連れてきちゃった依子さん
気がつけば俺は、見知らぬ部屋の中で立ち尽くしていた。
室内には家具はおろか物一つ見当たらず、フローリングの床は新品同様に真新しい。新築に引っ越してきたばかりのような殺風景さだが、窓にはシックなデザインのカーテンだけ付けられていた。
俺は口元を手で押さえる。
なんでこの部屋にいる?
吐き気に似た気持ち悪さが胃の中を這う。なにが気持ち悪いって、覚えているから。公園から、確かにここまで歩いてきたことを。
ただ、道中の記憶がもの凄く曖昧で、どこをどう歩いてきたか、それを全く覚えていない。薄ぼんやりとした景色は思い出せるのに、霞がかかったように全体像がぼやけている。
かなり酔っ払って知らない人の家にあがりこんだとか?
いや、そんなわけない。誓って言うが、酔ってはいない。
原因があるとすれば、それは。
「はい到着しましたよ~」
背後からのんびりとした、柔らかい声が降りかかる。それと同時にペリペリと何かが剥がれる音がした。
そろりと振り返れば、そこには黒のワンピースに身を包んだ美少女が立っている。彼女――依子さんは、俺に向かって微笑みながら、手に持っている札をひらひらと振ってみせた。札には、お経のような朱色の文字がびっしりと書き込まれている。
「ちょっと気分が優れないかもしれませんが、すぐに良くなるので」
依子さんの声はどことなく弾んでいた。まるでデート最中のように明るい。
公園でみせた凄惨な顔も、別人のように険しい声質も、今はその片鱗がまったくない。
なんでそんな顔で、そんな風に俺を見つめられるのか。俺と依子さんの関係はほんの少し前に完全に崩れたんじゃなかったか。
もしかすると夢なのかも、と現実逃避みたいな考えが過ったけれど、彼女の手や服に付着した赤い血痕が俺の楽観視を中断させる。
生唾を飲み込むだけでなにも言えないでいると、依子さんは不思議そうに首を傾げた。
「まだスッキリしません? その酩酊感はあくまで<神隠しの呪符>の影響なので、ゆっくり深呼吸してから――」
依子さんがすっと手を伸ばす。その指先に付着した赤が見えた瞬間、俺は仰け反るように後ずさっていた。
「あ、脳は正常だ」
まるで実験動物を観察するように呟き、依子さんは微笑みを深める。俺は乾いた喉で喘ぐように息を吸う。
「こ、こは」
ようやく声が出た。自分でも驚くほど掠れた声だった。
「私の自宅ですよ~」
自宅。その単語を聞いた瞬間、俺は周囲を見回していた。
いつのまにか入っていたこの部屋は六畳ほどのフローリングの洋室で、一つだけある窓もカーテンが締め切られて外が見えない。記憶が曖昧なので、この建物がどの地域にあるのかもすぐにはわからない。
出入り口の扉は開け放たれていて、その向こう側にはアイランド型キッチンと食器棚、それにテーブルが見えた。埃一つ見当たらないほど小奇麗で、ショールームかなにかと錯覚しそうになる。だからか、人が住んでいる独特の雰囲気というか、匂いが感じられなかった。
でも問題はそこじゃない。ここが依子さんの自宅だというならそれでいい。
なんで、自宅なのかだ。
「どうして……俺は、ここに?」
「一緒に住むために決まってるじゃないですかぁ。晴れて恋人同士になったんだから同棲するのが普通ですよね?」
ふふ、と含み笑いをしながら依子さんが手で頬を押さえる。
その言葉を額面通り受け止めるほど、まだ俺は冷静さを失ってはいない。隠された意図があると思うのが普通だ。
「……俺は、どうなるのかな」
小柄な少女を目の前にしながら、俺はまたほんの少しだけ後ずさっていた。平静を装うとはするが、恐怖と困惑で心臓が暴れ狂い、耳の奥でドクドクと血が流れる音が聞こえる。
「どうって?」
「依子さんはその、アヤカシを喰う人間……だよね」
「そうですね。正式名称は<滅怪士>と言うんですけど」
彼女は誤魔化しすらしなかった。正式名称があることにも驚いたけど、この普段どおり過ぎる依子さんの態度がどうしても不気味に思える。
読書を嗜んでいた大人しい少女に対する印象は、今や百八十度変わってしまっていた。
「……アヤカシは人間の敵で、俺を生かしておくわけが――」
