目が覚めたら依子さん
目が覚めたとき、痛いな、とぼんやり感じた。
腕や足が凝り固まっている。まるで縄で縛り付けられたかのようだ。一方で右頬に柔らかく暖かいものを感じるし、鼻孔をくすぐる甘い匂いがする。
自分の状態がまったくわからないので、俺はとりあえず首を右に回してみた。
白い谷間があった。谷を作る二つの山は、触ればふよんふよんと跳ね返りそうな弾力がある。その山には黒く艷やかな絹が幾つも垂れかかっていた。
俺は考える。ナンデスカコレ?
嫌な予感がして、そろっと谷間の上へと視線を移動させた。
瞼を閉じた依子さんの、健やかな寝顔があった。
「ふんみょぉっ!」
自分でも驚くほど変な声が出た。俺は慌てて寝袋から這い出たが、勢いをつけすぎて床を転がり背中を壁に打ち付ける。でも痛みとかそんなのはどうでもよくて、バクバクと暴れる心臓を胸の上から押さえながら、寝袋で眠る依子さんを穴が空くかというほど見つめた。
なんで俺、裸の依子さんと寝袋にくるまってる?
「まさか……」
事実確認をするため昨晩の記憶を引っ張り出す。一悶着があった後、あまりにも疲れていたので休ませてくれと依子さんに頼みこんだ。鬼達の惨劇や依子さんとのやり取りで何度も肝を冷やしたし、連れ込まれた理由も意味不明ときて精神的にかなり参っていた。とにかく彼女から離れたかったということもある。
依子さんは一緒に寝ようと迫ってきたが、落ち着きたいからとどうにか説得して、彼女が持っていた寝袋を借りたのだった。
そう、確かに俺は一人で寝袋に入った。あられもない姿の依子さんに一瞬自分を疑ってしまったが、速攻で寝落ちたので可能性は低いと思う。
となると彼女が夜中のうちに入り込んできたのか。しかも裸で。もしかすると俺が寝ぼけて襲いかかるのを期待していた、とか?
一応下半身を確認……たぶん大丈夫。
軽く安堵のため息を吐いてから、俺は依子さんの方へ視線を戻す。裸体の際どい部分は視界から外しつつ、寝顔だけを眺めた。彼女は寝袋から半分出ているというのに気持ちよさそうに寝息を立てている。
幾分か冷静さが戻ってくると、改めて疑問が湧き上がる。
「……本当に、俺なんかと一緒にいたい、のか」
信じ難い気持ちで一杯だ。恋人になりたいという言葉が本気だとしても、俺には依子さんの感情が理解できない。
アヤカシ喰いとして壮絶な人生を送る依子さんだが、中身はまだ十代の女の子だ。人並みに普通の男と恋愛したいはず。何より、依子さんほどの美人なら男達が放っておかないだろう。
その証拠に、喫茶店で読書中も彼女はよくナンパされていた。依子さんが明後日の対応をして男を困らせるたびに俺が仲裁に入ったものだが、あの調子だと巷でもかなりモテるに違いない。
しかし彼女は、俺を選んでいる。正体を知らなかったならともかく、最初から真実を知った上で、だ。
俺が半妖でもいいと思ったのか、半妖だから俺を好きになったのか。前者なら美談ぽいが、後者だと色々と怪しい感じが漂ってくる。
あなたを食べてあげる。ふいに依子さんの台詞が脳裏を過ぎり、胃が押されるような圧迫感を覚えた。
もしかしなくても、俺を気に入った理由には半妖という素性が関係しているだろう。
妖力を蓄えて強くなるアヤカシ喰いにとって、その供給源はアヤカシ以外には存在しない。妖力を得るには敵であるアヤカシを見つけ、屠り、血肉を摂取しなければいけないのだ。
一方でこの事実は、自分の望むタイミングや事情で摂取することはできないとも言い換えられる。だから依子さんは、自分の手元に供給源を用意しておこうとした。
