第2話

翌日、正一はいつものように工場で働いていた。田原も相変わらず喚いている。

「昨日さ、すっげえ美人見たの。待ち合わせしてたんだろうな、ほら銀座通りの、あのへんな像の前立っててさぁ。もうみんな見てて、俺も思わずまじまじ見ちゃったよ」

特に相槌を打たずとも、田原はおかまいなしに喋る。黙ると死ぬタイプの人間なのだろう。

「まつげは多分あれ自前で長いんだな、長いのに嫌な感じしないし。唇なんかきつい赤がよく似合うの。あんな美人なかなかいねえよなぁ、アイドルとかよりはモデルみたいな、そう、そういうタイプだな」

昨日とは一転して誰にも不満をぶつけていない。この男にしては少し珍しいことだった。

「女の話くらい乗れよお、それとも酒のが好きか?」

と、正一に話を振ってくる。そしていきなり声量を落とし、

「お前、脳を買うって言ってたよな?」

意味ありげににやつく。まるでツテがあるんだとでもいうように。……話に脈絡がないのもそうだし、声の調子も明らかに怪しい。第一、この男は昨日まで散々機械の脳をバカにしていたのだ。正一も流石に眉をひそめた。

「そんな顔すんなって。……今日も上がり一緒だろ、ちょっと付き合えよぉ」

「……わかりました」

正一の返事に、田原はにやりと笑みを返しただけだった。

正一が了承したのは、ほとんど自棄と言ってよかった。田原とはここで話を聞く程度の付き合いしかない。退勤後何らかの約束をすること自体初めてだった。

「はー、しかし腹立つなぁ、なんで人間さまがロボットのアームやら何やらを作らなきゃなんないんだ。てめえで作れっつうの!」

田原はいつもの調子に戻ったようだ。正一は目の前を流れる部品をぼんやり眺めながら、一ヶ月ずっと続けてきたつまらない作業をする。単調な作業の中で、彼は小説のストーリーを考えていた。時折目の前は書いている文だったり、情景だったりに覆われて見えなくなる。作業が滞るのはそういう時だった。

「マエダショウイチさん」

聞き慣れた声が飛んでくる。

「作業速度の40%アップをお願いします」

ロボットの声は無機質で無感情だ。それは理性的とも取れるが、事務的でひどく冷たい印象も与えていた。無論声は柔らかく耳あたりの良い声になるよう研究され、日々更新されている。だがどうしても、人々の「命令されている」という意識は消えない。人間が機械に使役されている、どうしてもそれに嫌悪感を感じるのだ。

やがて就業のチャイムが流れ、従業員が帰り支度を始める。

ああ、ここでもなのか、と正一は思う。機械が音楽を鳴らすタイミングで、人は仕事を始め、そしてやめるのだ。

「前田、なーに考えてるんだよ」

見ると田原はとうに身支度を済ましていた。正一はというとまだ軍手も外していないのに。

「ああ、はい、少し。……今行きます」

二人は、夜の街に繰り出した。


開けた道の喧騒と違い、裏道はやや静かだ。落書きや、工場の前にもあるような看板が、それとなく治安の悪さを表しているようだった。

歩いている間ずっと静かだった田原が、急に口を開いた。

「あんた、脳を買うって言ってたよな」

「はい」

「何でだ?」

「はい?」

急な問いに正一は少し考え込む。それを見て、田原はロボットがやっている屋台へ足を向けた。ホットスナックが数種類売っているらしい、田原はフライドチキンを二つ買って、片方を正一に渡した。

「食えよ、なんとなく手持ち無沙汰になるだろ」

その雰囲気から、正一は何となく話が長丁場になりそうだと感じた。路地の脇の手頃な岩に二人は腰かける。田原がチキンにかぶりつくのを見て、正一もかぶりついた。むせた。

「激辛だぜ」

にたにた笑う田原は、二口目で思い切り咳き込んだ。

「ごほっおほっんんん゛ん゛っ……まあ、そのなんだ、お前は何で脳を買いたいんだって話だ」

「……何でそんなこと聞くんです?」

一般的に脳を買いたいとかいう思考は、一昔前でいう、とりあえず大学に行っておきたいみたいなものと似たようなものだ。脳を積み増しておいた方が良い職につける、それはおよそ間違いない。

「あんたはよっぽどの理由があるんだろ。脳を買うんだって行った時の目が違うし、俺がぎゃあぎゃあ騒いでる隣でずっとなんか考えてるし。大体なぁ、脳買いたいんならあんなクソみたいな工場で働くなんて頭おかしいんだよ。とっとと腎臓でもなんでも売った方がマシだね、間違いない」

