鍵の行き先


 男でも、背が低いのが悩みのタネだ。

 身長150センチ台前半というと、大体の女子より視線が下になる。ええと何だ? 平成十六年の女子16歳平均身長は158.7センチ? マジか。俺の感覚的な感想はデータによって裏付けがなされたって訳か。深い絶望だ……。

 仕方ないのでちょっと靴底が厚い靴を履いてみるが、校舎に入って指定の上履きに換えてしまうと、もうダメだ。フィジカルの差が出る。

 まあ女子となるとこっちよりも背が低いのも多いけど、いや、さっき女子の比較を出したけど、結局のところは自分だ。

 自分の理想ってのが、自分じゃないのはチョイとキツい。

 あとまあ、背が低いってだけで笑われる、みたいなのが地元の中学ではやっぱりあって、アレまあ今思うと何でもネタにしたい時間帯ってヤツなんだろうと思うが、だからこそ怒る気にもなれなくて考え込んでしまう。


 心に鍵を掛ける、ってやつだ。


 マー何だ。アレだ。自分の成長限界を感じ始めた頃から、掛けるようになった。

 鍵。

 体育の授業では連発で掛けるし、電車内でも立ってるときとかは特にそう。アーもうアレだ。鍵掛けまくってオートロック状態。オートロックの意味が違うか。つまりずっと掛かってるってことだ。


 そんな訳で、本をよく読むようになった。何がいいって、読書はフィジカル関係ないからな。そう。集中力だ。面白いと思ったとき徹夜で一気に読むには何が大事か。

 体力だ。

 さっき集中力とか言ったばかりだけど、眠気とかいろいろは体力から来るものだと思います。要するに一気に読み切ったりすることを前提とした読書はスポーツみたいなもんだ。そこらへん気付いてからは長距離走のようなノリで、自転車乗っての古本屋巡りが自分の中で流行った。

 欲しい本がある訳じゃない。

 行ってみて、本が並んでいるのを見ると、安心する。

 鍵を掛けられるものが、こんなたくさん並んでいる、と。


 本を読んでいる間は、他を気にしなくていい。

 自分のことも、他人のことも。

 己が一方的に揶揄されていたり、どっちつかずな反応をしなければならないときも、本を読んでいると、それでいい。無茶苦茶いい。

 面白い時間を過ごせる上に、嫌なものを意識の外におけるとか、最高だろう。

 鍵の掛かる自分の部屋を外に持ち出してる感覚。

 いやでもうちの部屋、親が入れる仕様だから。でも大丈夫。両親よ、貴方達の子孫は既に三次元よりも二次元というか、文字で頑張れば頑張れるようになっております。想像力って大事だよなあ。でもスマホのブックマークと画像フォルダ見られたら死ぬな。

 話がズレたな。 

 あれだ。本を開いた瞬間に鍵が掛かる。いやもう完全だ。最高なり我が集中力って感じで、中学校のときは昼休みの読書がそのまま続いて五時限目の開始に出遅れとか、結構あった。誰か教えてくれよ、と思うが、コレがどうもやはり「変な存在」だったらしく、誰も教えてくれないし、自分としてもまあいいか、ってところだ。


 始めは何だったろう。

 本が好き、ではあったと思う。読むことについて忌避感はない。恐らく小学校の時、雨で外に出られなくて、何となく教室にあった川魚の生態について云々の本を読んでいたら先生に褒められたとか、そういうのが”当たり”だったんだろう。

 でもそのとき、平仮名ばっかだったけど、ちゃんとした本だったもので、

《さかなのオスが メスのたまごにせいしをかけると たまごがふかします》

って意味の解らないことが書いてあったから、俺は先生に質問した。

「先生、魚のオスが、メスの卵に生死を掛けると、卵が孵化するんですか」

 そう。こういうつもりで聞いたら、先生真顔でこう答えた。

「ええそうです。魚もそういうのが好きなんですね」

 って答えられたけど大丈夫か先生。”も”って何だ。ともあれそうか、魚、好きなのか。

 しかし前にテレビで見た、茨城でやってた鮭の養殖で、イクラの入った桶に鮭絞ってピューみたいなのやってたけど、あれは鮭的に了解できる合法なんだろうか、どうなんだろうか。茨城の風評被害みたいな気もするが、本の話じゃないのかコレ。まあ気にするな。鮭美味えし。

