依子さんじゃなかった依子さん

 裸体の依子さんがバスルームへと消えてから数分後。彼女は完璧に身支度を整えた姿で現れた。お馴染みの有名女子校の制服をきっちりと着こなし、ブラッシングした髪の毛は癖毛の一つもない。

 それから依子さんは寝室に行って鞄を持ってきた。そういえば高校生はこれから登校する時間だ。

 ……俺をこのままにして?

 リビングに立ち尽くしていると、彼女は俺に近寄りあれこれと説明を始める。


「たーくん、あそこに冷蔵庫があるから好きなの食べてね。お風呂も使っていいよ。タオルはバスルームにあるから。着替えは、ないか。じゃあ戻ってくるときに一式買ってこようね。あとは自由に過ごしてていいけど、もし欲しいものがあったら帰ってきたあとに――」

「あ、あの」

「なあに?」

「俺には、本当になにもしないの」


 きょとんとした顔で依子さんが首を傾げる。その顔つきからすればわかりきった答えのようにも思えたが、一応聞いた。


「俺はその、依子さんを騙した。鬼達に協力して、アヤカシ喰いかどうかも定かじゃないうちに君を誘い出して危険な目に……恨まれて当然だし、俺だったらそんな人間は信用しない、と思うんだけど」


 依子さんの好意が本心だとして、俺はその気持ちを裏切っている。誠実さのない男を自宅に放置して不安にはならないのか。

 そもそも騙したことが発覚した当初はともかく、今の依子さんには失望や幻滅、怒りの感情が見当たらない。至って自然体だからこそ、先が読めなくて息が詰まりそうだ。

 依子さんはじっと俺を見つめると、静かに近寄ってきた。そして子供を叱るような声音で言う。


「もちろん、すっごーく悲しかった。だから反省してね?」

「……そ、それだけ?」

「彼氏の間違いを許してあげるのも、彼女の度量よ」


 依子さんは文字通り気にした様子もない。一歩間違えれば死に繋がっていたかもしれないのに。

 胃の奥がきりきりと痛む。安堵よりもまず彼女への畏怖、そして気まずさが増していく。

 依子さんは、バツの悪い顔をしている俺を見てくすりと笑った。


「そんなに心配しないで。たーくんが私の正体に気づいて行動に出る可能性は、最初から想定してた。だから怒ったりしないよ」

「えっ?」

「あなたが半妖だって知ってたもの。普通の人間を好きになったとしても、油断なんてしない」


 俺はハッとする。確かに俺の正体を把握しているなら、半妖の誘いなど警戒心を高めるだけだ。

 ただそうなると、正体を知りながらも泳がしていた理由が気になる。

 まさか本当に、彼氏にしようと企んでた?

 黙っていると、依子さんの瞳に気遣わしげな感情が混ざる。


「でも災難だったねたーくん。脅されてたとはいえ好きな女の子を差し出さなきゃいけないなんて、辛かったよね。私なら大丈夫。撒き餌に釣られたアヤカシの相手なんて慣れてるし、たーくんが無実なのはわかってる」

「……」


 曲解もいいところだが、逆に自分の罪をなじられているみたいでやはり胃が痛い。

 しかしそこで、別のことが気にかかった。「撒き餌って?」と指摘してみると、肩にかかる黒髪を指で弄んでいた依子さんが「そっか」と呟いた。


「やっぱり気づいてないんだね。御影依子みかげよりこが偽名だってこと」


 へ、と間の抜けた声が俺の喉から漏れていた。

 その反応に依子さんが楽しげに目を細める。


「滅怪士はアヤカシの仇敵だよ? 四六時中、私達は狙われてるの。素性が割れれば一斉に襲われる。だから名前も年齢も所在も能力も全て秘密。仲間にすら非公開だから」

「で、でもあの鬼達は依子さんの名前を知ってて……」

「それが撒き餌よ、たーくん。アヤカシ達が掴んだのは偽名と嘘の所属情報。私はここで網を張って、釣られた連中を殺すのが役目なの。そうすれば一般人の被害は抑えられるし、戦う場所やタイミングをこちらで決められる。もちろんこの街には罠も張り巡らせてる」


 頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。

 つまりあの鬼達は、偽の情報に踊らされてわざわざ遠方からやってきたのだ。依子さんが口を開けて待っているとも知らずに。


「じ、じゃあ高校に通ってるっていうのは」

「年齢的に女子高生が合ってるから偽装してるだけ。もう少し期間が過ぎたら名前も所属も土地も全部捨てて別の場所に行くけれどね。あんまり長く続けるとアヤカシ達にも怪しまれるし。でも長命種や上位種には、こんな見え透いた罠はバレバレみたい。そういうのは潜伏先を見つけないといけないから、調べるのも私達の任務の一つ」


