No.5『バカヤロー』
タクシーから降りた俺は、春夏秋冬のワガママでまたもおんぶする羽目になり、薬局から春夏秋冬宅であるというアレグリア荘を目指していた。
その間もずっとおえおえ言って吐きそうな春夏秋冬。おぶっている側として何としてもここで吐かせはしない。と言うかしたくない。自然と俺の足も早くなる。
「うーん……やばい、気持ち悪いよぉ……」
「頼むから背中に吐かないでくれよー」
「……ごめん、一回下ろして」
春夏秋冬のキツそうな声を聞き、早く落ち着ける家に帰った方がいいような気もしたが、ここは一度従っておくことにした。
春夏秋冬は這いずるように歩き、グレーチングの上から側溝に向かって嘔吐する。一度吐いたことで我慢の箍が外れたのか、春夏秋冬は続けてまた吐く。
「ったく……。お前いい歳してなんちゅー飲み方してんだよ。子供じゃねぇんだから」
「わらし、まだにじゅーごーだもん。ワカモノだもん、おぇっ……!」
優しく背中をさすってやると、呂律の回っていない弱々しい声で春夏秋冬は言い返してきた。そういう話じゃないんだけどなぁ。
まあ仕方ない。ベロベロに酔っ払ってるし、気分が悪いのは見てわかるし。
しかしどうしたものか。もう数十メートル先には目的地、アレグリア荘がある。少し無理してでも早く帰宅するべきだと思うが、春夏秋冬は歩ける状況にない。
いっそのことお姫様抱っこでさっさか運んでしまってやりたいところではある。でも上を向いた体勢でまた吐きでもすれば喉に詰まってしまうこともありえる。
「春夏秋冬。まだ吐きそうか?」
「うーん、ちょっと落ち着いた。今ならいける、気がする」
「そか。それなら上等、だっ!」
「きゃ……っ!」
俺は塀に寄りかかり、ぐったりしている春夏秋冬の背中と膝裏に腕を回し、グッと力を込める。
すると思ったよりも軽々持ち上がり、春夏秋冬はその勢いに小さな悲鳴をあげた。
こうなれば時間勝負だ。春夏秋冬の気分が良いうちにそそくさと運んでやるしかない。俺はなるだけ揺れないよう、だけど急いでアレグリア荘へ走った。
△▼△▼△
アレグリア荘にたどり着き、春夏秋冬の言っていた二階角部屋へ。浅く眠りについている春夏秋冬を下ろし、問う。
「おーい、鍵は?」
「んん? ポへットんなか」
まだまだ呂律の回っていない舌で言って、自身の下半身を指差す春夏秋冬。人差し指の先にあるのは、彼女の着ているタイトスカートのポケットだ。
おいおい俺に取れってかよ。幸か不幸か、タイトスカートは春夏秋冬のサイズにぴったりで、非常にピチッとしていらっしゃる。
女性のスカートのポケットに手を突っ込むというのは、なんかこう、アレだ。色々とアレな気がしてならない。
いやいや、今は仕方なくだ。しょうがなくやるだけであって、俺にやらしい考えがあってのことではない。
俺は意を決して、春夏秋冬のポケットに手を突っ込んだ。
「んあっ……ちょっと、くすぐったーい……」
「……」
頼むからそんな
幸いにもすぐに鍵が手中に収まり、俺は部屋の扉を開けて再度春夏秋冬をお姫様抱っこする。
照明のスイッチの位置がわからないので、部屋に差し込む月明かりだけを頼りに足を運ぶ。ただ内装はワンルームなようで、すぐにベッドは見つかった。
春夏秋冬をベッドに下ろし、水道へ。勝手ながら戸棚からコップを取り出し、蛇口をひねる。
「ほら水飲め」
ベッドに寝転がり、右腕で目元を抑えている春夏秋冬に水を渡す。窓を開けてから今度はゲロ袋でも作ろうかと新聞紙かチラシの類を探していると。
「ばぁかばーか、バカヤロー!」
突然幼稚な暴言が部屋に響き渡った。当然、俺が放った言葉ではない。それは春夏秋冬から発せられたものだ。
「この人でなしぃ、はくじょーものー」
