依子さんと一緒にお風呂
風呂掃除をするといっても、バスルームは水垢の一つもないくらいに綺麗でほとんど手間いらずだった。
というか、生活感が極端に薄い。風呂場を自分好みにしようとした形跡もなく、シャンプーやリンスといった必要最低限の品しか置いていない。まるでホテルのような清潔感だ。
依子さんに潔癖症の兆候はない。おそらく、意識的に自分の痕跡を残さないようにしているのではないか。各地を転々としながら戦うアヤカシ喰いだからこそ、追跡に繋がるようなヘマをしないよう訓練されていて……
俺はバスルームの中で、そんなことをぼんやり想像していた。腰をタオルで隠しただけのほぼ全裸状態で。
正しく言えば、積極的に現実逃避しようと試みていた。
現実を直視すると先程食べた夕飯を戻してしまいそうになる。それほどに緊張で体は凝り固まっていたし、動悸息切れもする。
でも、脱衣所から聞こえてくる衣ずれの音やドア越しに感じる依子さんの気配が、否応なく俺にこの先の運命を想起させた。
これから俺は、依子さんと一緒に風呂に入る。万が一拒否すれば、たぶん人体のどこかが破損する。拒否権はない。
正直、己を律する自信はなかった。その美貌と艶めかしい肢体を間近にすれば、たとえ恐怖を抱く相手だろうと体が反応してしまう。
そうなればなし崩し的に関係を持つことになる。
――どうする心の準備もできてないっていうかもうどんなに頑張っても遅いだろこれ俺だって若いんだぞちくしょう何とか平常心でいけないかなそうだ素数だ素数を数えよう一、三、五、七、奇数っ! ああーできるなら普通に体洗うだけにしてください誰か依子さんの思い通りにならない強さを俺に授けてくだ
「お待たせたーくん」
バスルームのドアを開けて依子さんが入ってくる。その瞬間に雑念が漂白されて、俺は震えるように息を吐いた。もう観念するしかないのか。
依子さんが普通の女の子だったら、まだ良かったのかもしれない。
でも彼女はアヤカシの天敵で、母と叔父を殺した憎い仇の仲間だ。
生き残るために仕方のない行為だとしても、アヤカシ喰いの体に興奮することが母達への裏切りのように思える。ほんの欠片でも愉しめば罪悪感を抱く。終わった直後に自己嫌悪に苛まれるだろう。
それが堪らなく嫌だった。
「どうしたのたーくん? こっち向いて」
優しい声が死刑宣告のように聞こえた。逃げ道は、ない。
俺はそっと振り返り――
目が、点になった。
依子さんは確かに全裸だった。バスタオルで隠すこともせず、白磁のような柔肌も豊かな乳房もさらけ出している。濡れて邪魔にならないようにと長い黒髪を結っている姿も色っぽい。
だからこそ、彼女の頭の上に鎮座するナイフが物凄くアンバランスだった。
「あの、依子さん」
「ん?」
「風呂にも、ナイフを?」
「うん。いつ戦闘に入ってもいいようにね」
依子さんはさも当たり前のようににっこりと笑う。
「そ、そっか」と曖昧に返しつつも、俺は頭上のナイフから視線を外せなかった。
依子さんは顎から頭頂部にかけて手拭いを巻き付け、そこにナイフを収納したホルスターを挟み込んでいる。まるで宴会芸みたいな容貌だ。
あまりに意表を突かれたせいか、彼女の裸体がすぐそこにあってもまったく高揚してこない。むしろ俺の気分が、どこに向かえば良いのねぇ!? と、おろおろさ迷っている。
「じゃあまずは背中洗ってあげるね。ここ座って」
バスチェアを勧められて座る。依子さんは俺にシャワーをかけた後、ボディーソープをつけたタオルで背中を丁寧に洗い始めた。くすぐったかったり、彼女の細い指が腰に触れてどきっとした瞬間もあったが、ナイフを括り付けた姿が浮かぶ度に冷静になる。
「次は前」
「前は自分で!」
「駄目」
ピシャリと断られる。ほのかに殺気も漂ってきた。