 

 だけど本を礼賛してる訳じゃない。苦手な本とか、ダメな本もある。

 何がダメって、背の低い男が主人公だと自分が重なってアーあれだ。同属嫌悪じゃないけれど、

「アー俺頑張ってる!」

 みたいな気分になってダメだ。

「コレは読書というか、何か実体験ドラマの文章化として読んでないか……?」

 という気分になるし、何か自分と文章の方で間違い探しみたいなのをやり始めていて、ちょっとキツい。つまりアレだ。自分と本の間で自分に対しての解釈違いが発生するというアレ。

 本の方は悪くないので、これは自分が圧倒的に悪い。

 あと、ホラーはダメ。

 いや、これはホントにダメ。

 さっきの表現を使うと、自分の部屋にホラーが入ってきたような状態になってダメ。

 一回、流行のを一冊読んでみたけど、しばらく本が読めなくなった。作家としてはしてやったりかもしれないけど、でもこれ、ある意味これも自分が圧倒的に悪いので、作者はしてやったりじゃないんだからね! 憶えておきなさいよ! と御嬢口調で思ってみる。


 ま、こっちとしては本を読んでいると、充実? そういうものを感じられるので、いいんじゃないか的な。

 だから高校入ったとき、祝いとして、スマホはちょっと画面のデカい系を買って貰った。これだと字が大きくなるので本が読みやすい。嫌だなあ、両親、エロ動画を見るためじゃないですよ。内部ROMの大きい上位機種にしたのは理由聞かないで欲しいけど。

 でもこれで、本棚の一部を外に持ち出すことにもなった。

 一部というのは、スマホで読むのは漫画が主になったからだ。

 文字の本を紙で読んできたせいか、両面見開きが確定してないと「部屋のドアが開いてる気になる」というべきか。

 漫画だとそれがあまり気にならないんだけど、文字の方はそういう感覚がある。

 外で読む場合は特にそうだ。

 文字の本を読んで、その内容を想像するというのは、個人差がある。どれだけの量を想像出来るかどうかに個人差があるし、想像の内容にも個人差がある。挿画がなければもはや完全に一から想像だ。

