元気づけたい依子さん

「たーくん。勃起は?」


 ……依子さん、十人中十人が絶句する聞き方です

 俺はそろっと自分の股間部を凝視する。自分の体のことは服の上から見なくてもわかるが、そこに性的興奮の特徴が出ていないことは明らかだった。


「なんで!?」


 依子さんは俺の胸ぐらを掴んでぶんぶんと揺さぶる。ものすごい力で視界が揺れ動く。


「どうして興奮してないのたーくん! 私を好きって言ったのは嘘なの!?」

「おちおちちおちちつつ」

「……わかった」


 揺さぶりが止まった。

 同時に、首筋に大ぶりのナイフが当てられる。冷たく無機質な触感に息が詰まった。


「やっぱり嘘なんだ」


 ぐっと刃が近づき、薄皮が切れて血がにじみ出た。途端に脂汗が噴き出る。

 殺される。冗談抜きに殺される。

 そう直感した途端、生命の危機に抗うように思考がフル回転した。


「そ、そうじゃないんだ依子さん!」

「でも私に反応してない」

「それは……! き、緊張してるから! 俺、初めてだし、男も思ったようにいかないってよく言うから……!」


 我ながら情けない弁明だと思ったが、生死の問題を前にすれば恥もプライドも関係ない。

 捲し立てる一方で下半身に意識を向けてみたが応答なし。やる気ゼロ。

 だって、しょうがない。外見はとても美しい女の子でも、殺されるかもしれない相手かつ何を考えているかわからない不気味さを存分に見せつけられれば、こうもなる。

 アヤカシといっても多種多様だが、生殖能力が人間とほぼ変わらない個体もいる。俺もその部類に入っているようで、欲情すればその、人間のような性的行為も普通にできるだろう。

 ただ男としての部分が萎えてしまっていた。経験のある人にはわかるはずだ、こうなるとなかなかうまくいかないことを。

 しかし回復しなければ依子さんの期待を裏切ることになる。焦りに反比例するように俺の下半身はピクリともしない。まさか勃たないことが死亡原因になるなんて、こんな悲しい最後あるだろうか。


 依子さんは黙り込む。やっぱり駄目か、と諦めかけたところで、ナイフを握る手がすっと降ろされた。


「なーんだ。良かった」


 ほっとした表情の依子さんは、握っていたナイフをスカートの内側にある太もものホルスターに素早くしまいこんだ。ナイフはそこに隠し持っていたのかと今更に気づいたが、呑気に観察している場合じゃない。

 依子さんは両手をぽんと合わせる。


「初めてならそういうこともあるよね。うんうん。じゃあ私が元気にさせてあげるね」

「えっ」

「色んな方法が書いてある本も、買ってきてあるの」


 待ってて、と言い残し彼女は部屋を飛び出していく。

 残された俺は考える。元気にする方法……?


「ちょ待っ……!」


 すぐに彼女を追いかけた。依子さんが選ぶ方法がまともであるとは限らない。わけのわからない媚薬とかものすごく斜め上のマッサージをやられるという危険性がある。色んな方法という言葉がまた不安だ。


 ――せめてまともであってくれ!


 と心中で叫んでから、別の誰かが囁く。

 普通の愛撫だったらいいのか? 満足して彼女と寝るのか?

 母と叔父を殺したアヤカシ喰いの仲間と、お前は一夜を共にして、それでも笑ってやり過ごすのか?

 無意識に、立ち止まっていた。リビングの床を睨みつける。

 だからってどうすればいい。もう俺はあの子から逃げられない。

 依子さんの求めることをするしか……。


「……依子さん?」


 ふと、物音がしないことに気がついた。

 リビングらしき部屋に出ても彼女の姿はない。よく清掃の行き届いたアイランドキッチンと食器棚、テーブルがあるだけだ。

 そこで、奥にまだ部屋が続いていることに気づく。足音を消して近づくと、電気が消された薄暗い室内に依子さんが座り込んでいた。

 室内を見渡して軽く衝撃を受ける。部屋は四隅が本棚で埋め尽くされていた。出会った頃から読書家だとは思っていたが予想以上の数だ。他にはベットが一つ、というのも異様さに拍車をかけている。

 書室なのか寝室なのかよくわからない部屋の中央で、依子さんは可愛らしいピンク装丁の本を読みふけっていた。慌てて本を取ったせいか床には数冊の本が散らばっているが、それに頓着しないほど集中している。


「依子、さん?」


 声をかけても反応がない。そろっと表紙名だけでも確認してみる。

 タイトルは「イキイキ奮発! 彼氏をあなたなしでは生きていけなくさせる魔性の秘技四十八連発!」と書いてある。

 どこのおっさんが作った本だ。

 いやでも一応まとも(?)な部類の本にはなるのか。

 つまり、この後は彼女の思うがままだ。男とは悲しいもので、精神的に辛くても肉体的刺激があったら準備万端になってしまう。

 殺されないために、母の仇と同類の少女のご機嫌を取って生きていくことを、俺は受け入れられるのか?

 複雑な気持ちを抱えて待っていると、読み終えたらしき依子さんが本を置いて振り返る。


 ――あれ……。


 なぜか依子さんの目が泳いでいた。瞳も潤み、頬が赤く染まっている。


「あ、あのねたーくん」

「はい」

「も、もうちょっと待って……こんなことするとは、思わなくて。気持ちの準備が」


 依子さんになにが起こっているのか。少ない言葉ながらも俺は察した。

 めちゃくちゃ恥ずかしがっている。

 予期せぬ反応に俺がぽかんと口を開けていると、もじもじした依子さんが本で口元を隠しながら上目遣いの目線を送る。そこには恥ずかしさとは別に申し訳無さも混じっていた。


「たーくんのためにしてあげたいって気持ちはあるの! でも、いきなりこんなことは難易度が高くて……あの! 私練習しておくからね!」


 ハッとした俺は急いで首を横に振った。これはチャンスだ。


「い、いや、ゆっくりでいいんだよ。俺たちはまだ付き合い始めだし、ちょっとずつでいこう。ね?」

「うう……優しい。たーくん大好き」


 依子さんが涙ぐむ。俺は理解力のある彼氏風の顔を浮かべて頷いておく。

 しかし内心では、ため息と共にガッツポーズをしていた。あの依子さんに躊躇いというものが存在したのはかなり意外だったが、とにかく一線を越えずに済んだ。

 どこのどなたか存じませんが、魔性の秘技本を作った方。あなたのおかげで俺は助かりました。ありがとう。

 ……それにしても依子さんが怯むほどの指南本って、一体どんなことが書かれてるんだろう。

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