依子さんの隠し事
『四番隊三十六号。応答が確認できないため電信記録を残す。通達を受理後、この記録は速やかに廃棄し端末浄化を行うように』
女の声だった。抑揚のない音声は淀みなく続く。
『
録音はそこで終わった。俺は、すぐには動き出せなかった。
四番隊三十六番。魔臓宮の生体侵食。定期接種。一般人とみられる人間。規定の処置……様々な単語が脳内を駆け巡る。
中でも、一般人の人間という言葉に胸中がざわついた。
話を全て理解したわけではないが、依子さんが巻き込まれた公園での戦いに言及していたように思う。
だとすれば一般人というのは、俺?
十中八九、電話の主はアヤカシ喰いに関わる人間だ。その人物が知らないとなれば、依子さんは俺のことを仲間内に報告していないことになる。
なぜだろう。ぱっと考えつくのは、非常食として囲うから、という依子さん側の個人的理由だった。そもそも半妖の俺を捕まえておくのは問題行為で、だから黙っているとか。
でもそうなると、依子さんは咎められる可能性を認識していたことにもなる。そんな危険を冒してまで、俺を求めた……。
それに電話の主の雰囲気も気になった。まるで機械のような話し方の女だったが、感情がなかったわけではない。
音声から感じられるのは、叱責にも似た戸惑いだ。
依子さんは、何かを隠している。俺にも、そして仲間にも。
△▼△
「ただいまたーくん!」
「おかえり依子さごふぉ」
帰宅を待っていた俺に依子さんが突貫、もとい抱きつく。毎度のことながら勢いが良すぎてタックルを受け止めるみたいだ。アヤカシ喰いの力をもう少しセーブして頂けると幸いです。
なんとか依子さんを抱きとめると、彼女は俺の胸板に顔を埋めてすーはーすーはーと匂いを嗅いでいた。同棲してわかったが、依子さんは割と匂いフェチだった。
俺は彼女の気が済むまでしばらく好きなようにさせた。けれど、日中の電話の件が頭をちらつく。
「あの、依子さん」
「なに?」
依子さんがぱっと顔を上げた。まどろみの中にいるような、柔和な笑みを浮かべている。
俺は逡巡した結果、静かに首を振った。
「ごめん、なんでもない」
「変なたーくん」
小首を傾げる依子さんに、俺は曖昧な笑みを向ける。
電話を聞いてしまった件は不可抗力だから、伝えても支障はないかもしれない。けれど俺は、何となく黙っておいた。今の依子さんをそのままにしておきたい。わざわざ物騒な空気にして緊迫することもないだろう。
どのみち留守電を聞いた彼女の方から俺に確認してくるはず。
でも、きっと依子さんは何も教えてくれない。
「たーくんが気にする必要ないよ」と、誤魔化すように切り上げて。
仕方がないとはいえ、妙に落ち着かない気分だ。
「あっ、そうだ。たーくんが働いてたお店のいちごムースケーキって、たーくんは作れる?」
「喫茶店の? どうかな。店長が作ってたし……」
「駄目?」
期待の眼差しをこめて依子さんが見つめてくる。この可愛さ、というより後ろに控えた危険性を考えれば無下にはできない。俺は鷹揚に頷いてみせる。
「レシピは知ってるから、材料があれば何とかなるかも」
「食べたいな」
「じゃあ、依子さんのために頑張るよ」
依子さんは満面の笑みを覗かせる。
この少女はいつも変わらず奔放で、勝手で、そして俺の行為に大きく一喜一憂する。今まで出会ったどの人間やアヤカシよりも、俺を翻弄する存在だ。
そして翌日、俺は更に心を掻き乱された。
△▼△
目が覚めると、真新しい白い天井が視界に映る。この部屋に来てからそれなりの日数が経過しているので、もう違和感はない。
俺は目をこすりながら、布団の横に置いていた着替えを手繰り寄せた。のろのろと寝間着のTシャツ短パンを脱いで洋服に着替えながら、部屋の中を見回す。
殺風景さは少しずつ軽減され始めている。簡易的な棚や着替え用の収納ボックス、料理のレシピ本が揃えてあるだけでも生活感があった。
正直、居心地は悪くない。橋の下や廃ビルに住み着いていた頃を思えば上等な住処だ。テレビやネットは使えないけれど、元々人間社会の世情には疎いのでなくても問題はない。
この部屋は、時間の進みも穏やかだ。住む街を次々に変えていたときは一日があっという間に終わった。引きこもって料理を作っていれば済むという状況が大きいのだろう。
――こういうのを、世間ではヒモっていうんだっけ……。
そう考えてすぐ、俺は苦笑いしてしまう。女性に優しくする変わりに生活の面倒をみてもらうのがヒモだとするなら、ある意味で俺も同じ存在だ。
自分のために全力で相手を籠絡し喜ばせないと、彼らだって飽きられ捨てられてしまう。
異なる点は、自分の意思でやめられること。
そして、結果が死に直結しているかどうかだ。
――……やっぱり違う、かな。
似ているだけで、悩みの次元が明後日の方向に行っている。俺と同じ人がいるはずもない。
諦観混じりのため息を吐いて扉を開ける。今日も依子さんは、朝から元気に俺を翻弄するだろうな。
「あれ……」
しかし、リビングに依子さんの姿はなかった。
普段なら俺より早く起きて読書をしつつ、こちらが目覚めるのを待っているはずなのに。昨晩から動いた形跡のない椅子の背に触れて、ふと玄関の方に目を向ける。
――もう外に出た?
思い出すのは留守番電話の件だ。呼び出しを受けていたから、俺に確かめる前に出ていった可能性もある。
そう考えたとき、俺の聴覚は依子さんの寝室の物音を捉えた。
「……っ……ふ……」
微かな声と、息遣いが聞こえた。まだ寝室にいたのか。
しかし、呼吸音が妙に早い。全力疾走後のような乱れ方に近い。
俺はゆっくりと彼女の寝室に近づいた。薄暗い部屋に一歩踏み込んで、ベットの方へ向く。
「依子さ――」
彼女の姿を見て、息が詰まった。
依子さんはベットの上に座り、腹部を押さえて体をくの字に折っていた。キャミソールにショーツという就寝用の姿は普段どおりだが、俯いたその顔には玉のような汗が浮かんでいる。奥歯を噛み締めて閉じた口からは、抑えきれない呻き声が漏れていた。
明らかに、苦しんでいる。
「うううっ……!」
声が一層大きくなる。腹を押さえる手に血管が浮かぶ。
依子さんに何かが起こっていた。頭ではそう理解しても、突然の変貌に動揺して声が出てこない。
「……たー、くん?」
消え入りそうな声で依子さんが俺を呼んだ。それからゆっくりと顔を上げる。
ゾクリと、背筋を冷たいものが走った。
苦痛で顔を歪める依子さんのその目だけは、まるで狩りを前に身を潜める肉食獣の如く爛々と輝いている。
「……ああ、美味しそう」
依子さんの姿が消えた。
次の瞬間、視界がぐるりと回って、俺は後頭部と背中に鈍痛を感じた。仰向けに倒された衝撃で一瞬の呼吸困難に陥る。
その混乱の中で、依子さんが俺に馬乗りになった。
彼女の手が、俺の喉を鷲掴みにする。
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