思い出に浸る 下

 母は、今度ははっきりと声に出して俺に指示した。しかしすぐに前へ向き直ると、近づいてくる黒装束達に対し構えを取る。五指の爪は鋭い鈎爪へと変化し、喉の奥から威嚇するような獣じみた唸り声を発していた。

 黒装束達が一定の距離を保って母を取り囲む。中央にいる女が顎をしゃくると、その他の全員が一斉に動いた。手に持つ刀や槍、棍棒など様々な武器を持って母に襲いかかる。

 母は金色の髪を振り乱しながら相手の攻撃を回避し、あるいは弾き返して応戦した。だが連中を仕留めるまでにはいかない。それどころか途切れることのない猛攻に翻弄され始める。黒装束達は動きが素早く、母の攻撃を封じるような連携が取れていた。


 信じられない。母は叔父よりも強いし、少なくとも人間なんかに競り負けるようなアヤカシじゃなかった。

 では相手は同類、アヤカシなのか? それにしては姿形は人間そのものだ。擬態のまま戦うなんて力をセーブしているのと同義だから、やっぱりあいつらはアヤカシじゃない。

 人間とは、俺が知らないだけで本当はこんなにも強い生き物なのか?

 戦慄に息を呑んだとき、頭に何か重たい物が乗っかった。叔父さんが俺の頭を撫でている。そして母の方を見つめながら告げた。


「お前だけでも逃げろ。相手はアヤカシ喰いだ、子供だろうが何だろうが容赦はしない」

「アヤカシ喰い……? っていうか、叔父さんは?」

「俺は姐さんを助ける」


 叔父は手を離し、俺に一度だけ笑いかけてから一歩踏み出す。

 その袖を慌てて掴んだ。


「待って! 俺だけ逃げろって言うの!?」

「そうだ」

「だ、だったら俺も一緒に戦う!」

「はは、一丁前なこと言いやがる。お前にはまだはえーんだよ」


 こんな訳のわからない状況で、叔父さんはいつものように笑っていた。

 だけど次の台詞は、いつもと違った。


「じゃあな、太一」


 まるで今生の別れのような響き。いや、大人になってから考え直しても、あのとき叔父は自分の死を悟っていたんだろう。

 俺を置いて飛び出した叔父は口を大きく開いて咆哮した。戦いが麻痺したように停止する。叔父の体躯が膨張して上半身の作業服が破れ、灰色の体毛に覆われた胴体が露出した。一直線に突進したのは黒装束達の気を引き付けるためだ。

 何人かが叔父に向かって襲いかかったが、大木のような豪腕で薙ぎ払った。更に母を包囲していた黒装束達に向けて手を掲げる。

 空気が破裂するような音と共に敵の女たちが弾き飛ばされた。妖術を使ったようだが、致命傷までは負わせていない。

 母と叔父はすぐに背中合わせの態勢となる。が、母は怒りと困惑を滲ませて叫んだ。


「なぜ来た!? 玉藻様の勅命を優先しろと……!」

「別に一つじゃないんだろ、あれは。それに俺が大切なのは姐さん、あんた――」


 次の言葉は、炎が爆ぜる音にかき消されて俺には届かなかった。 

 黒の集団が母と叔父に襲いかかる。二人は互いの身を助けつつ反撃するという複雑な戦闘をこなした。能力や癖を熟知している関係だからこそできる芸当だった。

 けれど、敵はそれを上回る。一人を倒してもその間に二人が襲いかかってくる。味方を壁代わりに使って死角から斬りつけてくる。傷ついた仲間などお構い無しで、助け起こすこともしない。

 母が競り負けているのは奴らの連携が高度だからだと思っていた。それは違った。ただ他の仲間を切り捨てて、生じた隙に群がっているだけだ。まるで餌に集中する魚のように、貪欲に二人を狙っている。

 休む間もなく続く波状攻撃は、互いを助け合う母達の体力を削る。


 金切り音のような悲鳴が響いた。夜の闇に何かが飛んでボトリと落ちる。

 それは見慣れた母の腕だった。

 大量の血を流す左腕を押さえて母が苦悶の表情を浮かべると、黒装束の女一人は千切れた腕を拾って、齧りつく。咀嚼し終えると、他の黒装束にも分断された腕を回して、一口ずつ囓っていく。

 何が起きてるのか、すぐにはわからなかった。


 ――人間が、アヤカシを喰ってる……?