 つまり文字の本を読むのは、一から、完全な個人のものだと、そんな風に思ってる。

 だから文字の方を読んでるとき、ドアが開いてると嫌なのは、自分のパーソナルな行為を覗かれているような、そんな気になるのだろう。

 本は盾でもある、ってことかな。どーかな。


 そんなわけで地元の高校に入って一年経った時、担任がこう言った。

「そろそろ受験とかも考えてると思うが、うちの場合、二年からでも部活入っておくと、上に行きやすいから」

 アーつまりアレだ。うちの高校は隣接してる大学というか、広い大学とかの敷地内にあるアレで、評価点とかいろいろあるって訳ですね。

 だからまあ、新歓期間中にいろいろ回って見たけれど、流石そこそこの進学校。吹奏楽部とマーチバンドが敵対してレベル高くなってる以外、大体はヌルくていい感じ。

 運動系はバレー部が強いらしいけど、俺の背丈じゃ基本的にパス。


 文芸部というのがあった。

 始め気付かなかったのは、それが部室を持っていたからだった。それも校舎棟のA棟に。

 中学校のときも文芸部があったけど、図書室が部室代わりだった。なので同じように図書室が部室だろうと、油断をしていたのだ。

 気付いたのは、新歓とは無関係な理由だった。

 授業の後、新歓でいろいろやってる部活をチラと眺め、家に親が帰ってくるまで食堂で暇を潰すか、とやっていたら食堂のテレビでサッカーが始まってしまった。

 というかコレ、ケーブルじゃないとやってないリーグっしょ? と思って約二時間。流石に親も帰宅しているので、家には一応電話したが、

『あーあのリーグじゃしょうがない! 今回ろくにスポンサーついてない大会だから! どうだった日本!』

『相手側がえらい勢いで自爆してる』

 みたいな感じで、食堂は何か人が集まったので延長戦状態だったし、帰宅は遅れた。

 そして帰りに校舎の前を通ったら、明かりがついていた。

 二階だ。

 一応、校舎は、大体のところを回って構造を知っていた。三年のあたりはテリトリーがあるので別だけど、A棟は図書室や生物室なんかの大型教室と、生徒指導室なんかが入っていた場所だ。

 生徒指導をしているのかと思ったが、見えるものが違う。

 天井などえらい殺風景で、でも、浅く見える壁際にあれがあった。

 カーテンか何かの影の横。

 本棚だ。

 明らかに文庫。色違いが列になってる。


 マジかよ、と思ったのには理由がある。

 古本屋を巡るようになると大体気付くが、文庫ってのはかなりの長期スパンでリニューアルされる。そのとき、時代に合わせてか何なのか、幾つかの処置が行われる訳だ。

 その一つが、本の装丁を変えること、だ。

 カバーのデザインが変わるので、古本屋など見ていると、同じ作者で同じレーベルから出ているのに、デザイン違いで二、三冊並んでいたりする。

 これがまあ、昔は困ったものだが、二世代くらい前のものだと本文に結構違いがあったりして面白い。昔の版だと、他の作家や批評家が解説を書いていたり、後書きがやたらイキってたりして、そういうのを集めるのもオツだ。また、

「……絶版あるんだよなあ」

 作家の著作リストをネットで見ていると、かなり集めたり読んだつもりが、意外と穴があることに気付く。

「あれ? このレーベルで出ているのは押さえきったつもりなんだけどな……」

 という場合は、大体コレだ。

 リニューアルを契機にしてか、”オトされた”訳だ。まあいろいろ契約とかもあるんだろうね、とは思う。

 だから、古本屋巡りは過熱するし、図書館巡りなども始めてみる。本文の差を知りたいというのではないならば、後書き周辺や、前書き部分(コレも版によっては人物紹介があったり、地図が描いてあったりとか、結構違う)を押さえたいなら、図書館でちょっと見れば済む。

 もはや鍵云々じゃなくて趣味だな、と思うが、まあこういう自己満足、楽しいんだよ。


 でまあ、明らかに三世代前のカバーが、並んでいた。メジャーレーベルだが、そうではないのもチラと見えた。なので、

「んンンン?」

 背伸びしても見えない。背が低いのはこのための伏線か……! 伏線じゃねえよ。

 ともあれどうしようもないので、翌日、昼休み中に現場に行ってみた。

 場所はA棟二階。やはり生徒指導室の横だった。どんな部室かと思ったら、

「印刷室?」

 部室じゃないじゃん、とは思った。ただ、ドアにはこういう紙も貼ってあった。

「”文芸部部室”」

 ああ、と己は思った。ここが”当たり”だ、と。

 だがドアは開かない。ノックして開けようとしたが、ダメだったという感じで。

「印刷室じゃないのか……?」

 何かいろいろ疑問に思ったが、昼に開けてる部室もないか、と思うことにする。


 放課後に行ってみた。

 ドアの曇り硝子が暗くてミョーに不安を煽るが、とりあえずノックする。すると、

「…………」

 返答が無い。大丈夫だろうか。というか廃部になってるのかもな、という思いが生じ、ちょっとした焦りをつけてドアを開けようとする。すると、

「あー、ゴメン、これからだよ」

 右から、つまり自分のやってきた方から声がした。

 女子生徒だ。うちは上靴の紐の色で学年が解るが、三年生。

「二年? 入部希望? お試し?」

「あ、ちょっと気になって」

 そういうもんだよねー、と言われてドアの前を開ける。すると相手が横に立った、眼鏡のヘアバンド付き。

 ……デカい。

 背丈のことだ。胸もデカいが凝視はしない。

 でも身長180くらいあるんじゃないだろうか。

 横。立った彼女がバッグから鍵を取り出し、開ける。が、開かない。

「ちょっとゴメンね」

 という意味不明な言い訳と共に、彼女が膝でドアを押した。その間に鍵を回して、

「おーしオッケー。はい文芸部」

 と案内された中は、静かな部屋だった。


 カーテンの無い部屋。春なのに底冷え感のある寒さより、変な匂い、というのが、第一印象だった。

 先輩、という扱いでいいだろう。彼女が中央にある作業台にバッグをのせ、

「旧教室仕様だから窓際にオイルヒーター設置してあるんだよね。ちょっとつけたりするから、あ、これに水、入れてきて。――一回水空けて洗って」

 と、水差しを渡される。結構大きめの2リッター。

「流しは解る? ホールの」

「あ、はい」

 と頷き、とりあえず行く。

 いきなり何をさせられて、何をしているんだろう、と思ったが、二階の中央ホールはすぐだ。男女のトイレの洗い場でもあるが、飲料水。ホールの”流し”と言ったらここだ。

 なので水を入れて戻ると、閉めてないドアからは光が見えた。

 入る。ドアを閉める。すると、

「あ」

 印刷室、というのはこういうものかと、そんな部屋があった。


 中央に作業台。そして壁際に、

「……コピー機ですか……?」

「電動式の輪転機だよ。ちょっとレアだね。インクは部費で、部長がネット通販で調達」

 あー、と彼女が言った。作業台を指さし、

「水、そこ置いて。有り難う」

「あ、いえ」

 と応じていると、作業台の前に椅子が出されていることに気付いた。

 自分用だろうか。ただ、勝手に座るのは悪いと思っていると、先輩が動く。背が高い人特有の、上半身から振るような動き。

 髪が揺れて、水差しが手に取られ、

「コーヒーいける?」

「え?」

「紅茶の方がいい?」

「あ、どちらでも」

「君の好みは」

「コーヒーです」

「そっかそっか」

 と、大きめのサイドテーブルの上にあるコーヒーメーカーに水が注がれる。

 ……いいんかな……。

 水は1リッター分。セットしてボタンが押され、

「じゃあ、ちょっと話聞こうかな。――入部? 冷やかし?」

「入部の希望です」

「だれから?」

「あ、いや」

 と、自分はあたりを見て、それを見つけた。壁際の本棚に、やはり文庫が並んでいる。

「あれが、窓から見えたので」


 言うと、先輩が眉を上げた。

 驚かれたらしい。

「あー、やっぱね……」

 と言った彼女が、小さく笑った。

「そりゃ入部希望だね」


「あのさあ後輩君、うちは読み専じゃないから、そこ注意ね」

「書くんですか?」

「それ、そこの輪転機、その使用実績が必要なんだよね」

「小説を?」

「ルポとか、読書感想文でも何でもいいよ」

「他の部員も、ですよね」

「ああ、うち、部員は多いからね」

「そうなんですか?」

「――在籍だけしてればいい部活として最強。もう面倒だから、ずっと前から、部長が何か書いて文化祭の文連展示に提出してればそれでいい、ってことになってる」

「じゃあ」

「私、部長ね。三年二年一年は他、全員幽霊だから」

「……いいんですか?」

「いや、伝統? もうかなり前から、女子の間では”文芸部入っておくと、帰宅部同様だけど部活入ってたことになる”ってのが伝わっちゃって。口コミで”名義だけ”ってのが、一年生でも二十人くらい来てるよ。――そういうのは、ホント、忘れるのか気まずいのか、全く来なくなるんだけどね」

