倒れる依子さん
「ぐううううううううっ!?」
激痛が電流の如く全身を貫いた。まるで燃えさかる炎に飛び込んだようだ。
意識が混濁して吐き気がこみ上げ、次に倦怠感が襲う。身体に力が入らず膝をつく。ピリピリした痺れに覆われる全身は、自分のものではないかのように感覚が鈍くなっている。想像以上に麻痺の力が強く、息を吸うのも辛い。
それでも俺は、ドアノブから手を離さなかった。
あとは開けるだけ。腕が吹き飛ぶくらいなら、まだ逃げられる。それ以上ならここで死ぬ。
もはや痛みに対する抵抗感も麻痺し始めた。
だから俺は、躊躇いなくドアノブを回す。
「――……なん、で」
腕は、無事だった。
破壊された個所はどこにもない。変化を感じることすらなかった。軽く押せば、ドアは簡単に開いてしまう。
疑問を通り越して異様なものを感じたとき、背後から声が聞こえる。
「たーくん……どこ? たーくん……」
全身が総毛立つ。俺は反射的にドアを開けていた。
目の前には、何の変哲もないマンションの廊下が広がっている。
――外だ……っ!
あまりにも予想外なことが起こってパニック寸前だったが、この幸運を逃してはいけないと本能が急かした。俺はすぐに廊下へと踏み出す。
「……やだ……やだよ……たーくん」
ドアが閉まっていく。その向こうで、少女が必死に声を振り絞る。
「行かないで……本当に――」
最後まで聞くことなく、逃げた。
△▼△
全身麻痺の影響で身体の動きは鈍いが、それでも俺は足を引き摺るようにして必死に走った。一刻も早く遠くに逃げなければいけない。
問題はここがどこか、という点だ。彼女の部屋があったのはデザイナーズマンションの一角で、外に出てからも一軒家やマンションが連なる光景ばかり続いている。高級住宅街のような様相だが、特徴らしきものがなくて現在位置が把握できない。
記念公園から歩いて辿りつける距離とはいえ、俺は半妖で相手はアヤカシ喰いだ。人間の常識を超えた距離を移動しているかもしれない。
とにかくまずは自宅に戻ろう。有り金をかき集めてすぐにこの街を出る。追いかけて来れないような遠方まで移動して、しばらく身を潜めないと。
そんなことを考えつつも、心の底からふつふつと感情の波が押し寄せてきた。
――出られたんだ、俺……!
先程までの恐怖を払拭するように、解放感が染みていく。抑圧されていた反動からか自然に口角が上がっていた。
呪符の力が中途半端に終わった点は引っかかるが、あの部屋から抜け出た嬉しさを前にして霞んでいる。
俺はそこで、仕掛けが発動していない、という共通項から本を調べていたことを思い出した。まだ記録途中だったので少し惜しい。アヤカシ喰いの弱点や本拠地が判明することを期待していたが、今となっては確認もできない。
……そこまで考えて、気づいた。もっと重要な状況にいることを。
――俺は知ってる……アヤカシ喰いの住処を。
あのデザイナーズマンションの一室にアヤカシ喰いが暮らしている。
それはアヤカシの誰もが得られなかった貴重な情報だ。
――あそこに、アヤカシ達を送り込むことができる。強力な種族に頼めばアヤカシ喰いを捕まえることも、殺すことだって……。
本を調べるより、彼女を捕えて尋問するほうがよっぽど早く情報を得られる。何なら本だって回収できる。
逃げている場合ではないかもしれない。俺が脱走したことで住処を変える可能性が高い。その前に動かないと……。
考えているうちに幹線道路に出た。人の数も多い。標識を探すと知っている名称の道だった。とりあえず自宅の方角へ進む。
――でも、他に知ってるアヤカシなんて……縄張りも知らないし。
アヤカシの殆どが人界から離れて暮らしている。街に潜んでいるにしても巧妙に擬態して正体を隠している。協力した鬼達とだって、ほとんど偶然の接触だった。今から探して間に合うのか?
