第5章 ドッグホイッスル

 翌日の富士の裾野、御殿場市馬術競技場は、早朝から霧が降りて、1メート先は白い靄の中に包まれたような状態だった。


 準備運動の為、厩舎内で馬装を施し、1段下の覆い馬場に隣接された準備運動場へ、カルーゾともう一頭のブルーノートを智子に牽かせて行くと、乳白色の靄に包まれた馬場の中は、突然に目の前に、靄のカーテンから長い馬の顔が、ぬーっと現れ出てくるようだった。


「おはよう、お邪魔するよ」

馬場埒の外で、智子をカルーゾの鞍上に乗せ、私もブルーノートに跨って馬場内へ入った。


「太陽が出てくりゃあ、霧は晴れるよ」「お互い、あまり急な運動をしないように気を着けるよ」と馬場内の騎乗者からの声が罹った。

「OK、宜しく」


智子がブルーノートの背に跨るのを助けて、私はカルーゾの鞍上に飛び乗った。

少し腹が出て来て、カルーゾの鞍の上に跨るのに、地上からざっと150~160センチほど、時として鞍の煽りに閊えて、腕づくで体を持ち上げるのに苦労することもあった。運動不足は否めない。馬場埒の向こうでクリスが、そんな私の様子に、にやにやと笑いを送って来た。霧は晴れてきたようだ。


2頭で馬場内へ入り、既に準備運動中の4頭ほどの馬と、それぞれ邪魔にならないよう気を着けながら、軽く馬の体を動かすように速歩で。埒に沿って二人で回った。

智子の乗った馬を先に逝かせ、一馬身ほどの距離を置いて、私は後ろから付いて行った。


其処へ、例の問題の多いチャンセラーサードに跨った、笠木ジュニア―が加わって来た。

チャンセラーは、今朝は機嫌でもいいのか、笠木ジュニア―共々、落ち着いた運動を軽くこなしていた。



競技が始まり。智子の出番は早い方なので、私は、カルーゾを、クラブの厩務員に預けて、準備運動場で、最後の注意などお智子に伝えた。智子が跨るブルーノートは、少し気難しいところが有ったが、銜さえきつく当たらねば落ち着いた運動をする。その辺の注意を再度与え、運動中、銜に重る様になったり、口を前方へ突き出そうとしたりしたら、逆らわず、少し手綱を許してやれば落ち着くと、手綱を握る智子の拳に私は手を添えて言った。


一方、笠木ジュニア―の乗るチャンセラーは、調子がよさそうだった。

そこで、私は先ほど智子の言葉で、頭に浮かんだことを試してみようと、栗田を捕まえ、例のドッグホイッスルを借りて、覆い馬場の陰へ行って、口に咥えると、強く息を吹き込んでみた。


そうしておいて、準備運動馬場のチャンセラーと笠木ジュニア―を注意して観察した。


ドッグホイッスルの一吹きで、チャンセラーは、一瞬、忙しく耳を動かし、鼻の穴を大きく膨らまして、そわそわしているのが見えた。


一吹きだけでは分からないので、私は、短く強く1回、2回と吹き込んで、チャンセラーの様子を注意した。


チャンセラーは、腹を膨らませたり首を振ったり、落ち着きを失いつつあった。

そこで、「えい、やってみろ」とばかりに、3度、続けて息を吹き込んでみると、

「ぶるーっつ」と大きく鼻を鳴らすと、チャンセラーは突然に横っ飛びして、頸を下げた。

慌てた笠木ジュニアは、瞬間引っ張られて伸びた手綱を引き絞って、馬の頭を持ち上げようとしたが、チャンセラーは激しく左右に首を振り、引き締める手綱に逆らって、口を前へ突き出そうとしながら走り出した。


「わーっつ」何頭か馬場内に居た他の人馬は、そんなチャンセラーから避けるように、思い思いの場所へ移動したり、馬場の外へ逃れた。

「チャンセラーが、はじまった・・・・・・・・・」と叫ぶ声があちこちで聞こえ、何処に居たのか、笠木オーナーが厩舎地区から転げる様に走って来ると、ジュニア―に声を枯らして叫んだ。


「手綱を伸ばせえ・・・・・・・・・・」


今日は、禁煙パイポ、いや、ドッグホイッスルは首からぶら下げていなかった。

チャンセラーサードの、狂奔の原因が私には分かった。


後は、何故、黒沢は死んだか、笠木オーナーとの間で、何らかのトラブルが有った。

そのトラブルは何だったのだろう。

厩務員の小林も、チャンセラーに蹴られて命を落とした。恐らく笠木オーナーとの間で、何かトラブルがあったに違いない。


そう思うと、チャンセラーの狂態の理由が納得できた。

ドッグホイッスルによる、チャンセラーへの反復虐待によって、ホイッスルの音で、チャンセラーは受けた虐待を思い出し、再び虐待を受けるのではないかと、逃げ回ろうとして、蹴ったのかもしれない。


