変わる依子さん
依子さんの手が俺の喉を掴み、ぐっと爪を食い込ませる。激痛と共に呼吸を堰き止められた苦しさが襲う。
「かっ……!」
依子さんの腕を掴んで引き剥がそうとしたが、ビクともしない。いくら力を込めてもアヤカシ喰いの膂力に負ける。
更にもう一本の手が俺の喉を掴んだ。両手で締め上げられ上半身が勝手に仰け反った。彼女の腕を叩いたり払おうとしても、あざ笑うかのようにますます力を込めてくる。
「……どうして、ここまで待ったんだろう」
依子さんが呟く。瞳孔の開いた黒瞳が俺を捉える。鈍い光を宿す黒水晶の鏡面に、俺の苦悶の表情が映っていた。
「幸せなことなのに……大好きな人を、いつも感じていられるのに」
依子さんが舌なめずりする。汗をびっしりとかいた顔に浮かぶのは、激痛を堪える苦悶の表情ではない。そこには、何日かぶりの獲物にありつけた獣の喜悦があった。
「食べたい……食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べよう食べよう食べよう食べよう食べようたーくんを食べよう」
狂喜を滲ませ依子さんが嗤う。
母と叔父を喰い殺したアヤカシ喰い達と同じ顔が、そこにあった。
心の底に押し込めた恐怖が這い出る。
「……ぁああああっ!!」
俺は無意識に擬態を開始していた。内側に眠る妖力を揺り動かして細胞組織を活性化させ、アヤカシの肉体へと改変させる。身体は膨張して腕が膨れあがり、アヤカシ喰いの膂力にも拮抗した。彼女の黒い瞳に映る俺の頭髪は、銀色に変化している。
押し返すことで彼女の手が一瞬首から離れた。強引に上半身を起こして依子さんを撥ね除ける。拘束から脱出した俺はすぐに後方へ走った。
「逃げるなぁ!」
背中に衝撃を受けバランスを崩した。再び押し倒される。床に顔を打ち付け視界にノイズが走る。背中に跨った依子さんが俺の後頭部を手で鷲づかみにして床に押し付けた。横を向いたまま首が動かせなくなる。
「駄目だよ……たーくん。私、幸せになりたいの。あなたを切り刻んでバラバラにして少しずつ少しずつ溶け合いたい。何日もかけて私の血肉にして、この思い出を永遠に残していたい。そうすればたーくんとずっと一緒。それが私の、幸せ」
横向きに押しつけられた俺の眼前に、大振りのナイフがぬっと現れる。
解体される様が浮かび上がり、恐怖が増幅される。
――嫌だ嫌だいやだっ……!
自分がいつか喰われることはわかっていた。けれどいざそのときになると、納得なんか全然できていないことに気づく。まだ、死にたくない。
拘束から逃れようと必死にもがく。けれど依子さんは微動だにしない。彼女の体重は随分と軽いはずなのに、抑えつける力が強すぎて無駄な抵抗でしかなかった。
そのとき、身体から力が抜けていくのを感じた。擬態が終わったんだ。今まで幾度も練習してきたけれど、やはり未完成のままだった。
この窮地でも俺は、アヤカシになれない。
信じていたものがぷっつり切れて、絶望が心を侵食していく。
「さぁ、一緒になろう?」
ナイフが消える。依子さんが腕を振り上げていた。程なくして、命を絶つ痛みが来るだろう。
心が真っ白になった。これが俺の運命なのだろうと、唐突に受け入れられた。捕食される動物たちも、最後はこんな感覚に陥るのだろうか。
――でも。生きてる間に、アヤカシの姿になってみたかったな。
締まらない最後だった。そんな自嘲を思い浮かべて、俺は目を閉じる。
衝撃も痛みも、やってこない。
「……食べたい……食べたい……食べ、たい……のに……」
か細い声が聞こえた。俺は床に頬を押しつけられた状態で、限界まで背中側に目を向けて様子を確かめる。
依子さんはナイフを振り上げた姿勢で止まっていた。
彼女の反対の腕が、ナイフを持つ腕を掴んでいる。
「食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたくない食べたい食べたくないたーくんを食べたくない私は食べたくない好きだから食べたい食べたくないもっと一緒にいたいからずっと一緒に、ううぅ……!」
ナイフを握る手が開く。ナイフは垂直に落ちて床に突き刺さる。彼女の両手は自分の頭を掴んでいた。
どういう訳か知らないが、動きを止めている。俺はハッとして、腰を強引に浮かしてから腕で思い切り突き飛ばした。依子さんは防御もせずまともに受けて床を滑り、本棚にぶち当たる。
たくさんの本が落ちて依子さんに降り掛かった。それでも彼女は床に伏したまま動かない。
「はっ、はっ、はっ……!」
貪るように呼吸を繰り返しながら、俺は部屋の出入り口まで後退する。恐怖と混乱に塗りつぶされていた思考がようやく働き始める。
今の依子さんは、普段の彼女じゃない。冷静さは欠片もない。何か異変が起こっているんだ。
でも俺には、変貌した原因がわからない。これでは対策のしようもない。
もし依子さんが治ることなく、このままだったら。
退路のない俺は追い詰められて、依子さんに喰われる。
自分の首が切断される想像をして息を飲んだとき、床に積もっていた本が動いた。
依子さんが這うようにして俺の元へ近づいてくる。長い黒髪を垂らして顔の半分を隠し、軟体動物のようにゆっくりと進む。
「たーくん……たーくん……ねぇ、たーくん……どこにいるの……」
依子さんの虚ろな目は俺を捉えている。なのに、まったく気づいていない。
彼女の聡明さや愛嬌は失われ、全ては鈍く醜く変色していた。
もう、依子さんじゃない。
そう感じた瞬間から、この少女と同一空間にいることが耐えられなくなった。
「ううっ……!」
彼女を置いて自室へ駆け込む。しかしそれ以上はどこにも逃げ場がない。部屋に閉じこもろうにも薄いドアなんてすぐに打ち破られる。
「……たーくん」
リビングから声が聞こえた。這って動いているとはいえ、もうすぐにこちらまでやってくるだろう。
焦燥が膨れ上がる。もう逃げ道はないのか……?
いや、よく考えれば一つだけあった。
部屋を出て玄関に向かう。リビングの床を這う少女には目を向けないようにして。
全速力で廊下を駆け抜け玄関に辿り着いた俺は、そのドアノブを凝視した。
握れば全身麻痺、強引に開ければ肉体が破壊される。修復能力のない俺は致命傷を受けた瞬間に死ぬだろう。逃げるどころではない。
けれど背後からは捕食者が迫っている。待っていても殺されるだけなら、一か八かに賭けるべきだろうか。
無謀な挑戦に思考が傾き始めていたとき、ふとドアの上部が気にかかった。
視線を向けた瞬間「あっ」と声が漏れる。
赤い朱文字が書かれた呪符が、半分ほどぺろりと剥がれていた。付着力が弱っているのか?
半分剥がれたところで威力に変化があるとも限らない。でも、俺の背中を押すには十分だった。
意を決して、ドアノブを握る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます