思い出に浸る 上

 人間の家庭では、思い出を残しておくために色んな場面をビデオカメラで撮影するそうだ。

 アヤカシはそんなことしないし、人間が作った文明の利器を愛用する個体もほとんどいない。だから写真だとか動画はもちろん、思い出の品なんてほとんど残っていない。

 もしも当時の映像を見返そうと思ったなら、それは夢に頼るしかない。

 だけど俺は極力、昔の夢を見たくない。そこでしか母と叔父に会えないとしても。


 △▼△


 深夜。山奥へと入り込んだ場所に、虫の鳴き声だけが響く自然そのままの川原がある。そこで修行するのが、俺と叔父さんの日課でもあった。


「いいぞ坊主。もっと腰を落として、移動するときは動きを最小限に。態勢も固定しろ。そうすれば一瞬で距離を詰めたように錯覚させられる」


 男のよく通る声が響いた。懐かしさがこみ上げて思わず声を掛けたくなる。

 でもこれは夢だから。ただ見ているしかできない。

 当時の俺は、薄汚れたシャツとハーフパンツ、ぼろぼろのスニーカーを履いて髪はボサボサという浮浪者のような格好をしていた。悔しさと辛さでずっとしかめっ面を浮かべているから、余計に可愛くない。

 今は叔父との組み手の最中で、彼の動きに食らいつこうと必死に動き回っていた。けれど実力差は歴然としていて、振り回されているようにしか見えない。 

 対する叔父は青い作業着を纏った青年だ。ただ、姿は人間のものではない。

 ボタンを外してはだけた作業着の中から灰色の体毛が覗いていた。逞しい首筋はふさふさとした剛毛に覆われ、地肌を隙間なく隠している。

 首の上に鎮座する頭部は、オオカミとしか呼びようのないものだ。

 叔父は大きく横に裂けた口を器用につり上げて笑みを表現している。


「どうした息が上がってるぞ。そんなんじゃ姐さんを守れないぜ?」

「ひ、必要ないでしょ……」


 幼少の俺は息切れして動きを止めていた。ぜいぜいと肩で息をしながらうつむき、両膝に手を置いて口元のしょっぱい汗を舐める。


「母さん、俺なんかの数倍強いのに。襲われたって、誰にも負けないよ」


 誓って言うが、母親を見捨てようなんて気持ちは微塵もない。ただ厳しい修行の必要性がわからなくて、ついそんな反論をしてしまった。

 文字通り母親の強さが桁違いなこともあるが、何より俺たちを襲う連中というのにピンとこなかったこともある。人間とアヤカシの相容れぬ関係は理解しているつもりだったが、人里より更に離れた場所に隠れ住んでいたから何も起こるはずがないと思っていた。

 幼少の俺がうつむいていると、その頭を覆うほどの手がぽんと置かれる。叔父の毛むくじゃらな手が小さな頭をわしわしと撫で回していた。


「そうじゃねぇんだ、太一。お前は男だから。きっといつの日か、大事な人を守る番がやってくる。そんなとき立ち向かえるように、今から練習しておくんだよ」


 わかったようなわからないような、曖昧な感触だった。

 夢に見るといつも思う。このときもっと突っ込んで聞いておけば、もっと知ろうとしていれば、未来は変わっていたのかもしれないのに、と。

 

 ひとまず頷いておくと、人狼は嬉しそうに笑う。便宜上叔父と呼んでいるだけの血の繋がりのないアヤカシだが、目を細めて犬歯を剥き出しにするその表情が、俺は特に好きだった。


「そーいやどうだ、変怪へんげできるようになったか?」


 途端、俺は気まずさでまたうつむく。大好きな人からの失望が怖くなったからだ。

 しかし叔父を誤魔化すことはできない。試してみろと言うので、仕方なく俺は変怪を試みる。

 叔父から少しだけ離れて、拳を握りしめてから膝を曲げて全身に力を込めた。胸の奥からわき上がってくる熱に似た衝動を血液と共に循環させる。「はああああっ」と自然に声が出ていたが、我慢するより力が入りやすい。

 ざわりと全身の毛が泡立つ。髪が触手のように蠢く。筋肉が膨張して内側から服を押し返す。次第に黒髪の根元から色味が抜けていき、綺麗な銀髪へと変色し始めた。

 けれど、変化はそこまでだ。

 気を抜いた瞬間に体は縮んで髪の色も元に戻ってしまった。その場にへたりこむと砂利が擦れて音を立てる。


「ふーむ、まだだな」

「……ごめん」

「謝るな。そのうちできるようになる」


 叔父は快活に笑い飛ばすが、俺には不安しかなかった。

 変怪とは、本来は異形の容貌であるアヤカシが妖力を使って人型に擬態することを指す。叔父も、人界に赴く際は人狼ではなく成人男性に擬態していく。

 俺の場合は違う。まず俺は、アヤカシと人の間に産まれた半妖だ。

 中身はともかく容姿は人間の姿に近いし、妖術もろくに使えない。もちろん擬態の妖術も使えないが、人間社会に紛れ込むだけならむしろ必要ない。それでも叔父は俺に変怪の術を覚えさせようとしていた。