そんな思いを抱きながら、私は自分の競技への出番が迫ったので、智子と乗り替わって、ブルーノ―トに跨った。

跨った途端、ブルーノートは、頻りに私の右脚が当たる辺りに、耳を倒した鼻先を持ってきて、鐙を踏んだブーツの爪先を噛もうとしたり、押しもしないのに左の方へ後躯を逃がそうとしたりした。

「サっちゃん、一寸おかしいね、君が乗ってるときは何んとも無かったのに、」と言いながら鞍から飛び降り、馬の背に乗せた蔵の煽り革の辺りを探ったが、時に代わったことも無いので、「一寸、鞍を外してみよう」と智子に言いながら、腹帯を外し、鞍下ゼッケンごと鞍を下ろした途端、垂れた腹帯と共に、ぽとんと小石が鞍とゼッケンの間から零れ落ちた。


「なーんだこりゃあ・・・・」思わず私は声を上げた。鞍の下に小石を挟んで、馬に余計な刺激と苦痛を与えたのだ。

誰がこんなことをしたのか、直ぐに想像できたが、やったと言う証拠も目撃しても居ない。


昔、学生時代のトーナメント競技会で、ある大学の選手が、対戦相手の馬に同様の事をやって、バレタことが有ったのを思い出した。


どうやら、身に覚えがある笠木オーナーに、ドッグホイッスルの件をさとられたか、犬笛を銜えていたのを何処かで目撃されたのかもしれない。

もうカビの生えた古い手口の報復を受けたのかもしれない。


この日の競技成績は、智子は上々の3位入賞、私は障害飛越競技で優勝、チャンセラーは、準備運動場での狂奔が尾を引いて、5位にも入れず、笠木ジュニア―は、ひきつったままの顔を緩めず厩舎地区へ戻って行った。


暫くすると、屋内馬場より一段下側の駐車場で、何やら騒がしい「わーわー」言う何人かの声が重なって聞こえて来て、数人の観客や、何人かの競技スタッフが駆け付けて行った。


私と智子は、ブルーノートとカルーゾの世話が有ったので、何事かと気になったが騒ぎの場所へは行かなかった。


「全く、最低の騒動だよ」やがて騒ぎの場へ走って行った栗田が、頸をふりふり、口をとがらせながら戻って来た。

「何だったんだね」私は、さも呆れたと言う表情の栗田に聞いた。


「とんでもない親子喧嘩でした」と首からぶら下げたドッグホイッスルを握りながら。


「いやあね、皆が集まって来たので、あの二人、何食わぬ顔になって、皆から離れて馬運搬車の中に入ったんですよ」とちょっと息を継いで、「そんなんで、皆、なーんだと言う訳で散らばってしまったので、俺は、車の後ろで耳を押っ付けていたんです」どうやら野次馬に徹したようだ。


「中で、怒鳴りあってるのが、意外とよく聞こえるんです。

 笛がどうのこうのって、準備運動場で、一寸荒れたでしょう。オーナーが笛を吹いたりしたんじゃないかって、オーナーは、自分の息子が騎乗してるんだから、そんなことする訳ない、とか」親子の言い争いの内容は、矢張り、このドッグホイッスルの事らしかった。


私が、覆い馬場の陰で笛を吹いたのは、笠木オーナーに見られたかもしれない、鞍下ぜっけんの間に小石を挟んだりされたんだろう。

まあ、証拠は無いし、目撃したわけでもないので、笠木オーナーに問い詰める訳にもいかない、陰湿な仕返しで、随分姑息なことで、ドッグホイッスルで、馬を虐待調教するのとでは雲泥の差がある。


笛を吹きながら、どのような虐待を繰り返したんだろう。チャンセラーは少なくとも名馬の1頭と私は認めている。

死んだ黒沢は、笠木オーナーとの間で、どのようなトラブルがあったのだろう。

大けがをした厩務員は、オーナーとどんなトラブルが。

笠木オーナーはどんなトラブルを抱えて、チャンセラーをあのような馬にしたのだろう。

そんな思いを抱えたまま、この競技会も終わり、日常の生活の中で、忘れるともなく、私には直接何のかかわりもないまま、特に考えることも無く過ごしていた。

しかし、隠すものはいずれ現れるの諺も有るように、風邪の向き加減で、笠木オーナーのクラブが、脱税の調査が入り、相当な罰金を科せられたと言うことが伝わって来て、大けがをした厩務員が、腹いせにチクったとかと言う噂の尾ひれもついていた。オーナーは厩務員に揺すられていたとか、其れで大けがをさせられたとも。

黒沢も、馬の売買に係るトラブルと、脱税の事を同様に揺すっていたとか、事実はどうであったかは兎も角、そんな二人に対して、名馬でもあるチャンセラーに、ドッグホイッスルを使って、どんな仕打ちをしたのか、許せない思いを募らせた。


                完



後書き、

 何んとも、尻切れトンボのような終わりにして、大変申し訳なく思っております。緊急入院させたかみさんの事が頭を占め、考えをまとめるのに疲れを覚えるようになりました。言い訳にしたくもありませんでしたが、色々とショックもありました。

拙いストーリー、何気なく目を通してくださった方には、大変申し訳なくお詫びいたします。

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暴走  高騎高令 @horserider

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