 母の心配よりもまず、その光景に意識が囚われてしまう。俺が知らない間に、人間はアヤカシを捕食するまでに変わり果てていたのか?

 しかし俺と違って正気を保っている母と叔父が悠長に眺めているわけもない。すぐさま二手に分かれて攻撃を仕掛ける。

 その挟み撃ちは黒装束達にあっけなく回避された。どころか連中の動きは更に速度を増し、拮抗していたパワーバランスが呆気ないほどに崩れる。

 血飛沫が舞った。叔父の片足が地面に転がっていた。助けに入ろうとした母の背後から黒装束が接近し、彼女の背中を切り裂いていく。叔父は何事か叫ぶが、胸を貫かれて泡混じりの血を吐いて倒れた。這いつくばる母が近づこうとするも、黒装束に両足を切断され、更に胸を串刺しにされる。

 母と叔父は互いに手を伸ばした格好で地に伏せ、動かなくなった。


 死んだ。あまりにも呆気なく。突然すぎて、頭が真っ白になる。

 二人を囲んでいる黒装束の女達は、全員がその場にしゃがんだ。

 そして遺体となった肉体の各部に食らいつく。

 歯を立てて肉を食いちぎり、血を啜り、咀嚼の音を立てながら頬張る。

 

 ――止めて。


 俺の全身は氷になってしまったかのように冷たくて、指先が震えていた。感情は直視を拒否しているのに、なぜかその光景から目が離せない。

 惨劇は、熱波を受けて陽炎のように揺らめいていた。俺の目の前で母と叔父の原型が失われていく。頭を撫でてくれた手も、優しく包んでくれた胴体も、一緒に駆け回った足も、何もかもが消えていく。

 

 ――食べないで。


 声が出ない。愛する人が喰われていく様を見届けるしかできない。

 そのとき、母に群がる女の一人がぴくりと肩を動かし、静かに顔を上げた。

 虚ろで底の知れない深い闇色の瞳が、俺を見据える。

 次の獲物を見つけた歓喜で唇がつり上がる。

 ガサリと音が鳴った。無意識に後ずさっていたせいで、体が葉に触れていた。

 黒装束の全員が顔を上げた。幾つもの目玉が俺を捉えて、獲物を認識する。


「い、やだ……」


 腰が抜けて尻餅をつく。足で必死に地面を蹴っても大して動きはしない。

 食べよう。そんな声が聞こえた。

 黒装束が走りだす。全員が俺めがけて、俺の肉を求めて、涎を垂らし目を血走らせながら迫り来る。


「あああああああああああああああああああ!」


 △▼△


「あ、あああ……ああ……」


 フローリング張りの洋室で、男のか細い泣き声が響いていた。

 寝袋に包まり瞼を深く閉じているが、額には滝汗を浮かべている。苦悶の表情は、まるで拷問でも受けているかのようだった。

 時刻は午前二時。室内は冷たく乾いた空気で満たされている。物一つない居室に男がポツンと置かれている光景は、解放的というよりも空虚さを感じさせた。その心許なさが、彼に悪夢を見せているのかもしれない。


 ヒタヒタと、素足で床を歩く音が彼に近づく。寝袋の隣に立つのはアヤカシを喰う少女、御影依子。

 彼女は一糸纏わぬ姿で男を見下ろしていた。下着すらつけていない。まるで幽鬼のように虚ろな表情で、悪夢にうなされる男を眺めている。

 依子は静かにしゃがみ込むと、何の躊躇もなく寝袋のジッパーを下ろした。そして使用中にも関わらず強引に中へ入り込む。当然ながら一人用の寝袋は狭すぎて、男の体に抱きつくような形になった。