仕方なく、股間部はタオルで隠したまま依子さんに向き合う。彼女は膝立ちになってタオルにボディーソープをつけていた。
首筋のラインとその下のたわわな胸に視線が向かいそうになるが、俺は咄嗟に頭の上のナイフへと視線を逸らす。
鬼の首を切断する武器が静かに待機していた。彼女はこのナイフで、幾人ものアヤカシを殺す。
凄惨な光景と依子さんの壮絶な笑みを思い出すことで、急激に体の芯が冷えていく。俗にいう、萎える、というやつだろう。
何事もなく洗われて終わると「今度は私の番~」と依子さんが後ろを向く。俺は雑念を抱かないように丁寧に背中を洗った。
しかし、依子さんが背中だけで終わるはずがない。
「前もお願いね、たーくん」
くるりと依子さんが俺の方へ向き直る。
息すら届きそうなほどの至近距離に彼女の裸体があった。しかも喜悦と興味と好意を混ぜたキラキラの瞳を俺に向けてくる。
くらりときた。なんで俺はこんなに耐えてるんだろう、と急に自分が馬鹿馬鹿しくなる。依子さんがいいなら、我慢しなくていいじゃないか。
直後、俺はハッとする。無意識に依子さんの方へ手を伸ばしていた。指先が彼女の首筋に触れそうなところで停止している。
――早まるな俺っ……!
腕を引っ込めて、即座に依子さんの頭部を視界に入れた。冷静さを取り戻してから、泡だらけのタオルを持って会釈する。
「し、失礼します」
ゆっくりと腕を伸ばし、割れ物に触るように繊細なタッチで手を動かす。
「……んっ」
依子さんが、か細い声を上げる。頬もほんのり赤く染まっていた。
理性が、そろそろ帰っていい? と聞いてくる。
――うおおおお駄目だ留まれ理性っ!
俺は口腔で舌を噛み締めその痛みで邪念を払う。
それでもぽよんぽよんだったりぷにゅぷにゅした部位に触れる度に理性が崩壊しそうになった。
津波のような誘惑に駆られる度、俺は彼女の頭部を凝視する。ナイフを見れば依子さんがアヤカシ喰いであることを思い出させてくれる。心の底に沈殿する暗い感情が本能を抑えつける。
そして俺は、耐えきった。
「はい、終わりました」
俺は盛大に息を吐いて微笑んだ。大量の汗をかいているのは決して風呂の暑さが原因ではないだろう。
疲労は大きい。一方で大きな達成感も得ていた。いっそ清々しい気分だ。
「……ありがとう」
しかし、依子さんの顔からは表情が抜け落ちていた。
能面のような真顔になって、心なしか声も硬い。
あれ、と気づいた瞬間、血の気がさーっと引いた。
依子さんが期待していたのは、俺が照れたり興奮したり洗おうとして余計なところを触ったりする反応であって、バカ正直に身体を洗うことではない。
つまり彼女の望みに反している。
――いやだってそのまま風呂場で開始したくなかったし!?
自分で自分に言い訳しても選択間違いは変えられず、かといってどうすればよかったのかも思いつかない。遅かれ早かれこうなる運命だった。
依子さんがシャワーで泡を流して立ち上がる。鋭利な眼光が俺に注がれた。
削ぎ落とされる。
怖気が背筋を這い寄って、俺は咄嗟に顔の前で腕を交差させた。
しかし、痛みも衝撃もやってこない。どころかバスタブの方で、ちゃぽん、と音が鳴る。
恐る恐る振り返れば、依子さんが湯船に浸かっていた。
「たーくんも入って」
「……あ、はい」
怒らないのか? いや、依子さんは仏頂面で不機嫌そうではある。俺はとりあえず逆らわないように湯船に入って、彼女の対面に座った。
依子さんは俺を真正面から睨みつけると、すぼめていた唇を開く。
「どうしてなの?」
ギクリとした。
依子さんの目に、涙が滲んでいる。
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