「じゃあ、男子の方は――」

「ええと、……預かってる名義の方でも、初かなあ」


 気が楽だ、とは思った。

 だが今の話だと、

「俺に、先輩が読み専かどうか聞いたのって、つまりそれは」

「君が次期部長だね」

 だけど、と彼女が言った。

「座らない?」

 椅子だ。

 湯が沸き始めた。だけど自分は、

「先輩より先に座るのは」

 言った時だ。不意に先輩が腰を落とした。

 こちらと視線を同じくらいの高さにして、笑って、

「上から目線だった? ゴメンね」

「あ、いや、そういう訳じゃ」

 というかかなり当たり。先輩が背ー高いんで、座るともう、視線が合わない。

「まあ、ええと、そういうのが苦手です」

「私も、君とはまっすぐ話がしたいな」

 でも腰を落とされると、長身がこっちにカラダを折る訳で、つまり近い。だけど、

「君を座らせるには、椅子を二つ用意しないとダメかな?」

 そして自分は気付いた。この部屋には、幾つか椅子がありもするのだが、

 ……全部、何か備品の置き場になってる?

 使えるのが、つまり一脚しかないのだ。

 

 その日は、コーヒー一杯もらって、本棚の本を検分した。

「あ、奥にもあって、三列状態……」

「昭和三十年とか、奥付あるよ?」

 凄すぎる。

「ほら、うち、二十年くらい前? 女子校だったのが大学の付属云々で改築したんだよね。

 それで図書室リニューアルで、古い本をここにしまった訳。印刷関係というか紙媒体? それをここに収めようって話で」

「じゃあ、印刷室として使ってるんですか?」

「印刷関係は、今、職員室でコピー機、もしくはプリンター。職員室は完全にそう組まれちゃってるんだよね」

 だから、

「ここの輪転機の方がランニングコストは安いんだけど、乾くのに時間掛かってね。だからここは文芸部の貸し切り状態」

 だが、ふと先輩が気付いた。

「あ、ドア閉めた?」

「はい。何か気になったんで」

「あー……、君、入るなら部長になるから、いいか。教えておくね」

 と、先輩が、ドアに手を掛けた。ノブを回すが、しかしこちらの目には、

「……開かない?」

「輪転機を納入するときにぶつけたとかで、歪んだんだね。開けるときだけおかしくなるんだよ。だから、こう」

 と、こっちはノブを引っ張ってから回す。すると、

「開くね?」

 開いた。

「鍵を掛けるときも、こうしないとロック部が引っかかって出ないから。

 もし、新入部員希望の女の子とか来たとき、”誰から?”って聞いて答えられたら、彼女達は居座る気ないから、ここ閉めてないかどうか気にしてあげて。出られないとパニクるから」