 それでも完全には入れず、彼女の上半身が半ばから外に出ている。ちょうど男の顔面の前に彼女の胸があるような位置だ。

 ううーんと、うめき声の質が変わった。寝苦しさが追加されたせいかもしれない。

 それでも依子は出て行かない。むしろ彼の頭部を抱くように自分の胸元に押しつけた。乳房の間に顔を挟み込むと男は若干眉をしかめたが、すぐに静かな寝息を立て始める。悪夢が終わったのか、人肌に安心したのか、彼は安らかな眠りに入っていた。

 依子はそんな狛村太一の頭を撫でながら、くすりと笑う。


「たーくんは可愛いな……」


 彼の髪の匂いを嗅ぐ。皮脂の匂いと洗髪剤の香り、そして微かに混ざるのはアヤカシ特有の体臭だ。

 アヤカシの分泌液や体液には微量の妖気が混ざっている。彼女の嗅覚はそれを感じ取ることができた。

 ただし太一の体臭から感じ取れる妖気は、これほど接近しても感じ取れるか否かというほど少ない。半妖なのではないかと推測したキッカケでもある。

 不思議なのは、いつもは嫌悪感すら抱くアヤカシの匂いも、彼のものだとまったく不快に感じないことだ。アヤカシの匂いは酸のような刺激臭だったり、汚泥のような悪臭だったりと眉をひそめるようなものが大半だが、彼の場合は妖力の絶対量が少ないせいか割と平気だった。むしろ、どことなくクセになる匂いかもしれない。


「これからは嗅ぎ放題だ」


 依子は小さく呟き、彼の後頭部まで腕を回す。胸に強く押し付けて息を吸い、肺の中に半妖の匂いを充満させる。

 ずっとこうしていれたらいいのに、と彼女は思った。ただひたすら温もりを感じていたい。それに、こうして触れていなければ彼が消えてしまいそうな錯覚を感じていた。

 喫茶店で働いているときの太一は物腰の柔らかい優しい青年で、誰に対しても笑みを絶やさない。そのせいか女性客に好評な店員でもあった。

 しかし目を離すとどこにいるのかわからなくなる。店内にいるはずなのに存在感が希薄で、意識して探さないと彼を見つけられない。


 それは太一が、店長を含むどの人間からも一線を引いているからだと依子は気づいた。いついなくなっても大丈夫なように、これ以上親しくならないようにしている。

 まるで怯え潜む小動物。そんな印象を、依子は持っている。

 何が太一をそうさせるのかはわからない。半妖という出自は決して楽な人生ではなかっただろうし、様々な辛苦とトラウマを抱えているのかもしれない。

 だからこそ依子は嬉しい。癒されぬ孤独を抱え、寄る辺を持たず、誰からも愛されない男。

 そんな彼の絶対的な存在になりたい。彼の世界が自分を中心に回るように仕向けたい。

 それが、依子の渇望だった。


「誰にも、渡さない」


 この世全てに牙を剥くかの如く呟いた依子は、考えを巡らせる。

 太一の存在はどの陣営にもかぎ取られていない。しかし把握されれば、彼は無事では済まないだろう。

 助かる方法は幾つかあるが、そのどれもが極めて困難だ。一番可能性が高い策に取りかかってはいるが、クリアしなければいけない課題が幾つかある。

 失敗したらどうするか。そんな想像をしてから、依子は笑う。

 単純なことだ。この部屋から出さず、始末してしまえばいい。


「ねぇ、たーくん」


 依子はめくるめく幸せな同棲生活を妄想しながら目を細める。

 その幸せが壊れるときは。

 食べてしまえば、それでいい。

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