終わりを告げる依子さんとの生活
△▼△
キッチンで洗い物をしながら耐久試験のことを思い返し、俺は身震いした。あれはおぞましい体験だった……。
結論として、座敷牢の呪符は何枚でも無効化できた。ただし完全に無効化できるわけではなくて、接触した瞬間の麻痺は必ず発生する。つまり麻痺機能は停止せず細胞破壊機能だけ免れるという、なんとも中途半端な能力のようだった。
そのせいで全身の感覚がなくなるほど身体は疲弊したし、十枚目を超えた当たりから記憶がない。気づいたら依子さんの膝枕で寝ていた。
しかも彼女は「やっぱり能力の正体はわからないねー」などと呑気に呟いていて、熱心に調べるつもりがまるでなかった。ほとんど痛めつけられるだけで終わった。
何となく、依子さんのお仕置きレパートリーが増えた気がして俺は戦々恐々としている。
ただこの手の試験については、アヤカシ喰いの組織に身を委ねることになった場合でも同様に行われる。さすがに身体を刻まれたりベットに固定されたまま動けなくなるという人権(アヤカシ権?)を無視したやり方はしないと依子さんも否定していたが、各種検査に実験にと、俺の力の源泉が判明するまで人間の手で弄くられることになる。
それは屈辱だし、アヤカシの力が人間達の手に渡るのにも抵抗感がある。
では、協力を拒んだ場合はどうなるか。
待ち受けるのは、死だ。
「……どうするかなぁ」
キッチンに立ちながら独りごちる。その声に反応するような存在は室内にはいない。
依子さんは任務があるのかまた朝から出かけていた。夕方を過ぎているので、そろそろ戻ってくるだろう。
彼女とこの部屋で暮らす生活は何があろうと、あと数日だけ。
それまでに俺は、依子さんを選び人間達の中で生きるのか、それとも彼女に喰い殺されるのかを選ばなくてはいけない。
水道を止めて、濡れた調理器具を布巾で拭う。ぼんやりと天井を見あげても、浮かんでくるのは選択のことだ。
この部屋に連れてこられたときも依子さんに襲われたときも、死にたくないと思った。死ぬのは怖かった。
でも、生きる目的があったわけじゃない。誰にも認められず自分の罪を悔い続けて消えることが、何も残せないことが無性に怖かっただけだ。
今は少し違うように感じている。母から受け継いだ力があるなら、例え朽ち果てても守り通したことには意義がある。きっと母達も許してくれる。
俺は、アヤカシとしての矜持を保ったまま終わることができる。
以前の俺だったら死を選んだかもしれない。それくらい惰性で生きていた。
でも俺は今、割り切ることができない。彼女との「先」を考えてしまう。
依子さんと一分一秒でも長く一緒にいたい。彼女の笑顔が見れるなら組織で飼われる屈辱にも耐えられる。
依子さんがいるなら、他にはもう何も要らない。
――……惚れてるんだな、俺。
意識するとかーっと頬が熱くなる。咄嗟に洗い場で顔を洗ってしまった。
冷たい水で高揚する感情を一端落ち着けると、口からため息が漏れる。
どちらも俺にとって大切なものだ。どちらか選ぶなんて、本当にできるのか?
……いや、選ばなければいけない。依子さんのためにも。
彼女は、俺が決断を下すと信じている。その証拠に玄関にはもう<座敷牢の呪符>は貼り付けていない。効果が無いこともあるが、俺の言葉を疑っていないからこその措置だった。
そこまで信頼されて逃げたとあれば、俺は最低最悪の男にまで墜ちる。
「……それにしても遅いな」
壁掛け時計を確認する。とっくに夜の時間帯だ。いつもならもっと早く帰ってきてもおかしくない。
なにかあったのだろうか?
