依子さんとの日々
それからの生活は、一応は平穏に過ぎていった。
依子さんに頼んで一通りの調理道具を入手した俺は、毎食分の料理を作り続けた。毎食弁当ばかりという事態を回避したかったのと、一日中部屋に閉じこもって本を読むのは性に合わないというのが主な理由だが、やっぱり手を動かしていると気分転換になって良い。
それに依子さんへの効果も抜群だった。彼氏の手料理は依子さんの乙女心をうまくくすぐったようで、彼女はほとんどの日々を上機嫌に過ごしていた。
まぁたまに対応を間違えて腕を折られそうになったり足払いされて腰を打ったり首にナイフを突きつけられて薄皮が切れる程度はあったけど、五体満足なので良しとしたい……決して飼い慣らされ始めているわけではないです、はい。
もう一つ嬉しい副産物もある。夕食当番になったおかげで、依子さんが俺との風呂を諦めてくれた。「一緒に入りたいけど調理に時間もかかるし我慢するね」と自分から言いだしたのだ。
毎日風呂を共にするのはさすがにきついと内心びくびくしていたので、願ったり叶ったりな提案だった。依子さんが俺の料理を気に入ってくれた側面もあるだろう。そう思うと、不味いものは出せないなというプレッシャーも増える。
しかし依子さんもただ引き下がったわけではなかった。
「一人でお風呂に入るけど絶対に覗かないでね? 覗いたら怒るからね?」
夕食を作っている最中に、依子さんはそう念を押してきた。
振りなのかどうか、俺は真剣に悩んだ。
覗かないと逆に怒るかもしれないし、本当に駄目という線もある。
判断がつかず沸騰する鍋を見つめて唸っていたとき、依子さんは防水対策を施したピンク表紙の本を持ってバスルームに入っていった。
あっこれ駄目なやつ。俺はそう確信した。
予想通りというか、依子さんはバスルームの密室でこそこそと作業を行っていた。時折聞こえてくる「なるほど、この握り方が気持ちいいと……挟むときこうして」という声が内容を示唆している。
俺は聞かなかったことにして、調理に専念した。
それ以外で、依子さんの生活リズムが変わることはなかった。
毎日どこかに出かけて夕方に帰ってくる。行き先も内容も、彼女は決して口外しない。話しかけてくるときは、決まって取り留めのない雑談だ。
「ねぇたーくん。米国債って売ったらいけないのかな?」
「ねぇたーくん。ミームってどうやって始まるんだろうね?」
「ねぇたーくん。料理のときメイラード反応は気にする?」
これを雑談と呼んでいいか迷うところだけど、俺は依子さんが振ってくる話題に四苦八苦しながら付き合う。まるで先生と弟子のようなやり取りは、誰かが見たら眉をひそめる光景だろう。
でも俺にとって、このやり取りは慣れたものだった。依子さんは出会ったときから身の上話でも世間話でもなく、彼女の博識からこぼれ落ちる興味や疑問の塊を俺に投げかけてきた。
同じような会話でナンパ目的の男達が撃沈する姿をよく見たが、俺も店員でなかったら根気よく対応していなかったかもしれない。
逆にいえば、その体験のおかげで生き永らえている。
何にせよ、依子さんの信用を損なう態度は回避したい。怪しまれれば、せっかく記録を始めた行動も無駄になってしまう。
俺は自分のレシピノートにこっそりと、本に記されたアヤカシに関する文章を書き留めていた。覗かれる可能性もあったが、それが記録できる唯一の方法だ。
結局のところ、なぜ俺が特殊なページを見れるのかはわかっていない。ただ依子さんが気づいていない現状、理由を調べるよりも情報を写すほうが先決だった。
依子さんがいないときは記録と料理を繰り返し、彼女の帰宅後は雑談に付き合う。そんな他愛のない日々が続いていく。
だけど、こんな生活にもいずれ終りが来る。
自分の行動がバレた瞬間かもしれないし、非常食としての役目が訪れたときかもしれない。
あるいは俺が脱出して、アヤカシ達が彼女を殺す日が来るかもしれない。
どんな末路にせよ、俺にできることは、依子さんの彼氏役を続けることだけだ。
△▼△
依子さんとの同棲を始めて数日後、俺が料理の下ごしらえをしているときだった。
突如、甲高い電子音が響いた。
急に発生した音に、俺は文字通り飛び上がりそうになった。すぐに室内を見回して、その音が依子さんの自室から鳴っていることに気づく。
「なんだ、この音……」
調理の手を止めて、唾を飲み込む。ピー、ピーと電子音は間断なく鳴り続けている。こんな音を聞くのは初めてだ。
この部屋は通信機器が使えないだけで、電子レンジなどの電子機器の使用は問題ない。たとえば、目覚まし時計が鳴っているという可能性もある。
俺は不気味なものを感じながらも、そろりと依子さんの寝室に入った。電子音は更に大きくなっている。やはりここが出処のようだ。
ベットを確認してみるが、目覚まし時計らしきものは見当たらない。ではどこから、と耳を澄ませて、ベットと床の隙間から聞こえてくることに気づく。
俺はしゃがみ込んでベットの下を覗いた。
腕が入るかどうかという薄暗闇の隙間の奥に、電子音を奏でる物体がある。
「……電話?」
音を鳴らしているのは何の変哲もない黒い固定電話だった。
疑問符が浮かぶ。通信機器は使えないはず。こんなベットの下に置いておくのもおかしい。
電話は鳴り続けている。とりあえず引っ張り出してみようかと考えたところで、俺はその試みを諦めた。暗闇でもよく物を見通す俺の視力が、受話器に朱色の呪式が書き込まれているのを発見した。迂闊に触らないほうがいい。
――放って置くしかない、よね。
電話を隠しておいた意図や、通信機器が使えないという説明は虚偽だったのかと釈然としない気持ちになるが、下手に動くわけにもいかない。また機会を見て調べようと立ち上がったとき、電子音が止んだ。
代わりに留守電に切り替わる。
相手の音声が、本体から流れた。
『四番隊三十六号。応答が確認できないため電信記録を残す』
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