食生活が不明な依子さん

 ――また外門種のうち特定の領域から拠出しない属性を持つもの、あるいは在来種を宿主とした共生関係にあるもののうち、既存社会へ多大な影響を及ぼす可能性が低いことが公的に認められた場合、その能力を抑制した上で人類への貢献を適用させることが推奨されている。多くは特殊観察保護外門種として認定した後、しかるべき献体と即時の細胞提供を右院にて行う。


「ふう……」


 俺は本を閉じて目頭を揉む。一ページだけとはいえ、小難しい文章を立て続けに読むのは結構しんどい。しかも内容がバラバラで前後の繋がりもわからないから頭に入ってこない。何度か読み返す必要がありそうだった。

 そのとき、ぐううと腹の虫が鳴いた。そういえば朝からなにも食べていない。


 ――何でも食べていいとは、言ってたけど。


 ダイニングテーブル用の椅子に座っていた俺は、腹をさすりながらキッチンまで向かった。しかし冷蔵庫の前に立ったところでためらう。

 依子さんが俺のために用意してくれたもの。それを素直に受け取っていいのだろうか。食事になにか混ざっていないかと邪推してしまう。


「き、きっと大丈夫だよな」


 彼女の行動は読めないが、強制的に惚れさせるとか自由を奪うような真似はしない気がした。そのつもりなら今までの時間で十分にやってのけるはずだ。

 そう考え直して、冷蔵庫の中身を確認する。


「……ええー」


 戸惑いの声が出てしまう。それほどに、冷蔵庫の中には何もなかった。

 あるのはペットボトルに入った水とゼリー飲料が幾つか。それと透明なタッパーが二つほど。容器を取って中身を確認すると、様々な種類のカプセルが入っている。


「まさか、これで過ごせと?」


 依子さんなりのジョーク、それとも俺への意地悪ですか。

 あるいは、本当にこんなもので生活している可能性もある。

 わけが分からなくて立ち尽くしていたが、またぐううと腹の音が鳴った。

 いつもならまったく食指が動かないはずの光景でも、生唾を飲み込んだ。そもそも今日の朝どころか二人で公園に入ってから何も胃に入れていなかった。

 背に腹は代えられない。俺は迷いつつも、問題のなさそうなゼリー飲料を手に取った。コンビニでもよく見かける商品だ。封を切った感じもない。

 とりあえずキャップを外して、吸引ノズルを口に含む。

 意を決して、飲む。


 ――普通だ。


 口腔に甘みが広がり、柔らかい喉越しを感じる。やはり以前飲んだものと同じ味だった。空腹と少ない容量のせいであっという間に飲み干してしまう。

 俺はすぐに違う味のゼリー飲料を取り出して飲んだ。二本目を飲み干してもまだ腹は空いているが、さすがにゼリー飲料ばかり飲み続けるのも気が滅入る。

 空になったパックをゴミ箱に捨てて、タッパーの方に目を向ける。こちらの薬だかサプリだかわからない代物は怪しすぎて手を出せない。


「依子さん外食派なのかな」


 冷蔵庫の扉を閉めながら依子さんの食生活を想像してみる。喫茶店とはいえ一人での来店は平気な様子だったから、外食も多用しているかもしれない。

 それにしても、どこか釈然としなかった。依子さんの甲斐甲斐しさを思えば、彼氏を空腹に近い状態で放置するのは違和感がある。どちらかというと食べきれない量を出して俺の手が止まると「私のこと好きじゃないんだ」と言いながらナイフを突きつけるタイプだ。うん、しっくりくる。

 といっても彼女の行動は俺には推測しきれない。単に買い忘れた可能性もあるし、悩んでも答えなど出ないだろう。

 とりあえず空腹感は紛れたので、もう一度本棚を調べる作業に戻った。


 △▼△


 一日中、部屋は静かだった。この建造物が閑静な住宅街にあるせいか、あるいは呪符の力かはわからないが、外から物音が聞こえてくることはほとんどない。

 室内にはテレビもラジオもないから雑音というものが一切排除されている。そんな環境でひたすら本棚を調べ難しい文章を読んでいくのも次第に辛くなってきた。俺は作業を一時中断して、リビングの壁掛け時計を確認する。まだ昼過ぎだ。時間が過ぎるのはこんなにも遅かっただろうか。

