第7話

 綾香は、廊下を走る。行き止まれば右手に階段、駆け降りる。また廊下を走る。部活棟を出て、開けた視界に恐怖し、すぐに建物の裏に飛び込む。誰にも姿を見られないように茂みにしゃがみ込み。

 「ぅ、うえぇぇ……」

 戻す。胃の中身をすべて吐き出す。そのまま心臓まで出てきそうな勢いで、げーげーと嘔吐する。そうしている間にも、綾香の右手はポケットの中の携帯電話をつかんだ。最近人数の増えた電話帳。その中から目当ての連絡先を探す。が、震える親指では操作がままならない。ようやく砥石の電話番号に行きつく。発信しようとした。しかし、指はなかなか決定ボタンをとらえない。

 「くそっ、くそっ、くそっ」

 押せない、押せない、見当違いな操作を繰り返す。次の連絡先、前の連絡先、メニューを開く、メーラー起動、待ち受けに戻る。

 「くそっ、くそっ、くそっ!」

 果たして、綾香は電話をかけることに成功する。急いで耳に押し当てる。のろい呼び出し音に、イライラが募る。

 「くそっ、くそっ、くそっ!!」

 プルルルル、プルルルル。

 「くそっ、くそっ、くそっ!!!」

 プルルルル、プルルルル。

 「!! !!」

 おおよそ篠原綾香だとは思えない叫びに、携帯が応えたとは考えづらいがともかく、ほどなくして電話がつながった。

 【もしもし、篠原?】

「か、かか会長」

【どうした、様子が変だぞ?】

「い、今すぐ、時間を、戻してください」

【篠原、落ち着け】

「早く! さっき私と別れた時まで! そして私を部室に返さないで! そのまま私を、こ、ここ殺して! 私を殺してっ!!」

【落ち着けと言っている!!】

 砥石の言葉は耳朶を打ち、綾香の脳は一瞬マヒする。その一瞬の間に砥石は、優しい声で綾香の緊張をほぐした。

 【ゆっくりでいい。急ぐ必要はない。説明をするんだ】

「……はい」

 文人の口から裕介の名前が出たとたんに、綾香は激高した。言い訳できない醜い怒りと憎しみが膨れ上がり、綾香は文人を突き飛ばした。不意打ちだったからだろう、彼は簡単に飛ばされてしまい、頭から窓に突っ込んだ。割れたガラスが深々と、刺さってはいけないところに刺さっていた。

 つまり綾香は、文人を殺してしまったのだ。

 「私はそんなつもり、なくて……」

【もういい、十分理解した。いいか、誰にも見つからないところでじっとしているんだ。学校に着いたらまた連絡する。血迷うなよ、篠原。お前の取柄はその冷静さなんだから】

 しばらくして電話がかけなおされた。詳しい場所を伝えると、綾香が入ってきたところから砥石が姿を現す。茂みに縮こまってガタガタと震える綾香はとても弱々しく見え、砥石は悲痛そうに表情を歪めた。

 「会長……」

【篠原】

 綾香は、今までにないほど沢山の涙を砥石の腕の中で流した。このルートに来てからというもの、綾香は砥石に甘えてばかりだった。裕介と約束した、裕介に少しでも近づくという誓いは、綾香の心には微塵も残っていない。

 「会長、お願いです。時計を貸してください。今度はしっかり、返しますから……」

 とにかくやり直したかった。裕介がいないだけでも死にたいほど辛いのに、人を殺した罪を背負ったまま生きていくことなど、できるはずがなかった。裕介に合わせる顔が、なかった。

 砥石は。

 【…………】

 砥石は、何も喋らない。綾香の呼びかけにも答えようとしない。

 ただ強く、綾香を抱きしめるだけ――。


 綾香は気づく。

 強く、抱きしめられて。

 動けない。


 抜け出そうと少し身をよじった。すると綾香の背に回された腕は、さらにきつく綾香を縛る。

 「会長、まさか――」

 砥石はなお答えない。が代わりに、彼方から。


 サイレンの音が、聞こえてきて。


 「は、離して!」

【……篠原】

 初めて砥石が口を開く。綾香の耳元に口を寄せて。位置的に、綾香からその表情は見えない。

 【すまない、篠原】

「会長! 離して、お願い離して!!」

 砥石はここに来るまでの間に、警察に通報したのだ。この高校で殺人が起きた、篠原綾香がその犯人であることを。

 そして綾香が逃げないように、この場に留めるために、縛る。

 「会長!」

【私はいつだって、私の正義に従って生きている】

「いやっ、離して!」

【君の話を聞いてる時から、薄々思っていた。君は五十嵐君を助けるために、犯罪まがいのこともやってきて、しかも時計の力で逃げおおせている。その使い方を、私の正義は良しとしない】

「離してっ! 離してえっ!!」

【今回ばかりは見逃せない。人殺しは、何よりも悲しい、償えない罪だ】

!!」

【私は、君の味方にはなり切れなかったようだ。本当に、すまない】

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