「……つまり?」

「そーゆー頭のおかしい奴に、脳を売り付けろとか頼まれた人間が、俺なんだけどね?」

田原はそういってチキンをかじり、またむせる。

おかしな話だ。あれだけ機械の脳を毛嫌いしていた当人が、売りつけるだなんて。

「ひとまずあんたが何で脳が欲しいのか教えてよ。それによってはさ、俺が売ったげるから」

田原は金額を耳打ちしにんまりする。あの工場の給料のほぼ一月分だった。正一にとってはまたとないチャンスだが、リスクは計り知れない。……同時に、ここで勝負せずにどこで勝負するのか、という気持ちもあった。

正一は冷めかけたチキンをぼんやり眺めながら、口を開いた。

「俺は、元々脳を持ってたんです」


ずっと、脳を増やしたかった。

思考というのは要するに電気信号だ。脳医学は進歩が遅いと言われていたものの、ゆくゆくは機械の脳を作ることも、その機械脳で脳を積み増しすることも可能だと正一は信じていた。そうやって思考がまとまったのは中高生の頃だが、思えば物心ついた時から、考えたい、もっと早く考えたい、という気持ちはあったように思う。

それは物語を書く趣味と結びついていた。人を書くには人を学ぶ必要があり、花を書くには花を学ぶ必要がある。本を読むにも街へ出かけるにも、もっともっとという思いが募った。正一は何かに追い立てられるように学んでいた。今書ける文章は今しか書けないと、今から思えば自分自身に追い立てられていたのだろう。

人工的に脳を積み増ししできる、というニュースに正一はすぐ食いついた。当時小学生だった正一は、サンタさんに脳をねだった。その年サンタさんは本をくれた。それが中学生の終わりまで繰り返され、その頃になると正一は流石にサンタさんに頼みごとをしなくなった。

代わりに、某大手企業の研究協力に参加することにした。 機械脳を大規模に販売する前に、さまざまな年齢の脳に実際に機械脳を取り付けようというのだ。

両親は始め反対したものの、多額の謝礼金や正一自身の熱意に押され、承諾の判を押した。高校生の機械脳の実機テストとしては、第二弾だとかそのレベルで、周りは機械脳と聞いても現実味がない者のが多かった。

とにかく、脳を積み増してからというもの、正一はこれまでの人生で最も充実した時間を過ごした。学校の授業に完全に集中しながら小説の構想に集中し、授業以外の時間は本を読むか出かけて知識を吸収していたし、それで小説を執筆していた。


「小さい頃から、推敲は頭の中でしていたんです」

二人の手にあったチキンは骨と包み紙だけになっていた。黙って聞いていた田原が突っ掛かる。

「……はぁ?」

「頭の中で文章を組み立てて記憶して、小説にしていたんです。だから紙に書いたり、パソコンに打ち込む段階では、もう誤字脱字のチェックまで終わってたんです」

「やっぱりあんた、いかれてるよ。何のために紙があると思ってんだ」

田原が呆れたように言う。

「実際、小さい頃はあまりうまくいかなかったんです。絵本とかそういう短い文章で我慢してました。でも脳が増えて、一気に世界が広がったんです。一万字二万字、脳内で書ける量も厚みも増えていって、それはとても幸せでした。新人賞に出して小さな賞ももらったりして。ほんとに、幸せでした」

そこまで言うと、正一は押し黙った。田原も特に急かしたりすることなく、黙ってチキンの袋をもてあそんでいる。

二人の目の前を大きな車が横切った。こんな狭い路地だからか、ゆっくりと走行している。自動運転になってからというもの、交通事故はずいぶん減った。こういう狭い道で馬鹿みたいなスピードを出す車がいないからだ。

「殴られたんです」


高校からの帰り道、正一はいつものように考え事をしながら歩いていた。小説の構想を練り、はしゃぐ子どもを観察し、プランターの花を見る。住宅街に入ってから、後頭部にガツンと衝撃が走った。

「たおしたぞお!キカイニンゲン!」

笑い声とはしゃぎ声が聞こえたような気もする。とにかく正一はショックで意識を飛ばしたらしい。

目覚めると、若い女性が正一の様子を伺っていた。

「あ、あのぅ大丈夫ですか。その、立てますか?」

若干怯えたように話しかけてくる。正一はぼんやりしてしまった頭をなんとか働かせた。とにかく立ち上がると、女性は言葉を一気にまくしたてた。

「あの、どうか悪く思わないでくださいね、ほら、あの子も別に悪気があってのことじゃなくて、こんなことにしようなんて思ってないんです。優しい子なんですよ。私としてはあの子の将来のこともあって、あまりことを荒だてたくないんです、ですので、」

言葉はどんどん上滑りしていく。何度か考えてようやく、自分を殴ったのは小さな子どもで、下に落ちているコンクリートブロックがおそらくそれに使われたもので、女性はその子どもの親で、という推測が立つ。そして足元で潰れているのがーー