――もしかして、組織の人間と会ってるとか……。
依子さんは、一週間程度なら組織も動かないと推測していた。それはあくまで彼女の見立てだ。もっと早くアクションを起こす可能性は否定できない。
だとすれば依子さんは今、接触してきた人間を宥めすかして追い返しているのだろうか? あるいは……。
妙な胸騒ぎがした。部屋から出るつもりはなかったが、探しに行った方がいいかと迷う。
悩んでいると、玄関からギイと微かな物音が聞こえてきた。どうやら帰ってきたみたいだ。俺は水滴の残る顔を袖で拭って、廊下まで出迎えに行く。
いつもならそこで、タックル同然の抱きつきがやってくる。しかし今日は、走り寄る足音が聞こえてこない。
「依子さん?」
廊下から玄関まで向かう。そこで、我が目を疑った。
依子さんが、玄関ドアに背を預けて座り込んでいる。
その身体は赤く染まっていた。
返り血、じゃない。制服が無残に裂かれ、彼女の肌から血が流れ出ている。
「依子さん!?」
慌てて駆け寄った。しゃがみ込んで玄関に倒れる彼女の肩を抱く。長い睫毛を伏せていた依子さんは、ふーふーと苦しげに息を吐きながら俺に虚ろな目を向けた。
「……たー、くん」
「何があったの!?」
「に……げて……」
蚊の鳴くような声で告げて、依子さんはうなだれた。意識朦朧としている。息をしているのがやっとな感じだ。
逃げて、と依子さんは言った。常日頃の彼女の言動と比べれば非常事態宣言にも等しい。
だけど、まずは彼女の身体のことが先だ。全身を簡単に確認する。怪我をしていない箇所がないと思えるほど体中に裂傷が刻まれていた。口の端にも吐血の形跡がある。見えないだけで、骨や内臓を痛めているかもしれない。
何よりも出血の量が多すぎる。人間の身体なら危険な状態だ。
「依子さん! 起きて依子さん! 逃げろってどういうこと!?」
軽く頬を叩いても彼女からの返事はない。
焦燥が膨れ上がる。手当をすべきかと思ったが、この部屋にはろくな治療道具がない。逃げろという言葉も警戒心を最大に引き上げていた。
もし何かと戦って負傷したのであれば、その相手が近くにいる恐れがある。
「ごめん、少し痛むかもしれないけど」
俺は依子さんに背を向けて、彼女をそっと背負い込む。華奢な身体は、血液が失われているせいかいつもよりかなり軽い。
彼女を背負ったまま玄関を開けてマンションの廊下に出る。とにかく治療できるところに運ばないと。
そうして共同玄関まで走ろうとした瞬間。
耳をつんざく爆発音と共に、閃光と衝撃が襲いかかった。
吹き飛ばされて廊下の壁にぶち当たる。咄嗟に依子さんは庇ったが思い切り顔面を打ち付けた。視界に火花が散って肉のひしゃげたような音がした。
地面に落ちたところで粉塵と瓦礫が降りかかる。視界が暗く染まって周囲が見えない。口の中を切り鼻骨も折れていて、血の匂いと味だけを感じていた。
「ぐっ、う……依子、さん……!」
手探りで彼女を探す。制服の端らしきものを掴んだ。確認もせずに抱き寄せる。
依子さんはきつく瞼を閉じてぐったりとしていた。顔色も悪く、完全に気を失っている。
俺は奥歯を噛みしめて依子さんを抱きかかえる。それから黒煙を吐き出す爆発跡へ目を向けた。
依子さんの部屋があった場所は根こそぎ破壊されていた。玄関ドアは跡形もなく吹き飛ばされ大穴が空いている。廊下の奥は粉塵に包まれてなにも見えない。
それでも、俺は感じ取っていた。
誰かが、こちらを見ていることを。
即座に非常口まで突っ走った。ドアを強引に蹴破って外に出る。依子さんを抱えたまま跳躍し、非常階段を使うことなく地面に向かう。ビル三階分くらいの高さだがこれくらいは余裕だ。
人気の無い駐車場に降りて道路に出ると、デザイナーズマンションの周辺には騒ぎを聞きつけた近隣住民達が集まっていた。彼らの視線の先には、ベランダが完膚なきまでに破壊された角部屋がある。何者かの手によって外側から破壊されたことは明白だった。
そのとき視界に、あるものが映った。
背筋を悪寒が走り、冷や汗が湧き出る。
無残な破壊現場のほど近くに立つ電信柱の頂点に、一人の男が立っている。
髪をオールバックにした男は依子さんの部屋を凝視している。ブランド物の革靴に白スーツという奇抜な出で立ちで、小さな面積しかない頂点部分に立っていながらも揺らぐどころかまったく姿勢を崩さない。
あまりにも異様な光景だが、何より驚くべきは、周囲にいる人間が誰一人その男に気づいていないことだ。
息を飲んだ瞬間、ギョロリと男の目が動いた。満月のように丸く光る黄金色の目が、野次馬を通り越して俺へと突き刺さる。
まるで死神に見初められたような気がした。
恐怖に駆られ、男に背を向けるようにして走った。アレは人間じゃない。
――アヤカシだ……! あいつは、依子さんを狙ってきてる!
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