 開いた口が塞がらないとはこういう状態を言うのだろう。返す言葉がなくて、俺は立ち尽くしたままだった。

 だけど説明を飲み込むうちに驚きは引いていく。俺は昔、数年間もかけて母と叔父を殺した連中の手がかりを探した。けれど一欠片の情報も見つけられなかった。

 それが鬼達はいとも容易く名前や身体情報を探り当てたものだから、感嘆しつつもどこか違和感を抱いていたんだ。

 アヤカシ喰いが報復も受けず生き延びている背景を、もっとよく考えるべきだった。

 

「私が女子高生のときに会えてよかったね、たーくん。学生の設定で動くことはあんまりないんだから」


 依子さんはスカートの端をつまんでひらひらと振ってみせる。このズレ方は依子さんらしいけれどラッキー!とか反応してる場合じゃない。

 俺はもう、本当の姿ではないと聞かされたことに衝撃を隠せなかった。名前も住処も身分も全部偽物で、時が来れば跡形もなく姿を消す。

 そんな、幽霊のような少女。

 ……まるで、自分のようだと思った。

 頭を振ってその錯覚をかき消す。

 

 ――惑わされるな。アヤカシ喰いは、仇じゃないか。


 同情なんてしてやるものか。どんなに悲惨な物語があろうと、彼女は人間でありながらアヤカシを喰う化け物だ。母と叔父を殺して俺の運命を捻じ曲げた奴らの仲間に違いはない。不幸せを嘲笑っていいくらいの存在だ。

 冷たい鉛のような感情が俺を冷静にさせた。演技の笑いを取り戻して、身の上話なんてどうでもいいとばかりに話題を変える。


「制服趣味はないけど……それよりも、依子さんて呼び方は変えたほうが?」

「ううん、依子でいい。出身も本名も教えてあげられないから」

「そう」

「でもたーくんがどーしてもって哀願して私にメロメロになって四六時中イチャラブしてお世話してくれて私なしじゃ生きられないって状態になったら、教えてあげてもいーかなー?」


 チラッチラッとなにかを期待するような眼差しを送る依子さんだが、彼女の素性に興味ないフリは続ける。これくらいの抵抗はしてやりたい。


「たーくんなら指一本なくなっても可愛いよ」


 右手に突然の激痛。いつの間にか依子さんが俺の手を取り小指を握りしめていた。彼女はそれを関節の動きとは逆の方向へ捻っている。

 ショックで喉が詰まり悲鳴も出なかった。


「あ、半妖だと完全再生は無理だよね。じゃあどこがなくなっても困らないかなぁ。片耳とか? できれば綺麗な肌には傷をつけたくないし」

「お、折れ……!」


 激痛で膝が折れる。視界で火花が散っていた。

 依子さんは苦しむ俺を見つめながら嘆くように首を振る。


「駄目だよたーくん、ぼーっとしてたら。まるで私に興味ないみたい。少し痛くして眠気覚まししてあげるね?」

「っ……!」


 対応を間違えた!

 ギリギリと捻り上げられ脂汗が噴き出る。いくら半妖の俺でもアヤカシ喰いの力に叶うわけがない。このままだと折れる、というより千切れる!


「し、知りたいです……!」

「なに-?」

「名前……すっごく、知りたい」


 湧き上がる悔しさも激痛に上塗りされてしまった。

 依子さんは少し考える素振りを見せる。その間も小指が反り返って骨が軋む。頼むからこれで怒りを鎮めてくれっ。


「しょうがないなぁたーくんは。でも今はだーめ。もっとラブラブになったら教えてあげるね?」


 ぱっと手が離された。俺は床に膝をつく。痙攣する手を見ると、小指は青黒く変色していた。


「可哀想なたーくん」


 憐れみを浮かべた依子さんがしゃがみこみ、俺の手の甲に手を重ねてくる。ビクリと震えてしまったが、彼女は痛む小指を優しく擦るだけだった。


「でもたーくん。私が好きってことをもっと態度で示してくれないと駄目だよ? じゃないと勘違いしちゃうから。覚えておいてね」


 微笑む依子さんのその目はちっとも笑っていない。

 もしかすると、非常食という目的以外にも自分の嗜虐癖を満たすために俺を捕まえたのではないか。そう勘ぐってしまうほどに、遠慮なんて欠片も見当たらない。


「……以後、気をつけます」


 そう答えるのが精一杯だった。

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