 そこで話題が途切れた。

 何となく、先輩が、自分の時間のようなものを欲しているというのが解る。

 ……ああ。

 この人も、恐らく、自分の心に鍵を掛けるタイプなのだろう。だからこちらも、いろいろ準備がないこともあって、こう言った。

「じゃあ、今日はこの辺で」


 翌日、また行ってみた。

 昨日、先輩が遅れてきたので、ちょっと時間を空けてから行った。すると、

「あれ? まだ開いてない……?」

 休部の日とか、あるんだろうか。そう思っていると、

「あ、ホントに来たね。ゴメンゴメン」

 と、声が掛かった。

 先輩だ。

 大きめのストライドで来る先輩は、昨日と同様に膝でドアを押して鍵を突っ込み、こっちに体を折って言う。

「はい文芸部開始ー」

 何か凄く、花みたいな匂いがした。大人だなあ、と思わされてる内に彼女が中に入って、こっちに水差しを出す。そして自分は気付いた。

「――昨日、カップをそのまま置いて行っちゃいましたよね」

「やー、こっちで洗った洗った。気にしなくていいから。他の子のときも対応同じだし」

 そう言われると仕方ない。


 それでまあ、始まってみたが、驚くほど喋らない。

 先輩は持ってきた本を読んでるし、こっちは棚にあるのを読んでるだけだ。

 コーヒーは飲み放題に近い。

 ふと発した先輩の言葉が、

「二人だと速いねえ」

 だった。


 そして自分は気付く。椅子が一脚でいい理由を、だ。

 先輩が、作業台や、窓際に腰掛けるのだ。

 クッション。多分、先輩の持ち込みだろう。それを持って、先輩がいそいそと場所を変える。

 これがかなり頻度高い。猫か何かか、と思うが、何か理由があるのだろう。

 そんな、よく動く人を見つつ、自分は椅子に座って一冊読み切り、

「あ」

 帰るかどうか、迷う時間だ。すると先輩が、

「別に、帰りたいときに帰っていいよ」

「先輩は?」

「え?」

 問い返され、変な質問をしたかと思う。だが彼女が、ちょっと笑って言った。

「帰りたいときに帰るよ? でもまあ、――後輩君がいるなら、付き合うかな」


 気を遣わせても悪いので、じゃあ、と退出した。

 そして翌日も、また部室に行って読んで、翌日も、と重ねて一週間。

 週末には入部届を出したいと先輩に言うと、棚にある名簿に名前を書き加えられた。

 それで終了だ。

「一応、代々教頭が顧問だから、職員室の手前? 壁に際に教頭の机があって、そこにこういうの入れるケースがあってね? そこに学期末あたりにこの名簿入れておいて終了。

 文連の会合で翌期の開始に返されるから、それで回収ね」

「えーと、それを教えられてるってことは」

「後輩君、来年から部長だから、体には気をつけて」

 真顔で言われることだろうか。


 ともあれ部員になってしまった。


 そして二、三週間くらいすると、気付くことがある。

 先輩が、椅子を使わない理由だ。

 先輩の脚が長くて、椅子が合わない。というか先輩が合わないのかコレ。教室にあるような椅子で、サイズ大きめのなら違うんだろうけど、ここにあるのは折り畳みのアレだ。

 一回、先輩が他の椅子に詰まれた備品の下から、コピー用紙の古い束を取り出したときがある。もう変色してるようなのはメモ代わりにつかっていいと、そういうことで。

「職員室の方でも、何か古くなったのがこっちに回されるんだよね。倉庫扱いらしいけど、古い紙でプリントすると保護者から文句来るとか」 

「ああ、大変ですね最近のそういうの……」

 だよねえ、と、先輩が、空けた椅子に何となく座ろうとしたときだ。

「きゃ」

 空足という訳ではない。ただ、彼女が思った位置に座面がなかった。

 結局、椅子自体は消えたわけではないので、先輩は着席したものの、

「うわー……、ビックリした。これだから無駄に背が高いと……」

 実はモロに見えた。グレーですか。あ、いや、光源の錯覚というアレで青かも。


 二日間くらい、リフレインしてしまって、本人に申し訳なく思ってもう何かいろいろアレ。

 気付かれたくないよなあ、というか、土日挟んでクールダウン出来て助かった。

 部活って言っても短い時間の共同生活なんだなあ、と思わされる。


 あと先輩、何か初日の”アレ”が気に入ったのか、こっちと話すときに腰を落としてくる。

 こっちが椅子に座っていると、クッションを床において膝つきだ。それで、

「後輩君」

 とやられると、凄く気まずい。

 上下関係とか、自分、あまり気にしない人間だったと、そう思っていたんだけど、”上”の人に気を遣わせてるというか、

 ……あー、でもホント、向こうもなのかなあ。

 上から目線、と言ったのは、先輩の方なのだ。だから本人も、気にしていることなのだろう。


 自分が背の低さを気にしているように、先輩もまた、背の高さを気にしているように思った。


 だから、という訳ではないが、先輩が己の気遣いに安堵出来るなら、それを受け取ろうと、そう思った。こっちもまた、そういう部分があるのだから。

 ついでにいうと、しゃがんで貰えたり、腰を落として貰えて有り難いのは確かなことだ。だって人体工学上、お互いが立っているとこっちの目の前には先輩の胸があるし、座っていると腹の下側というかスカートの、ほら、アレだ。別に透視能力持っているわけじゃないが、いろいろ気まずい。

