何も聞かない依子さん
「お腹空いてるよね? 夕ご飯いっしょに食べよ」
制服姿の依子さんは朗らかにそう提案した。しかし俺は不安を覚える。
帰宅時の彼女は俺用の衣服以外に何も買ってきていなかった。もちろん食材の姿は欠片もない。出前でも取るのかなと、淡い期待を込めて待っていたが、依子さんが冷蔵庫の扉を豪快に開けた瞬間に俺は全てを諦めた。
そして現在。俺と依子さんはダイニングテーブルの椅子に座ってゼリー飲料を吸っている。無言で。
昼間とまったく変わらない味に俺の心は虚無へと近づいていくが、依子さんは特に顔色も変えず飲み干していた。そして「ごちそうさま」とパックをゴミ箱に捨てる。
思わず彼女の方へ振り向いて聞いた。
「もしかしてダイエット中?」
「違うよ?」
小首を傾げる依子さん。嘘をついた様子はない。
まさか本当にこんなものが主食だっていうのか。
「依子さん、これだけで足りる?」
「うん。たーくんは足りないの?」
「まぁ……」
「二本め食べていいよ?」
「そ、それでもちょっと」
なぜか不思議そうに俺を見つめる依子さん。
マジですか、と俺が衝撃を受けていると、彼女は理解がいったようにぽんと手を叩いた。
「あ、そうか。
うっかり、と依子さんはぺろりと舌を出す。
疑問にすら思っていなかったところが非常に依子さんらしい。が、うっかりで被害を被った俺の胃はずっと空腹を訴えてしくしく泣いている。
気が滅入るも、無視してはいけない情報が混じっていたのでそこに言及した。
「依子さんはアヤカシ喰、じゃなくてその、滅怪士だからこれでも平気なんだ」
「妖力変換の臓器を使って新陳代謝を上げてるから。少しのエネルギー摂取量でも生きていけるよ。でもたーくんだって半分アヤカシでしょ? 人間の生態とかけ離れてたり、不老不死に近い個体だっているのに。普通の食事が要るのね」
「飲まず食わずで一週間は生きたことあるけど……普通にしてても生気を吸収できるわけじゃないから」
「遺伝ベースになったアヤカシの親が長命種や憑依型じゃなかったってことね」
少しだけ、ドキリとした。依子さんが俺の親を気にしたのは初めてだ。
いや、むしろ今というタイミングでは遅すぎる。まず真っ先に親であるアヤカシの生存と、俺が産まれた経緯や関係を把握しておこうとするのが普通だ。今もそのアヤカシが俺と繋がっている疑惑だって当然浮上してくる。
人間への脅威が潜んでいると知れば、彼女とて放置はしない。
ならこのまま、俺の出自や境遇を聞いてくるだろうか?
過去の話ではあるが、依子さんにとっては貴重な情報かもしれない。
だけどもし聞かれたとして、俺はすんなりと喋れるだろうか。母達を殺したアヤカシ喰いの仲間に大切な思い出を語るのは、抵抗感がある。
依子さんには同情も嘲笑もされたくはない。仕方なかった、などと訳知り顔で諭されたくはない。
「あ、栄養といえば冷蔵庫にサプリがあるんだけど、それでもだめ?」
依子さんは、何も聞かなかった。
「……あれ、サプリメントなんだね」
「マルチビタミンとかミネラルとか。足りない栄養素はあれで補ってるんだけど、たーくんは?」
「ごめん、やっぱり足りないと思う」
むむう、と依子さんは腕を組んで眉根を寄せている。どうしたものかと思案しているようだ。
そんな彼女を眺める俺の胸中は複雑な思いで一杯だった。
――なんで聞かないんだろう。
依子さんの性格からして興味がないという線もあるが、どうも腑に落ちない。
考えたとき、一つの仮説がよぎる。
――依子さん、俺の境遇を知っているんじゃ……?
依子さんには早い段階から半妖だと気づかれている。俺の素性を調べる時間はたっぷりあった。繋がった人間もアヤカシもいない天涯孤独の半妖の男だと、彼女は既に調べ上げているのではないか。
だからか、と俺は妙に納得する。
誰の助けも来ないし急に消えても影響は少ないから、俺を非常食に選んだ。
そのときなぜか、胸の奥に隙間風が吹いたような、妙な虚しさを感じた。
「でもどうしよう、たーくんのご飯。他には何もないし」
俺が戸惑っていることにも気づいた様子はなく、依子さんは考えあぐねている。
事情はどうあれ何も聞く気がないならそれでいい。自分を納得させて、俺はすぐ愛想笑いを浮かべた。
「簡単な出前を頼もうか。もう一度買いに言ってもらうのも悪いし」
「ダメよたーくん」
「なんで?」
「店員が玄関を開けたら逃げるんでしょう」
依子さんの笑顔がすっと消える。冷たい眼光を俺に向けながら、左手が太ももに装着したナイフに伸びていた。
「ご、誤解ですよ!?」
「ほんとに?」
俺は全力で頷く。今のは素で提案しただけだ。むしろその方法があったかと今になって気づいた。言わなければ逃げる方法を一つ確保できたかもしれないのに俺の間抜け!
「でもやっぱりダメ」
「あの、信じられないなら依子さんが受け取りでも」
「そうじゃなくて、この部屋は全ての電波を遮断してるから。通信機器は一切使えないの」
意外な言葉にハッとした。そういえば今朝方、パソコンはおろかテレビも使えないと説明を受けていた。
「なんでそんなことを?」
「機密性を上げるのと、情報漏洩と侵入を防ぐため。アヤカシの中にはネットワーク通信に干渉できる個体もいるから。妖力を電子パルスに変化させて位置情報を逆探知した奴もいるし。あいつらを侮っちゃダメよ」
まるで凄腕のハッカーみたいだ。アヤカシにそんな芸当ができるとも思えなかったが、依子さんは真剣な表情でいる。冗談を言っている雰囲気ではない。
そういえば母の桔梗が、こう説いていた。アヤカシと違って人間の文明も技術もすぐ変わる。でも変わったところで新しい隙は必ず生まれる。アヤカシはその隙間を見つけては人間の足元に擦り寄り、あるいは逃げ遂せていつの世も存続してきた、と。
あるいは俺以上に、人間社会に順応して暮らしているアヤカシもいるかもしれない。
と、考えたところで腹の音が鳴った。関係のない思考を続けたところで栄養を補給できるわけではない。
俺が腹を擦ると、依子さんは子をあやす母の表情で「しょうがないにゃあ」と腰に手を当てた。
「じゃあ何か買ってくるね」
「ごめん、依子さん。ありがとう」
「いーえ、これも彼女の務めです」
こうなってるのも依子さんのせいですけど、とは口が裂けても言えない。
俺が苦笑いしていると、依子さんは頬に指を当て「んー」と思案したように呟く。
「待ってるだけも微妙ならお手伝いしてもらおうかな?」
どうやら気まずさから来る苦笑と勘違いしたようだ。しかし家事程度なら問題はない。
「いいよ。俺ができることなら何なりと」
「じゃあ、お風呂掃除しておいて」
「わかった。依子さんが戻ってくるまでに終わらせておくから」
なんの警戒もなく俺は請け負う。
しかし依子さんの次の台詞で、凍りつくことになった。
「綺麗にしておいてね、たーくん? 後で一緒に入るんだから」
呼吸すらも忘れた俺に向けて、依子さんは妖艶な笑みを覗かせる。
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