ベッドに寝転がる春夏秋冬は続けてそう言う。
一体何に対して、誰に向けて文句を言っているのだろうか。仕事がキツいと言っていたし会社や職場の人間に対しての愚痴だろうか。
なんて呑気に構えていたら。
「五年も何やってたんだよぉ、けがれやぁ」
なんと驚き、俺に向けての言葉だった。
俺は紙探しを一旦中断して、ベッドの端に腰掛け、春夏秋冬に向かって優しく語りかける。
「だから、それはさっき説明しただろ。しっくりくる仕事探して色んなとこをだな」
「何がしっくりだよー、仕事なんてダキョーしろよダキョー。そうでもなきゃみんなやってられねぇっての〜」
「いや、まぁド正論出されると反論しにくいんだけど……」
「だいたい連絡くらいはできたはずじゃん! なんでー、なーんにも言わないでどっか行っちゃうのさぁ!」
「仕方なかったんだよ、一回水没させちゃって」
「雲隠れヤロー! カッコつけてんのかばーかばーか」
「……」
「ふざけんな何が『五年ぶりですよね』だ! 早く私からのラインに返信して! はーやーくー!」
もはや寝言なのか起きてるのか俺がいると分かっていてワザと言っているのか判断が難しいところではあるが、ふと自分に眠気があることを自覚し、ベッドから立ち上がる。
すると思いの外身体が重い。アルコールを入れたこともあるだろうし、久々に人ひとりおんぶしたことによる疲労も関係しているはずだ。
早く帰って俺もベッドに身を投げたい。と言っても日本中転々としていた俺に家なんてものはなく、実家に帰るしかないわけで。
「俺、もう帰るからな。明日仕事かどうかは知らんけど、寝坊だけは――」
「――五年もほったらかしにされて、すっごい、さびしかった……」
ポツリと春夏秋冬の口から出たその言葉が、俺の胸にぐさりと深く突き刺さる。雷に打たれたように全身に衝撃が走り、硬直してしまった。
「ひどいよ。私、すっごいしんぱいしたのに……」
動けなくなってしまった俺のことなど露知らず、春夏秋冬はさらに言葉を継ぐ。
「……もう、お願いだから。どこにもいかないで」
震える春夏秋冬の声音がして、俺のズボンがギュッと握られる感覚がした。ロボットのようにぎこちなく後ろを振り向くと、春夏秋冬の手が俺のズボンに伸びている。
もちろん自覚はあった。自分が過去を置き去りにして、ただ自分勝手に突き進んでいたと。
本当に、ただ何となく、ひとりになってみたかったのだ。高校で初めて友と呼べる人たちを得て、卒業してふと、昔の孤独だった時を思い出し、その時に戻ってみたくて俺は関係を絶ったのだ。
我ながら最低だとは思う。何も言わず、連絡もせず、元カノを、友人を泣かせるほど心配させてしまった。だからと言って雲隠れし続けるというのもまた違う。
だから結局、最初の選択が間違いだったわけで。俺は高校を卒業して大人、成人と呼ばれる歳になっても間違ってしまったわけで。
「……ごめん。俺が悪かった」
俺は春夏秋冬の頭に優しく触れ、謝った。それ以外の言葉が俺には思いつかない。
自分に非があるのは重々理解している。だから言い訳なんかで余計な言葉を飾らず、誠心誠意を込めて「ごめん」とそれだけを。
春夏秋冬はそんな俺に何も言わず、ゆっくりと手を離した。しばらくすると、すーすーと可愛らしい寝息が聞こえ始め、俺は安堵のため息を吐く。
知らず知らずのうちに、呼吸が浅くなっていたようだ。何だか少し息苦しい。酸素を身体に取り込むために、大きく深く、息を吸った。
春夏秋冬の部屋から外に出ると、春の柔らかい夜風が頬を優しく撫でてくる。俺の間違いに対する罰としては生ぬる過ぎて、いやはやまったく、やってられねぇ……。
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