もし味方を得られたとしても、実際に奇襲するとなればアヤカシ達は容赦などしないだろう。捕獲されたら最後、あの少女は無事では済まない。酷い拷問を受けた後で無残に殺される。泣いて許しを請おうが、アヤカシ達は嘲笑しながら引き裂く。
足が、急に重くなった。同時に不快感がこみ上げる。
――なんで俺は、あの子の心配をしてる……?
彼女は俺を食い殺そうとした。何体ものアヤカシを屠った敵の一人でもある。
でも。拷問を受けてボロボロになった彼女を想像すると、砂漠のど真ん中に立っているような、途方に暮れた気持ちが芽生えてくる。
『行かないで……本当に、大好きなの』
不意に彼女の声が蘇った。本当は、最後の言葉まで聞こえていた。
忘れろ、気にするなと自分に言い聞かせても、こびり着いたサビのように脳内に留まり続ける。
次々と記憶の断片が浮かび上がる。それは身の竦む体験や苦痛の感覚、ではない。
他愛のない雑談や抱きつかれた感触や料理に喜ぶ彼女の笑顔を、まざまざと思い出している。
手作りの料理を美味しいと言われて、嬉しいと感じたことも。
『たーくん大好き!』
ついに足が止まる。道路のど真ん中に立ち尽くす俺を、人々が迷惑そうに見ながら避けていく。わかっていても動き出せず、俺は地面を睨み付けながら拳が白くなるほど握りしめた。
――俺は、どうしたんだ……?
霧に迷い込んだかのように自分の感情が不透明になっている。ただその中でも確かなことがあった。
俺は、俺が抱くアヤカシ喰いへの憎悪を、彼女に向けることができない。
そして、依子さんを置いてきたことに罪悪感を覚えている。
母と叔父を置いて逃げたときと、同じくらいに。
「ちくしょう……!」
突如悪態をついた俺に通行人がギョッとする。
人々を無視して、俺は再び走った。
△▼△
カーテンが閉め切られた薄暗い室内は、まるで地震でもあったかと思うほどに物が散乱していた。冷蔵庫は開け放たれ食材やサプリ類が床に散らばっている。周囲には生のまま齧った野菜の残骸が転がっていた。テーブル椅子は倒され、ガラスのコップも落ちた衝撃で割れ散っている。
その荒れたリビングに、一人の少女が倒れ込んでいた。キャミソールにショーツという下着姿でうつ伏せになり、艶やかな黒髪が肢体に垂れている。瞼をきつく閉じ眉間に皺を刻んだまま、ピクリとも動かない。
ギイ、と音を立てて玄関のドアが開いた。何者かが部屋に入ってくる。足音を消しているが、廊下を進む気配までは断ち切れていない。常日頃の少女ならば侵入者など一発で気づくところだが、意識を失う彼女はやはり起きなかった。
廊下から姿を現したのは痩せぎすの青年だった。リビングに入り、倒れている少女を発見するとその手前で立ち止まる。
物腰の柔らかい優男風の人相が、物憂げな表情に変わる。何かを堪えるようにぐっと奥歯を噛み締めていた。
意識のない少女は、視線を向けられていることに気づかない。しかしタイミングを合わせたように、ピクリと柳眉が動いた。
「…………たー、くん」
唇が微かに開き、聞き取れるかどうかというほどの小さな声が漏れた。
その声は青年の耳朶に届いていた。ビクリと肩を振るわせ、明らかに少女の声に反応していた。
青年は息を飲む。彼女を助け起こすこともせず凝視し続けた末に、盛大なため息を吐いた。
それから彼はアイランド型キッチンに向かい、収納部分を開ける。
取り出したのは、よく研がれた包丁だった。
青年は包丁を手に持って、ゆっくりと少女の元へ歩み寄る。
倒れ伏す彼女の顔の前でしゃがみ込み、包丁を振り上げた。
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