュールな絵面だが、俺はこのアヤカシに確かな恐怖を抱く。
俗説的にアヤカシの力量は身体的特徴の数に現れるという。例えば尻尾や角といった部位の数だ。三本の尻尾を持つ棗さんの妖力は俺なんかとは桁が違う。妖狐に変怪できなければ秒殺だろう。
そして今の俺は、妖狐に変怪することはできない。
「お前の都合なんてどうでもいい。お前の考えなんてどうでもいい。お前の生死すらどうでもいい。もしお前がヘマをして帰ってこなかったとしてもあたしの生活は一ミリたりとも変わらない。前みたいに部屋が汚くなるだけだ。だからお前も好きにすればいい。その代りあたしの意思に介入するな」
まさにアヤカシらしい傍若無人な理論だった。基本的に単体で完結し長い時間を生きるアヤカシは、他の生物に相容れることも寄り添うこともしない。共存社会を作る人間とは真逆の生物だ。
けれど俺にだって譲れないものがある。棗さんの前で正座して、俺は進言した。
「棗さん。今夜にも決行します。だから話を聞いてください」
「やりたきゃ勝手にしろ。あたしは寝る」
「棗さんの協力が必要なんです。成功したらそのまま捜索に行きます。だから――」
「黙れ」
尻尾の一つが、膝の上に置いた俺の手に置かれていた。
途端、恐怖が背中から頭頂部に這い上がってくる。
いつぞやこうして尻尾をくっつけられ、殺されかけたことがある。
「今ここで口を閉ざしてやろうか」
手が勝手に震える。俺は奥歯を噛みしめて、その恐怖を抑えた。
いつもは彼女のご機嫌を伺って言うとおりにしていたが、今だけは引くわけにはいかない。アヤカシ喰い達が面倒な罠を張る前に動かなければいけない。
「チャンスなんです、棗さん。時間が経てば経つほどこっちが不利になる」
「生憎とあたしはそこまで切羽詰まってないしお前の事情なんて知ったことか」
「っ……でも、俺はあなたと契約しました。協力する代わりに生活面を手伝うことと、有益な情報を提供するってこと。棗さんだって、アヤカシ喰いの組織について知りたがってましたよね? それがわかれば絶対に捕まらない住処を作れるって」
「お前があたしの身の回りの世話するのはあたしが飼い主だからだろ。飼い主に意見するなんざいい度胸してんな」
「意見するのは、今回だけです。失敗したら俺は、文字通り消えます」
棗さんは黙り込み、じっと俺を見据えていた。
「だから俺の話を聞いてください。成功すればきっと、俺はあなたの役にも立ちます。いや、成功させてみせる」
膝の上に置いた手を拳に握りしめる。棗さんは、依子さんとはまた違った意味で気まぐれで先が読めない。だから誠意で頼み込む他ない。
値踏みするように俺を見つめる棗さんは、俺の手の甲に置いた尻尾を撫でるように揺らした後、ゆっくりと腹の中に戻した。
「ったく、わーったよ。そんな泣きそうな顔すんじゃないわよ男のくせに」
その瞬間、ポンと音を立てて彼女の身体が煙に包まれた。次に現れたのは人間に擬態した棗さんの姿だ。
ただし一糸まとわぬ姿だった。
「ちょ……!?」
俺は慌てて視線を背け、そこらに落ちていた服を引っ掴んでで棗さんの方に差し出す。そういえば完全動物体のアヤカシは服なんて着ていない。人間に化けた瞬間は裸体になることをすっかり忘れていた。
「服着て服!」
「あーん? さっきの勢いはどーしたんだよたーいちぃ」
愉快げかつ艶めかしい声が耳元で聞こえた。背中に成人女性の重みが伸し掛かる。同時に二つの柔らかい感触が背中越しに伝わって、俺は思わず唾を飲み込んだ。
「アヤカシのあたしに啖呵切った割に女の裸もまともに見れないとかよぉ。そんなんであたしを使えると思うわけ?」
「そ、それとこれは関係が」
「度胸のないへたれなんて期待できねぇってことよ」
耳に刺激が走った。棗さんが俺の耳たぶを甘噛みして、舌先で舐める。
「ここで女を悦ばせることもできない情けない男が、愛する女を助けるなんてほざいてやがる。笑っちまうな。あたしに協力してほしいなら、ここであたしをひーひー泣かせて従わせてみろよ」
すらっとした手が伸びて俺の太ももを擦る。ビクンと跳ねた俺の姿に笑いながら、棗さんが甘く囁く。
「あたしだって雌だ。気持ちよくしてくれたら従順にもなる。下手くそでも一生懸命腰を振ってれば愛らしくもなる。男の体にはそういう使い方もあるんだよ、太一」
誘惑の声が鼓膜を揺さぶった。全身の熱が、血液を通して下半身に移動していくのがわかる。抗いがたい欲望が思考を塗り潰していく。
同時に、強大なアヤカシが身体を預けようとしてくれていることに喜びを覚える自分もいた。俺の中のアヤカシの本能が、ざわざわと騒いでいた。
身体の力が抜けていく。それを合図と理解したのか、棗さんの手は太ももから俺の股間部にまでするりと伸びた。
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