機械の脳だった。

「子どもがやったことじゃないですか、ほんとに、お願いします。あの、大丈夫ですか」

正一がうわごとのように、大丈夫です、誰にも言ったりしないから安心してください、と言うと、女性はあからさまにほっとした顔をした。ちらりと横を見ると、子どもが数人遊んでいる。石で何かを潰しているようだった。

正一にとって今は子どもも若い母親もどうでもよかった。のろのろと機械の脳を拾う。テスト用の脳なのであまり耐久性があるわけではない、強い衝撃を与えないでくれと言われていた。それに今のような脳と違い、やや重たく大きかった。頭から外れてからも何かしらされていたのだろう。汚れやへこみが無数にある。踏まれていたのかもしれない。

自分で脳に当てがってもなにも起こらない。正一はまさしく脳が欠けたように感じた。混乱がどうやっても収まらない。

潰れた機械の脳を抱えて、正一は帰宅した。母親は何があったか聞いてきたが、正一は「転んだ」とだけ言って部屋に戻った。ベッドに腰掛けて、改めて脳を眺めて、血が付いているのに気づいた。後頭部から血が出ていた。


「それから色々とあって、俺の家はちょっと残念な感じになりました。元々両親の仲がそんなに良くなくて……。結局脳は回収されて、補助金使って脳を買おうにも家の状態がそんな感じじゃなくて。惰性で安い公立大学行ったんですけど、中退しました」

路地は静まりかえっていた。チキンを買った屋台も気がつけば移動していて、車が通る時以外はほとんど真っ暗だ。

「授業を受けるたびに、文章を書くたびに、劣化を感じるんです。前はもっと早く理解できた、前はもっとたくさん覚えられたって」

風が少し冷たい。田原が口を挟む。

「今でも頭で書いてんの?」

「はい。あの工場とかで……でも、前みたいにいかないです」

「そらそうでしょ。俺できないもん」

「……なんかすみません」

「いいよ別に。俺が頭良くないのは今に始まったことじゃないし」

別にそれで悩んでもないしねぇ、と田原は笑う。

「えっと……だから、なぜ脳を買うかというと、そういうことです。以前のように……以前の頭で小説を書きたいんです」

「なるほどねぇ……」

田原は若干伸びた無精髭を触りながら、正一をじろじろ眺めた。

「うん。そういうことなら売りましょう。売ろう売ろう」

にやっと笑って軽い口調で言う。

「え、いいんですか。そんな簡単に」

正一は拍子抜けするが、田原がすぐ立ち上がったので呆けてもいられなかった。田原は歩きながら、いつもの調子を取り戻したように喋りたくる。

「いやね、こっちは面白そうなやつに売ってくれとしか言われてないの。で、ちゃんと面白いよあんた。おかしいしどうしようもないし病気だ。しかもそれにいまいち気づいてない」

「俺だって色々考えてますよ。変な夢にずっとしがみついて、これでいいのかって……」

遠くの方でガラスの割れるような音がした。チェーンソーのような音、歓声、怒声、そういった音がぼんやりと聞こえる。こういう少し奥まった路地では、ロボットを見せしめに破壊したり、製造中の機械の脳を破壊したりという騒ぎが起きていた。おそらくそういったものだろう。

「はは、また祭りがやってんなぁ。酒飲んでどんちゃん騒いで、虚しい娯楽だよねぇ」

「虚しい? ……なぜそう思うんです?」

「そりゃあ頭が空っぽで余裕ない連中でも楽しめるんだもん。俺とかね。ま、あんだけ騒げば運動不足の解消にはなるだろうけどさぁ」

話しながら二人で歩いていると、田原は急に立ち止まり大げさにため息をついた。その視線を追うと、背の高い女性と小柄な少女が、こちらに歩いてくるのが見える。二人はある程度距離を縮めてから立ち止まった。背の高い女性は有り体に言えば美人だった。ロングの黒髪と少しきついくらいのメイクがよく似合う。裏路地の闇に溶け込むような真っ黒のドレスに身を包んでいるせいか、肌の白さが夜でも目立つ。その女性に隠れるようにして、小さな少女は立っていた。肩までで切りそろえられた髪は同じく黒く、顔立ちもどことなく似ていた。コーディネートは、女性と違い淡い色合いだった。二人とも、この小汚い路地にはあまり似つかわしくない。

「はーあ。俺が行くって言ったのに、わざわざ出迎えるかね? すれ違ったらどうするっての」

田原がなじるように言うが、女性は笑って返す。

「こうやって会えたからいいでしょう?」

美人の輝かんばかりの笑顔を見ると、田原も仕方ないなと言うように笑顔をつくる。それを見て満足したようで、女性は正一の方に目を向けた。

「脳を買うのは、あなた?」

「はい」

正一が頷くと、女性がヒールの音を立てて正一の方へ向かってくる。正一の顔をたっぷりと見つめた後、耳元に囁きを落とした。

「……よろしくね」

遠くでは、相変わらず暴動の音が響いていた。

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