 この場合、視線を合わせた方が楽、という選択になるんだけど、座ってるときに見上げるとデカいのが先輩の顎のあたりを隠していてつまりデカい。背丈のことです。

 なので、向こうから視線の高さを合わせてくれたりするのは、ホント有り難い。

 運が良いというか高さがいいのは、作業台に座った先輩と、こっちが立ったときだ。視線がかなり近くなる。そんなもんだから作業台に先輩が座っているとき、こっちは話しかける、という変な構図が増える。


 しかし先輩のルーズさというのも、何となく解ってきた。

 とにかく遅刻癖がある。いや、コレ、絶対そうだろう……。こっちが部室の前で待つのはいつものことで、でも、

「ああ、ゴメンね」

 という声。これ多分、謝り癖みたいになってるんだろうか、とも思う。ただまあ、そういうものだと解ってしまえば気楽なもので、

「いや、気にしないので大丈夫です」

「えー、私、他人の遅刻気になるから」

「先輩より遅れる他人は相当なんで怒っていいです」

「私基準かー」

 と、ドアを膝で押して開けられる。

 あ、と先輩が言った。

「後輩君? 私が休んだりしていないとき、ここで待ってるのも何だから、帰るんじゃなかったら職員室で鍵持ってきて勝手に入っていいよ?」

「鍵?」

「うん。職員室に東側、教頭のいる方から入って、右の壁? そこに各部室の鍵が掛かってるから、下にあるノートに”文芸部”って書いて、借りた時間と、返すときにその時間を書けばオッケー。だけど五時が終了だかんね?」


 一度、先輩が来なかった日があった。

 だからそのとき、職員室で鍵を借りて、部室を使ったが、

「…………」

 あ、コーヒーメーカーの使い方を聞いてなかったな、と思う。

 ついでにいうと、よく位置を変える人がいないと、ひどく広く感じるものだ。結局、一時間もいないで、鍵を返して帰ってしまった。

 ただそのとき、作業台の上に一冊、文庫があるのに気付いた。

 先輩の本だ。栞の位置から読み途中だと解る。どんな内容かと気になったが、

「触れるのもな……」

 スマホで検索すれば一発。だが、他人が読んでいるのを探るのは、アレだ。鍵を掛けたドアを、勝手に開けるようなものだろう。

 不意に見えるなら仕方ない。でもこっちが勝手に、はダメだ。

 パンツのことじゃない。


「ゴメンゴメン、昨日、実家の方で祖母がひっくり返ってね」

「あ? え? 大丈夫なんですか?」

「いや、戻ってみたらピンピンしてたね。何かアレ、立ちくらみの強いヤツ? 祖母も背ー高いから。風呂場でクタっと行ったって。――昨日はどうだったの?」

「あ、はい。部室来て、開けてみましたけど、すること無かったので帰りました」

「すること無いとか。あはは。――あ、でもアレか! コーヒーメーカーの使い方とか教えてなかったっけ?」

「無いです」

「あ、じゃあ、どうしようかな」

「いや別にいいです。今後は先輩来なかったら帰ればいいので」

「へえー」

「先輩の遅刻は平均十八分なので、二十分待ったら帰ればいいだろうと」

「へ、へえ――……」


 中間テストが終わると夏服移行期間だが、ここで文化部の発表会がある。

 といっても祭をするわけじゃなく、職員室前の廊下や、各階のホールに展示を行うだけだ。

 文芸部は本を出す。

「書いてみる?」

 そう言われて、即答した。

「用意が無いです」

「それがワープロって言うのがあるんだよね……」

 凄い、初めて見た。……あ、この、ディスクっていうんですか? うちのオヤジの持ち物の中で何枚か見たことがある……。

 しかし、読書量と、書けるかどうかというのは別だ。

「どう?」

「いやあ、全く……。何をどうすればいいのか……」

「小説とかじゃなくて、エッセイとかもあるから、何か、思ってることとかでいいよ。読書感想文とか有りだから」

 成程、と思って、ふと、書こうとする。タイピングについてはPC授業でやってる。変換は出来て、文字が打てて、カーソルが動かせて……、ああ、意外に同じだな。保存が、完全に画面が変わるのは据え置き機のゲームみたいだ。

 だが、書けない。というか、コレ、アレだ。

 ……まず、先輩に見せるんだよな……?

