落ち込む依子さん
「たーくんは、私とのお風呂が嬉しくない?」
今にも涙が零れ落ちそうなほど瞳を潤ませて、依子さんは俺を糾弾するように睨み付けている。
そこに、今にも襲いかからんとするような獣性は感じられない。不満と怒りはあっても、普通の女の子らしい反応に思えた。
「私の身体に興味ないの?」
「え、う、いや」
「……このシチュエーションなら、たーくんから来てくれると思ったのに」
依子さんは視線を落とす。前髪が垂れて毛先が湯船に触れていた。
予想外の姿に、俺は二の句が継げなかった。てっきり「たーくん意気地なしみたいだから根性鍛え直すね?」と、流血沙汰になるのも覚悟していたのに。
目の前の依子さんは、落ち込んでいるように見える。
もしかして、傷ついている、のだろうか。
「……私の身体が変だったり汚かったら言って。治すから」
「いや! そういうわけじゃなくて!」
脊髄反射で答えていた。
おかしい。なぜか物凄く焦る。
「本当に?」
「はい、あの……依子さんの身体は、その、とっても綺麗で魅力的だと、思うでぷ」
恥ずかしすぎて噛んだ。本人を前に歯の浮くような言葉を伝えるのは流石に照れる。
一方で俺は、自分の慌てぶりにも困惑していた。ご機嫌取りという打算はあったけれど、それだけで反応したわけではない。
俺は、平静を装って彼女を傷つけたことに、後ろめたさを覚えていた。
本当はこんな気持ちになる方がおかしい。俺を脅し、殺すかもしれないアヤカシ喰いの少女が傷ついてるとして、それがどうした。
……でも、なぜか割り切れない。まるで固定していた家具の位置をズラされたような妙な気持ち悪さが渦巻いている。
対する依子さんは、批難めいた視線を緩めない。
「じゃあ、なんで興奮してくれないの」
「……えーと」
「私、本当の理由が知りたい」
「その、そう。初めてのお風呂だし、仲良く入りたいなーなんて」
依子さんは、にこりと微笑んだ。
「戯れ言が言えるほど余裕みたいだから鼻を削ろうか?」
ナイフの切っ先が鼻頭に突きつけられる。結局これかよ!
「ままま待って! 言うから!」
俺はハンズアップの格好で必死に訴える。依子さんは微笑んでいるが目がちっとも笑っていないし鼻先のナイフも寸分たりとも動かない。
下手な嘘をつけば俺の鼻の穴が切り開かれてしまう。
本音を聞かせる以外に彼女を止める手立てが浮かばなかった。
「君に、手を出そうとしない理由は……」
口はそこで止まる。どうしても
彼女はどんな反応をするだろうか。呆れる? 笑う? 慰める?
どの対応も望んでなんかいない。だって俺はきっと、愛想笑いしかできないから。
お前達のせいだと罵ってやりたくても、自分が生き残るためにぐっと抑え込むことしかできない。いつも情けなくヘラヘラ笑って、
依子さんの前では、そんな姿をさらけ出したくなかった。
永劫に続くかと思うほどの沈黙の後、俺は瞼を閉じる。
「……俺の親が、アヤカシ喰いに殺されたから」
依子さんの返事は、なかった。
まったく反応がなくて不気味に思った俺は、そっと瞼を開けてみる。
ぽかんとした依子さんの顔がそこにあった。
「それで?」
「え?」
「たーくんの親になったアヤカシが、私の仲間に殺された。だから私と寝たくないということ? どうして?」
ぐわっと腹の底が熱くなる。なんだその疑問は。どうしてそんな風に思いやりのない態度ができるんだ。
やっぱり依子さんは狂っている。
喚き散らしたい衝動をぐっと堪えながら、俺は振り絞るように説明した。
「依子さんに罪がないのはわかってる。でも俺は、アヤカシ喰いが許せない。君と深い関係になるのはその、一時の誘惑に俺の悲しみとか怒りが負けたようで……自分が許せなくなる。だから、君が悪いわけじゃない。俺の気持ちの問題だから」
そうは言ってもきっと理解すらできないんだろうな。呆れや疲れがどっと押し寄せてきて、怒るどころではなくなってしまった。もうなんだか、この少女相手に悩んでも意味がない気がする。
投げやりな気分でため息を吐くと、依子さんは言った。
「わかった」
簡潔な言葉だったが、うまく飲み込むのに数秒を要した。
「……わかった、の?」
「たーくんの気持ち全部はわからないよ? けど、たーくんが自分の心の問題だっていうなら納得するわ。要はたーくんの気持ちが落ち着くまで待ってればいいんだよね?」
「いや、まぁ、そうかもしれないけど」
「なら待ってるね」
依子さんは心から安心したように柔和な笑みを浮かべる。
あまりに簡単に終わってしまいそうだったから、俺は慌てて会話を続けた。
「それでいいの依子さんは。俺は、母親がアヤカシ喰いに殺されたことはずっと忘れないだろうし、その連中を君に重ねてしまう。気持ちが傾くことすらないかもしれない」
「でも、私にできることは何もないもの。たーくんは、私が謝れば復讐心を忘れることはできる?」
「……いや」
「私も仲間の仕事は否定できない。アヤカシを狩る、それが私たちの使命で生存の理由だから。誰かに恨まれるために生きている」
衝撃的な一言だった。
誰かに恨まれるために生きていると、依子さんは濁すことなく伝えて笑っている。避けられない重責や呪いのような運命をとうの昔に受け入れている顔つきだった。
「例え私がたーくんの親を殺してなくても、あなたから恨まれることはなにも疑問に思わない。人間だって逆の立場でもきっとそうなるもの」
「……」
「だからね、たーくん。私は待つことにする。たーくんが復讐心を持ったままでも、私と愛し合いたいと思ってくれるまで。私を他の滅怪士と重ねなくなるまで。私があなたの特別になるまで」
「それは……だから、来ないかもしれないよ」
「来るわ、きっと。一緒に住んでれば必ず」
依子さんは、まるで未来を垣間見てきたかのように泰然と微笑んでいる。
言い切るほどの自信がどこからくるのか、俺にはわからない。あるいは今までのようにアヤカシ喰いの力で俺をねじ伏せれば心変わりするとでも思ったのか。
しかし彼女は、待つと言った。少なくともアヤカシ喰いへのトラウマを、自ら払拭することは考えていないかもしれない。
――暴風みたいな人だな、依子さんは。
あるときはナイフで脅してまで愛情を示せと迫るくせに、今は俺の気持ちに整理がつくまで待つという。ときには凪いで、ときには暴れる風の如しだ。
でも俺が本当に嫌だと思うことを避けてくれるのは、果たして偶然なのだろうか。
「あ、それとたーくん。私にムラムラする前に他の女でムラムラして処理したら罰を与えます。痕跡がないかもチェックするから」
鑑識ばりの捜査をする依子さんが浮かんで俺は即座に頷いた。依子さんの背後に鬼嫁という単語が透けて見える。発見後の光景は、あまりに怖くて想像したくなかった。
「欲しいものは買ってくるけど検閲もする。わかった?」
「……御意」
「それ以外は何をしても買ってもいいんだけどね。そういえばたーくんて読書好き?」
「ん? どうかなぁ。普通かと」
「じゃあ、なんで私の本棚を漁ってたの?」
心臓が口から飛び出そうになる。
依子さんは、俺の心を覗き込むようにじっと黒瞳を向けていた。
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