依子さんの思惑 下
散々な言われようだった。その全てに言い返せないのがまた腹立たしい。
「……なら俺を匿ってても無駄でしょ。定期接種に行けばいいじゃん」
「あっ、拗ねてる! 可愛いっ」
依子さんが身を乗り出して俺の頭を撫でる。
そこでようやく、自分が感情そのままを口走っていたことに気付く。
「ち、違うからっ」
急に恥ずかしくなった俺は、依子さんの手を押さえてなでなでを止めさせる。依子さんは一瞬不満そうにしたが、すぐにこやかに笑った。何だかこそばゆくて視線を逸らす。
――……半妖のことをなじられるのは慣れてるはずなんだけどな。
いくら悔しくても辛くても、嘲りには愛想笑いで誤魔化してきた。それが無事に済む方法だったから。でも今は素が出てしまっている。話相手が依子さんだから、だろうか。
「一応言っておくけど」と依子さんは脱線した話を戻す。
「私だって、たーくんが保護観察対象にならないと困る。安全が確保されないと彼氏兼非常食も続けられないし。認められたら私が監視役として常に見張る名目で一緒に暮らせるし。監視役になるための裏工作も進めてるし。待つって言ったのもそれ前提だし。だから頑張ってたーくんの過去を洗ったんだよ?」
私情しかない感じですが大丈夫ですか依子さん。
更に言えば保護観察すべき対象なのにやっぱり非常食として使うらしい。
なんかもう突っ込むのも面倒になったが、一つ言えるのは、ほんと依子さんらしいということだ。
「でもね、ここにきて流れが変わったんだ。たーくんはおそらく、ううん、確実に保護観察対象に認められる。というより、研究対象と言ったほうが正しいかな」
「研究対象?」
「呪符の効果を打ち破ったことが関係してる。呪符は精錬された妖力を複雑な真言体系で編み込んだものだから、打ち消すのは簡単じゃないの。そんなことができるアヤカシは一握りしか存在しない。だから、それができるたーくんを組織が放って置くはずがない」
ぞわりとした感触が背筋を通った。俺は自分の掌を見つめる。一見して何も変わっていない。けれどこの身体の奥に、得体のしれない何かが潜んでいるというのか。
「でも俺、そんな力があるって気付いたのは本当にさっきなんだ。今まで何か感じたこともない」
「うん、そこは疑ったりしないよ? たーくんの過去を調べてもそんな遍歴はなかった。多分どこかの段階で自然に芽生えたものじゃなくて、先天的要素があるのを隠されてたんじゃないかと思う」
隠されていた。その一言で、幼少期の光景が蘇る。
優しくも苛烈だった母。厳しくも信頼できた叔父。その二人が俺に対して出生の真相をぼやかし、何かを隠していることは肌で感じとっていた。けれどそのときは幸せだったから、俺は真実など後回しで過ごしていた。
散々苦しんできた過去だが、今ほど胸を締め付けられたことはない。
「たーくん自身でも把握できない特殊な素養があるなら私達はそれを放っておけないし、こちらが知らない未知の能力っていう可能性もある。それをアヤカシ達が意図的に作り出したのなら、尚更に」
「……」
「それにね、たーくん。あなたの出生はいくら調べても掴めなかったんだ。ある日突然、人社会に紛れ込んだのがわかっただけ。だから、たーくんの力の源を調べることで生まれた背景もわかるかもしれない」
依子さんの声に耳を傾けながら、俺は自分の中へと深く沈み込んでいった。
正直なところ、今更生まれた経緯なんて知りたいとも思わない。大切だった家族はもう失われている。単に思い出に華を添えるだけだ。
でも、もしも母達が俺に何らかの力を与えてくれていたなら。それは母と俺の繋がりでもある。
一つだけ確固たるものを掴んだ。それを伝える前に確かめたいことがあったので、返事を待つ依子さんへ顔を向ける。
「つまり、実験動物扱いになるってことかな」
「そんなことは絶対にさせない」
強い口調にドキっとする。依子さんはかつてないほど真剣な眼差しを送っていた。
「たーくんの能力が何であろうと、不自由を強制するような真似はさせない。私が全力で止めるから」
「依子さん……」
「じゃないとせっくすできない」
そんなことだろうと思いました。