 いや、違う。今までの生活は金を稼ぐために動くか、違う街へ移動するかの二通りしかなくて、こんな風に時間を潰す経験はほとんどなかった。だから長く感じているだけだ。いつもだったら、バイト先のアンティーク喫茶で接客をしているはずだった。


「店長は、困ってるだろうな」


 毎日シフトを入れても嫌な顔一つしないバイトが急に消えたのだから、焦りもするだろう。しかしこのまま出勤しなければクビになることは明白だった。


 ――まぁ、構わないけど。どうせ金が貯まったら出ていくつもりだったし。


 どこかに一生留まるつもりはまったくない。正体を見破られない自信はあるが、それでも人間のそばに居続けたくなかった。

 人間達の中にいるとどうしても、母を殺したアヤカシ喰いを強く連想してしまう。それなりに良好な関係を築いていても、化け物だと知った瞬間に態度を急変させ、俺を排除しようとするのではないかと不安に苛まれる。

 事実、俺が少しだけ正体を見せた瞬間、それまで普通に接していた人間たちは血相を変えて逃げ出した。そして様々な人間を呼び寄せ、俺を処理しようとした。

 今なら叔父の態度も良く分かる。人間達は、自分と少しでも違うとわかれば即座に冷酷になれる生き物だ。

 だから俺は、異質を察知される前に逃げる。人間の社会にも、アヤカシの社会にも居場所はないから。


 でも、行き着いた先がアヤカシ喰いの傍とは、皮肉な話だった。


 △▼△


「ただいまぁたーくん!」


 室内に茜色の光が差し込む頃、ドアが勢いよく開け放たれた。ドタドタと大きな足音を響かせながら、女子高生の格好をした依子さんが廊下から飛び出してくる。

 その頃には本もすっかり片付け終えていた俺は、愛想の良い笑みを浮かべながら彼女を出迎えた。


「おかえり依子さおぶぅ」


 飛び出してきた勢いそのままに彼女が俺へと突撃、もとい抱きついてくる。あまりの勢いで腹部に衝撃を受け二、三歩ほど後ずさりしたが、なんとか受け止めた。


「ぎゅ~」

「おごごごっ!」


 俺の両脇に手を回した依子さんが全力で抱きしめてきた。その華奢な腕では想像もつかないほどの膂力で締め上げられ意識が吹っ飛びそうになる。アヤカシ喰いの全力でハグしたら駄目です死んでしまいます。

 するとふっと力を緩めた依子さんは俺の胸板に顔を埋めて深く息を吸った。その状態で停止する。なにか匂いを嗅がれているようだ。

 手持ち無沙汰になった俺は、彼女の肩の上にあった手をそっと背中に回す。

 その行為に愛情など欠片もない。ご機嫌を取るための打算と、結果に怯える緊張感だけが俺の中でぐるぐる回っている。

 パッと依子さんが顔を離して俺を見つめてきた。

 彼女は満開の花のような笑顔を浮かべていた。まずは合格、と俺は心中でほっとする。

「えへへー」と依子さんは、とろけるように目尻を下げている。あまりにも嬉しそうなので俺はつい聞いていた。


「なにか、良いことでもあったのかな」

「ううん、別に」

「あれ。そう、なんだ」


 ではなぜこんなにも上機嫌なのだろう。

 依子さんは頬を緩めて、疑問に答えるように言った。


「何もない日でも、好きな人が出迎えてくれるだけでとっても嬉しいんだよ?」


 ……そういう、ものなのか。

 俺には、共感することができない。

 いつか好きな人ができたら、理解できるのだろうか。

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