積極的な依子さん

 ニコリと笑った依子さんの顔色はまたいつもの調子に戻った。その瞬間、痺れが取れるように体が緩む。

 俺は、知らず知らずのうちに愛想笑いを浮かべていた。

 これまでの人生で何度も作ってきた表層だけの、しかし相手が確実に俺を見下し手を抜きはじめる弱々しさを含んだ笑い方。

 それは一人で生きるために必要な表情だった。へらへらして、標的から外れるのをひたすら待つための演技を、俺は身に着けなければいけなかった。


 その愛想笑いを向ける対象は、ついさっきまでは鬼達だった。アヤカシ喰いを捕獲するためにわざわざ北陸から来たらしいが、ある出来事がキッカケで因縁をつけられ、半ば強引に協力させられていた。

 奴らは「ミカゲヨリコ」という敵の名称、そして容姿の情報を提示し、合致する人間を探せと伝えてきた。しかし探すまでもなく、アヤカシ喰いと呼ばれる人間に酷似する少女と、俺は知り合いの仲だった。

 人間とはいえ、個人的に付き合いのある子だ。当然、罪悪感や憐憫はある。

 同時に、母親と叔父を殺したアヤカシ喰いへの恨みがある。本当に依子さんがアヤカシ喰いなら、母を殺した奴らのように残忍な本性を隠し持っているかもしれない。大人しそうな姿が嘘であれば、いずれ俺のほうが騙されるかもしれない。

 そうして猜疑心と一抹の不安と、生き方を選べない自分への嫌気を抱えながら、仲良くなった女の子を誘い出した。

 その結果は、まったく予想しなかった方向に転がり始めている。

 

「ところで、たーくん」

「……たーくん?」

「狛村太一だから、たーくん。恋人同士だし、もう敬語も止めるね」


 可愛らしい猫なで声で宣言した依子さんは、腰の後ろに手を組んで近寄ってくる。


「しよっか」


 なにを、と聞く前に彼女は甘ったるい声で囁く。


「せっくす」


 直後、両脇にひんやりとした感触。依子さんが抱きつき、シャツの下から手を突っ込んで俺の腰に腕を回していた。いい匂いと柔らかさからくる高揚、そこに恐怖心がブレンドされてかつてないほどパニック。


「ちちち、ちょっと依子さん!?」

「邪魔でしょ? さぁぬぎぬぎしましょうね~」


 そう言いながら依子さんがシャツを脱がそうとする。

 展開が予想できないにも程がある!


「な、なんでこうなるの!」

「そういう流れよたーくん」

「どこが!? いやほんと! 待ってってば!」


 強引に動く彼女の手を止めて真正面から向き合う。どこか悪戯な笑みを浮かべる依子さんに、少しばかりドキリとした。

 俺は深呼吸して、ゆっくりと諭すように話す。


「……あの、依子さん。いくら俺が人間と変わらない容姿でも、半分とはいえアヤカシの血が混じってる……つまり化け物だ」


 ガラス細工のように綺麗な瞳が俺を捉える。その黒水晶には、苦い顔をする俺が映っていた。


「依子さんは人間で、人間のために戦うアヤカシ喰いで……そんな人が俺を好きだって言うのは――」

「信じられない?」


 止まっていた手が再び動く。今度は脇をすり抜けて背中に回った。

 冷たく細い指先が肩甲骨の辺りをなぞり、くすぐったさと恥ずかしさがこみ上げる。彼女は俺に密着するように、胸板へ右頬と右耳をぴったりとくっつけてきた。


「可哀想なたーくん。でも安心して。私から言わせれば、あなたには半分も人間の血が混じってるの。機能的にも精神的にも、交わるには十分」


 扇情的な声が耳朶を刺激する。背筋を這う指先が、何かを確かめるようにもぞもぞと蠢く。


「でもね、たーくんの不安もわかるわ。あなたにはアヤカシの血が半分混ざってる。忌まわしい外門の血が、好きな人を傷つけてしまわないか心配なのよね?」


 依子さんの口ぶりには迷いとか演技の成分は一切感じられない。彼女は本気なのだ。本気で、自分の思う解釈こそが事実に違いないと捉えている。

「だからね」と依子さんが呟いた瞬間、背中に鋭い痛みが走った。思わず声が出そうになる。

 依子さんの爪が肌に深く食い込んでいた。まるで肉を突き破ろうとするような力の込め方に、体がビクリと仰け反る。


「もしもアヤカシの本性が現れて、私を裏切ったり襲おうとしたら。彼女としての責任を果たして、あなたを食べてあげる。そうすればもう苦しむことも悲しむこともないし、あなたは私の一部。どっちに転んでもお得なの」


 うふふ、と依子さんが笑う。愛らしさの奥に絶対的な狂気を潜めながら。

 背中を擦る指先が踊るように下へ移動していき、シャツの中から出ると下腹部へ向かった。そしてデニムの上から、優しい手付きで股関節へと触れる。

 俺はおぞましさを堪えながら、目を閉じた。

 一部とはいえ、敵であり人外の血肉を持った男とそういうことをしたいと思うような感覚は、俺には理解できない。理解できないからこそ、気持ちが悪い。

 もはや疑いようもないだろう。御影依子は、狂っているんだ。

 でも、狂っていようとなんだろうと、ここで彼女の機嫌を損ねれば俺の人生が終わる。少しでも意にそぐわないことをすれば、彼氏のふりをしなければ、即座に首が跳ね跳ぶのだろう。

 結局いつものように、流されるばかりで俺の意思は関係ない。愛想笑いを浮かべて耐えるしか道はない。

 ……でもなぜか、今はうまく笑えない。

 俺が下手くそに口角をピクピク動かしていると、「あれ?」という疑問系の声と共に依子さんの指が止まった。


「……変わってない」


 そろりと目を開ける。依子さんは俺の股間を凝視しながら、眉間に皺を寄せていた。


「たーくん。勃起は?」

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