つまり俺は、文字通り彼女にとっての非常食。いざというときのための保存供給源だ。
ただ、そう考えても今の状況はおかしい。摂取目的なら自由を奪っておいたほうが得策じゃないのか。軟禁状態とはいえ、普通に生活させる意味はない。
それにアヤカシは別種の存在で、恋人関係を望む対象になるとも思えない。いうなれば人が動物に求愛するようなものだから。
……いや、いるな。そういう性癖を持つ人たちも。
ということは、依子さんはアヤカシを好む特殊性癖? 敵だけど惹かれるとかそういう愛憎の話? 結ばれないなら、いっそ自分の血肉にしてしまおうとかいう……。
駄目だ、頭がこんがらがってきた。倒錯的な世界もあるかもしれないが、俺には馴染みがなさ過ぎる。
「ううん……」
寝息を立てていた依子さんが何事か呟いた。彼女は緩慢に手を上げて目を擦り、重たげに瞼を上げる。
「あ……たーくん。おはよ~」
まどろみから抜けきっていない彼女がニコリと笑う。
心臓が跳ねた。美少女の微笑みは、俺にも少しは効く。
自分の生態がもっとアヤカシ寄りだったら、彼女の美貌に見惚れることはなかっただろうか。餌に対して何の感情も沸かず、無視できていたかもしれない。
こんなことでアヤカシとの違いを痛感するのは、歯がゆい。
「先に起きちゃったの? せっかく起こしてあげようと思ってたのに」
依子さんは伸びをしながらすくっと立ち上がる。俺は慌てて視線を逸らした。
彼女は下半身も何も履いてない。
「あ、照れてる。可愛いたーくん」
「ばっ……!」
馬鹿にして、と言いかけたが寸前で止める。彼女を怒らせることは極力避けた方が身のためだ。
「でもそういう反応するってことは、私が性的対象にあることの証明だよね」
「……」
「勃起した?」
「してませんっ」
なんでこういちいちダイレクトなんだこの子は。
依子さんが「ざんねん」と呟く。それからひたひたと、素足で床を歩く音が聞こえた。下を向いている俺の視界に、すらりとした下肢が映る。
「うなされてたけど、気分は平気?」
「……うなされてた?」
「うん。夜中、苦しそうだった。可哀想だからよしよししてあげようと思って、一緒に寝てあげたの」
依子さんがしゃがみ込んで俺を見つめてくる。長い黒髪が裸体を包む姿は、絵画の裸婦像のような芸術性を醸し出している。
依子さんは柔らかい眼差しを送って、小首を傾げた。俺の返事を待っている。
「……たぶん、夢を見てたんだ」
「夢?」
「昔の……」
過去を再現する夢は、いつも母と叔父の最後を映し出す。ただし全てが記憶通りではない。途中から脚色が施されて悪夢に変化し、その度にうなされる。
アヤカシ喰いの集団に襲われたところまでは一緒だが、俺は二人の最後を見届けられなかった。苛烈な戦闘に巻き込まれることを恐れた俺は、母達を置いて山奥に隠れた。
夜明けまで待って、二人が勝利しているであろうことを信じて、太陽が昇りきってから自宅のある廃村まで戻った。
そして、焼け焦げた家屋の近くに、人間大の消し炭のような塊を二つ、発見した。
あのとき自分一人だけ逃げ隠れた後悔が、母達の最後を見届けられなかった無念が、悪夢を見続ける原因なのかもしれない。
黙り込んでいると、頭の上に暖かく柔らかいものが乗る。立ち上がった依子さんが俺の頭を撫でていた。彼女はニコリと笑うと、なにも言わずに向かいの部屋へと出て行く。
なんのつもりかよくわからないが、その眼差しは慈愛に満ちていた。
ほんの少しだけ、母親の笑顔と似ている気がした。
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