 それは人間に化けるためではなく、姿

 妖力を使って細胞組織を活性化させ、俺の中に潜むアヤカシの遺伝を顕現させるという似て非なる方法だった。

 アヤカシとしての特徴を示せないのは色々と問題がある、という叔父の考えで習得を命じられたわけだが……ずっと失敗が続いている。何回やってもうまくいかない。

 叔父も色々とコツを教えてくれてはいるが、生粋のアヤカシである叔父と半妖の俺では肉体構造や妖力の制御が厳密には異なる。だから要領よくはいかない。

 叔父が熱心に接してくれる分、失敗ばかりな自分が歯がゆかった。


「もし変怪できたら、俺の姿はどうなるのかな?」

「きっと姐さんみたいな妖狐だろう。耳とか尻尾も生えるはずだ」


 相づちを打ちながら、母親の姿を思い浮かべてみる。

 妖狐である母は綺麗な長い金糸の髪と鋭く尖った狐耳、ふさふさの尻尾が生えた美しい女性だ。

 早く成功させて、母と同じ姿になりたかった。期待に応えたいということもあるが、自分自身の願望も大きい。

 俺は、ふとした瞬間に強い孤独を感じる時があった。ずっと三人で暮らしているのに、自分だけ離れていっているような疎外感があった。

 二人はずっと優しいままだから、きっと俺の心の問題なんだろう。

 自分の出自が曖昧で、別種の血が混じっていることへの劣等感がそうさせるのかもしれない。だから母と似た姿になれば、もっと安心できるような気はしていた。


「うし、もう朝日も昇るだろうしな。帰って飯にするか」


 頷くと、叔父は快活に笑って歩き始める。俺はその後を追う。

 川原から森に入って獣道を進んだ。周囲が真っ暗闇でも、優れた視力を持つ俺たちにとって移動は苦ではない。


「そういや叔父さん」

「そろそろ人界まで行くの、ってか?」


 俺はきっと図星を突かれた顔を浮かべたのだろう。叔父が呆れたように笑っていた。


「まだ連れてくわけにいかねぇなぁ」

「なんで! 俺は擬態の必要ないし別にいいじゃん!」

「そうじゃねぇんだけど……ま、少なくとも俺に勝てるくらいになったらな」


 またくしゃくしゃと頭を撫でられる。俺はその手をぞんざいにはね除けた。

 叔父に勝つことと街に行くことになんの繋がりがあるのか、さっぱりわからない。別に許可してくれてもいいのに。

 そもそも今だって必要以上に人間の存在を気にしすぎだと思っていた。誰も住んでいない山奥の廃村に住み着いてひっそりと暮らし、寝起きも昼夜逆転。あまりにも人間を警戒しすぎだろう。


 叔父も母も妙に気にしているけど、俺だって別に人間社会に混ざりたいわけじゃない。食うつもりもない。産まれてからずっと三人で暮らしてると飽きも来るもので、多少の刺激が欲しくなっているだけだった。

 たとえ半妖でも、俺はアヤカシの一員だ。アヤカシとしての生き方を学び、アヤカシの世界で生きていく。人間の父親が誰なのかとか、母と叔父の関係とか色々気になることはあるけれど、二人に従っていればそれでいい。たまに人界のことを知ったり、変怪ができるように訓練していればいい。

 俺はそんな風に、呑気に考えていた。


 間違いだった。

 何も知らず、疑わず、のうのうと生きていた俺は馬鹿で無知だった。


「止まれ」


 獣道を抜ける直前、叔父が制止の声をかけた。

 俺はまるで金縛りにあったようにその場に硬直する。叔父の声が、今まで聞いたこともないほどの緊張と剣呑さを含んでいたから。

 叔父はすぐさま俺を背の高い草の茂みに押し込んで、自分は木の陰から獣道の奥を注視する。


 林が途切れた先には開けた場所があった。夜闇の中で幾つかの建築物のシルエットが浮かび上がる。山の傾斜地に水平に作られた土台があり、そこに人家が建てられていた。ただし、全てが廃屋同然に朽ちている。

 かなり昔に村落があったようだが、人が絶えたのか今では誰も住んでいないし道も敷かれていない。完全に人間社会から分断されているからこそ、アヤカシが住むには絶好の場所だった。俺たちはその廃屋の一つに住み着き、増改築しながらひっそりと暮らしている。


「叔父さ――」

「喋るな」


 遮った叔父は一度もこちらを振り向かない。何かを探るように視線を一点の方向へ向けて固まっている。

 何か起きているのか。嫌な予感が胸中をざわつかせる。


 目の前で閃光が迸った。


 眩しさに俺は「うわっ」と声を上げて、腕で顔を隠す。次に熱波が襲い来た。

 頬や腕がちりちりと焼けて、視界の端では枝や葉が飛び散っている。

 勢いが落ち着いたとき、そろりと腕を下げる。まず目に入ったのは、火だ。

 俺たちが住んでいた家屋が、燃えている。炎が爆ぜる音がはっきりと聞こえていた。猛る火が生き物のように近隣の木々に燃え移って、周囲を赤に染めていく。

 バガンッという甲高い音が混ざった。

 燃え盛る家屋の天井を突き破って何かが飛び出てくる。それは空中で回転すると地面に四肢を打ち付けるようにして着地した。

 炎の赤を受けて金色の髪と尻尾がきらきらと輝いている。身につけた和服は熱風を受けて揺らいでいた。


「かあ、さん」


 後ろ姿からでもはっきりとわかる。母である妖狐のアヤカシ、桔梗ききょうだ。

 俺の声はほんの囁きだったはずだが、狐の耳がぴくりと動き母がぐりんと振り向く。

 美しい顔は怒りに染まっていた。犬歯を剥き出しにして、瞳孔は猫目のように縦に細い。いつも優しく陽気な態度からは想像できないほどの激情を浮かべていた。

 俺が言葉を失っていると、母はくいと顎をしゃくる。向こうへ行けというジェスチャーだ。


 説明もなしに離れられるものか。反発して俺が茂みから出ようとしたとき、炎上する家屋の周囲から複数の人影が現れた。 

 武器を持った人間達だった。全員が同じ種類の黒装束をまとっている。炎の光が逆光になっていて顔が判別できないが、なんとなく体型や髪の長さからして女しかいないような気がした。


「逃げなさい!」

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