「ただ、あなたの力は呪符を無効化するみたいだから、物理的な移動制限を課すと思って。軟禁みたいな感じ。監視もされるはず」
「ああ、食べられなくなるってそういう事情?」
依子さんは渋面で頷く。不本意だとまざまざ現れていた。
「非常食にはできないし、たーくんも嫌がってるみたいだからそこは我慢する。でもあなたと離れるのだけはいや。能力の調査状況によるけど、たーくん自身に反抗の兆しがなければ私の管理下に置くこともできる。素行調査という名目でたーくんの家に上がり込んでイチャイチャできる。何なら怪しい素振りがあるって監視目的でっちあげて同棲に持ち込んでやる。邪魔する奴がいたら殺す」
依子さんの目がぐるぐる回っているように見えるのは気のせいだろうか。
俺は苦笑いしつつ、内心で伝えるべき言葉を彷徨わせていた。依子さんは本気で俺との未来を考えているだろうし、今の話も実現させるだろう。
俺は、その意気込みに水を差さないといけない。
「……まだ、そっちに従うとは決めてない」
勢いづいていた依子さんがピタリと止まり、ゆっくりと双眸が細められる。収まっていた怒気が噴出し始めた。
「どうして」
「もし俺の中に特別な力が眠ってるとしたら、それは母さんから貰ったものになる。アヤカシ喰いに渡すことには、ためらいがある」
「じゃあ死ぬ?」
銀の光沢を持つ三叉が右目の前にあった。依子さんは手に持つフォークを右の眼球スレスレで停止させている。数ミリでも動けば、眼球が串刺しになる。
「死ぬ、か……母さん達のためなら、それもありかもしれない」
一人残されてから、なぜ生きてるんだろうと何度も考えた。死ななかったのは、死ぬ勇気も理由もなかったから。ただ居場所を探して無意味に生きた。
そこに誇りと贖罪が足されるなら、俺の死にも意味ができる。
けれど、目の前の少女の瞳に悲しみが浮かんだことで、感情が揺らぐ。
「ただやっぱり、依子さんのことも……意識してる。気兼ねなく君を抱けたらって、考えてしまうくらいには」
む、と依子さんが呟く。若干頬が緩んでいるが、崩れる寸前のところで耐えている。
「なので、俺の決断は変わらない。考える時間をください。君と一緒に生きるのか、君に殺されるのか。それを決める」
依子さんは返事をしなかった。黙って俺を見続けた後、おもむろにフォークを下げて残っていたケーキに突き刺す。そして黙々とケーキを食べ始めた。
沈黙が針のむしろのような居心地にさせる。乾いた喉に唾を飲み下して待っていると、食べ終えた依子さんが「一週間」と厳かに告げる。
「毎日たーくんの血を飲んだとして、生体侵食を抑えられる限界がそれだけ。右院支部も一週間は行動を起こさないはず。超えるともう駄目だから」
金縛りが解けたように緊張感が和らいだ。一週間という短さでも贅沢は言えない。むしろ普段の彼女を思えば寛大すぎるくらいだ。
「ありがとう、依子さん」
「その代り私はたーくんを逃がすつもりはないから。死ぬことを選ぶなら潔く食べてあげる。あとその前にせっくす」
致した後で首を斬り飛ばされる場面を想像してしまった。シュールすぎる。
まぁどうせ死ぬんだから、そこは罪悪感を抱く必要もないだろう。
「それでもいいよ」と告げると、依子さんは嘆きたいのか笑いたいのか曖昧な表情でため息を吐いた。
「たーくんも割と屈折してるよね」
「そ、そうかな」
「そうよ。ま、しょうがない。惚れた方が弱いってよく言うもん」
そう言って依子さんは肩を竦める。
果たしてそれはどちらに当てはまるのだろう。
「じゃ、話もまとまったしとりあえず始めようか」
一転して依子さんがにこやかに笑い始めた。彼女の手には、どこから出したのか数枚の呪符が握られている。
見間違えでなければ、座敷牢の呪符と同じ模様だ。
「耐久試験。何枚無効化が続くのか試してみるね?」
「えっ、ちょ」
俺はすぐに腰を浮かす。しかし逃げ出す前に依子さんに首根っこをむんずと掴まれた。
「ま、待って心の準備が!」
「これくらい逃げた罰としては軽いほうだよ、たーくん」
訴えは無視され、地獄の耐久レースが開始された。
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