第4章 真夏の競技会


 猛暑の中の競技会が、静岡県御殿場市の自衛隊演習場の隣り合わせのような場所、富士の裾野に、国体静岡県大会の際に作られた馬術競技場で行われた。


 流石、富士の姿を眼前に仰ぎ見る競技場は、朝晩はほっと一息つく涼しさを味わえたが、日が未だ落ち切らない少しの時間帯は、夕凪と言うのか、日中の猛暑が地上に残って、熱気が上空へ吸い上げられるように蒸し暑さが残った。


 メインの競技馬場は盆の底のように縁を、一方は富士山へつながる傾斜、両サイドを厩舎地区と、競技本部棟の有る高台になって、傾斜地を利用した、野天の観覧席がなだれ込むように、片側を解放した覆い馬場はメイン馬場と同じレベルに在った。


 私は、智子のために、2頭の自馬カルーゾと、馬としては高齢の部類に属す15歳の騸馬アレキサンダーを出場させるため、同じクラブからの参加馬と共に、御殿場競技場に乗り込んだ。


 富士の裾野、自衛隊の演習場に隣り合わせ、近場には食事を摂るレストランも無い場所で、御殿場駅前か、裾野駅まで出て行かなければならない。


 馬術競技は、戦後、軍隊が無くなった為も有って、欧米のように乗馬は、日常生活の中には、入り難いスポーツで、戦後70数年、ようやく乗馬人口も、潜在乗馬愛好者も含めても数十万とも言えないマイナーなスポーツだ。


 従って、大きな競技会と言っても、参加する人馬の顔触れは、大方、全国のほかの競技会でも同じ人馬の顔合わせと言うこともある。


 メインの競技場である第1競技場から、高台に有る厩舎地区は、右端の第1厩舎から2~10と10棟の厩舎が並んでいて、私らのクラブからの参加馬は、真ん中の第5厩舎を割り当てられていた。


携行馬を、それぞれ馬房に入れ、馬具と飼料などを空き馬房の一つにまとめて整頓すると、先ずはひと段落の感覚で、馬房の前に折り畳みのテーブルを置き、持参した珈琲や紅茶などのポットを持ち寄り、智子はクッキーの缶をテーブルの真ん中に置いた。


「あら、サトちゃん、これ、貴女の手作り・・・・・」遠慮のない会員仲間の、中年のおばさんが、クッキーを摘まみ一口かじると、顔の前への乞ったクッキーを差し上げながら聞いた。


「ええ、お口に合いますでしょうか・・・・・」

「おいしいわ」と顔の前の齧り残しのクッキーを口へ持って行った。

「コーヒーをどうぞ」智子は自分の用意したポットから、おばさんのカップへコーヒーを継ぎ足した。


「明日のお天気はどうなのかしら」他の女性会員が、スマホを操作しながらつぶやいた。

「あら、朝は、霧が出るそうよ」「濃く無けりゃ、いいんだが」別の男性が言った。


競技前日に行われる、競技打ち合わせを終えて戻って来た、オーナーとクリスが仲間に加わり、それぞれの出番と、事前の準備運動などの、私らのチーム内の打ち合わせを、プログラムを基に行った。


そんなところへ、「かつ、かつ、かつ」と厩舎の床を鳴らして、輸送に拠る疲れなどを調整し終えて戻って来た、他クラブの人馬が、入り口近くの馬房へ馬を引いて来た。

「おー、栗田じゃないか、あんたも・・・・・・・・」同じ馬術部のOBで、1年後輩だった。


「おや、先輩、プログラムに名前が載ってましたから・・・・・・、厩舎が同じで、よろしくお願いします」


「よろしくね、良かったらお茶でもどう」「有難うございます。こいつを納めたらお邪魔しますよ」日焼けした顔をほころばせて頷いた。

栗田は、自馬を馬房に入れ、外した頭絡やサドルを、後で片づけるつもりか、隣の馬房との間の床に置いて、我々に加わった。

「私の後輩の、栗田君、こちらクリスとうちのメンバーたち、宜しく」

智子が、紙コップを出すとコーヒーを注いで差し出し、同時にクッキーの缶も勧めた。

「有難うございます、栗田です」

「おや、栗田、禁煙かい、それ・・・・・」ポリバケツを一つ持ってきて逆さにしておくと、身を屈めて腰を下ろした。

そんな動作で、胸元にぶら下げていた、禁煙パイポだか、金属のパイプが胸元からこぼれ出た。


「ああ、これ、いやあ、私はタバコは吸わなかったじゃないですか、」と言いながら胸元から鎖の先につるされたパイプと思しき金属の筒状の物を、頸から外して差し出した。

「ドッグホイッスルなんですよ」

「まあ、それ、犬笛」おばさんが驚いたような子を上げた。

「ええ、そうなんです」「なんだよ、あんた犬のトレーニングもやってるのかい」

「実はそうなんです」

「卒業して、家業の農業に就いたものですから、それだけじゃつまらんと思って、ドッグトレーナーの資格を取ったんですよ。

なに、国家資格のような難しい事じゃないですから、結構、資格マニアなんかがとってますよ。盲導犬や、警察犬の調教など、まあ、それぞれ訓練方法は異なりますが、まあ似たようなものですよ、今は専ら、家庭で飼った居るワンちゃんなどを頼まれて仕込んでます」

「ほうほう、すると、そんな時に、その笛を使うのかい」私は彼が手にして見せたホイッスルを指さして聞いた。


「滅多に使いません、ただ、他の犬などの群れの中に居たり、遠くへ走って行ったりした時に呼び戻したりする時などに使います。

まあ、特定の芸ごとをさせる場合、笛で合図して、そう、パブロフの犬みたいに条件反射に近いですかね」

「口笛よりはいいってわけかね」「そうですね。人間には聞こえませんが、犬には聞こえる周波数なんです」


犬の種類によって、多少の違いが有るが、凡そ40ヘルツから60,000ヘルツ、或いはそれより上と言われている。

人間の耳には精々、20から20,000ヘルツくらいだそうだ。低音は人間の耳の方が良く聞き取り、犬は低い音は聞き取り難いという。

人間が発生する最も高い声は、オペラのハイ・コロラチューラと言われる歌い手が唄う、ドリーブ作の歌劇ラクメの中のアリア、鐘の歌とか、モッツァルトの魔笛の中で、夜の女王が唄うアリアなんか、ハイ ツエ―(オクターブうえのC音)です。

と栗田は、学の有る所を話した。何、精々ドッグトレーナーの勉強した時に覚えたんだろう。

「一寸よく見せて」私は栗田から10センチ足らずの金属のパイプ状の笛を受け取って、繁々と改めて見た。

呼子笛のような形状で、口に咥えるかして、息を吹き込む口は、ラッパのように開いていて、笛の先端には、鎖でぶら下げられるように環が着いている。

思わず、口に持って行って吹いてみようとすると「ああ、先輩、今は吹いたら拙いです。車の中の犬がバタつきます」栗田は慌てて手をひらひらさせて止めた。

「何で・・・・・・・」と私、

「訓練中の犬が、車の中に居るんですよ」と栗田。

「あら、それ、犬ばかりでなく、馬にも有効なのかしら」何を思ったのか、智子が口を挟んだ。

「大丈夫ですよ、試してますから」の答えに智子は大きく頷き、私の顔を見た。


何か思い当たることがある表情で、私にもピンとくるものがあった。











 

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