「でも狛村さんは半妖、つまり人間とアヤカシを親に持つハーフですよね?」
確認するような問いかけに、俺は答えるのを躊躇った。
自分が半妖であることは誰にも喋らなかったし、悟られないようにしてきた。人間側にもアヤカシ側にもつかず、こそこそと隠れ潜むように生きてきた。それが、非力な俺が生き残るための唯一の方法だったからだ。
けれどそれは、半妖と見破る術を持たない連中が相手だったから通用していたに過ぎない。どういうわけか依子さんには俺の中に流れるアヤカシの血を嗅ぎ取る力があるようだが、その事実は彼女が脅威の存在であると示してもいる。
人間を喰うアヤカシの上には、アヤカシを喰う人間が座っている。
いつだったか、食物連鎖に例えられた話を聞いたことがあった。彼女がそうであるなら、何を言ったところで致命的な状況は変わらない。
「……そう、俺は半妖です。君たちの、人間の敵」
観念してそう言うと「半妖って珍しいんですよね~」というのんびりした返答があった。
「正院の記録にも保存されてるので、昔からいたのはわかってたんですけど。私は見るの初めてでした」
依子さんは腰の後ろで手を組むと、興味深げにじろじろと俺の顔を眺める。
「鬼のように変態はできるんです?」
「……完全には、できない」
「じゃあ人間との違いは? さすがに身体機能は上だと思いますけど」
「……どうだろう。素手で自転車を破壊したことは、あるけど」
「食事は? 人間じゃないと駄目?」
「人間は食べない」
無意識だったが、すぐに答えていた。
俺には確かにアヤカシの血が流れているが、食人衝動に駆られたことは一度もない。未だ人間社会で暮らしていられるのはこの体質のおかげだろう。逆に、アヤカシの社会に混ざれなかったのもこの体質のせいだといえる。
そのことを強調してから、はたと気づいた。
人間側に気遣ったところで意味なんてないということに。
俺は半妖で、人間とも違う。付き合いが深くなればなるほど、その違いが浮き彫りになって俺という存在の異質さが際立つ。人を食わなくたって、俺が化け物であることに変わりはない。
そんなことは依子さんだってわかっているはずだ。無駄なのに取り繕って馬鹿みたいだと、冷笑を浮かべているんじゃないか。
そんな俺の予想に反して依子さんは、ふむふむと熱心に聞きながら相槌を打っている。なんだか拍子抜けする一方で、尋問じみたやり取りが気にかかる。
思うに、結局のところ何らかの理由があって俺を隔離したかったのではないか。自宅だとか同棲というのも嘘で、情報を得るための尋問や他の人間との合流を待っている、とか。それならわざわざ連行した辻褄も合う。
穿って考えていると、彼女は晴れやかな顔でぽんを手を打った。
「やっぱり狛村さんはまだ食べないで良さそうですね」
「食べな、え?」
「だって、人間に手を出さないなら無害だし、弱そうだし。一緒に住むのに問題はないから」
「さっきから、なにを、言ってるの……」
「やだなーもう。同棲の話ですってば」
……様々な疑問が渦巻いているが、まず確定させなければいけないようだった。
「同棲は……本気で?」
「だからそう言ってるじゃないですか~。好きな相手とは一緒に住むものでしょ」
思考が停止して、一瞬後に声が出た。
「あ、あれは君を騙すための演――」
言葉は最後まで続かなかった。依子さんの瞳から光沢が失われ、その虚無が俺を捉える。
「好きって、言いましたよね?」
彼女は念を押すように、ゆっくりと告げる。刃物のように鋭く冷たい眼光が俺の心臓を鷲掴みにする。
「好きって言ったの、嘘なんですか?」
暗闇よりも深い黒の瞳に射竦められ、背筋を怖気が走る。
違うと言ったらどうなるのか。脳裏を過ぎるのは、分断された鬼の首だ。
「い、言いました」
気づけば自分の口が勝手にそう告げていた。誤解を解こうとか意図を探ろうという考えは、粉微塵に吹っ飛んでいた。
理性とは別の本能的な部分が、依子さんに屈してしまっている。
「私も好きです」
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