 すごく恥ずかしいです……。


 鍵だ。

 心のドアに鍵を掛ける。

 自分の思いを他人に見せるなんて、それだと無理だろう。


 結局、無難に書評というか、やたら同じ語彙ばかりの感想文を書いた。先輩の方は何かというと、

「すげえ……」

 祖母が倒れたネタ日のことをドキュメントにしてるが、コレが笑える。どうしてこんな言葉が出るんだろう、と思ったが、

「好きな作家がこういう芸風でエッセイ書いてて、それの真似だよね」

「成程、あ、でも、コレはフィクションですよね。俺、閉め出されてませんから」 

「脚色脚色」

 展示して、何か反応があるかと思ったら何も無かった。先輩曰く、

「そーいうものだから、とりあえず気にせず、出せるもの出して”役目は終わった”と、そういう年貢かな」


 ただこの作業の時、変化が生じた。

 帰る時間だ。

 これまで、一冊読んだら帰っていたが、そうではなくなった。

 先輩と一緒に作業して、帰る。

 だが先輩が、コーヒーの器とかを洗って、軽く掃除して帰る。それは儀式的なものも含んでいるんだろうが、

「ええと、掃除、手伝います」

「え? あー、何が何処にあるか解ってない素人は無理。危ないよ。裁断機とかあるから」

「じゃあ、カップとか洗ってきます」

「え?」

 あー、と先輩が迷った。既に箒を手にしていた彼女は、ややあってから、

「まあいいかな。じゃあ御願い。コーヒーメーカーはこっちで掃除しておくから」

「?」

 最初の反応に何か疑問に思ったが、盆に乗ってるカップを流しに持って行く。


 洗うときになって気付いた。

「あー……。そういうことか」

 先輩のカップに、リップのカラーがついている。

 ……うわあ生々しい……。

 いつもルーズな人でコレはちょっと破壊力有る。

 気にしたら負け。向こうも、こっちを信用してくれたから預けたのだろう。こっちの口が着いたものを洗わせていた訳だから、

「ああ、共同生活か……」

 そんなことを考えると、落ち着いた。なので平然とした風で、部室の定位置に戻す。

「乾かす必要とかは――」

「あ、大丈夫。そこのストッカーに差しておいて」

 言われたとおりにする。おお、出来るじゃないか俺。


 帰宅して、リップの色が頭の中にちらついてミョーに困った。

 ……うわあ。

 申し訳ないと思う。先輩の、ドアの鍵を強引に開けさせてしまった感。こっちが、そういうの知らないからと、そんな悪意ないダメな善意であったような気もして、

「うーん……」

 反省はするが、翌日からカップ類はこっち担当になったので、先輩の中でも割り切りが効いたのだと思うことにする。


 また、帰宅が一緒になると、いろいろな事実が解る。

 先輩が限界と言っていた午後五時を過ぎる時があるのだ。だが先輩は、

「じゃ、帰ろうか。流石に親御さんも心配だろうし」

 と、いつもの手分けをして、帰る。その際、ドアを施錠するが、帰り道が想像と違った。

「先輩? 職員室じゃないんですか?」

「え? ああ、帰りは通用口ね。棟の行き来は出来るから靴持ってきて」

 初日は言われた通りに。翌日は靴を持ってきていたので、そのまま付き合う。すると、

「先輩、職員室は?」

「え? 何で?」

「鍵。職員室に返さないんですか」

 先輩がさっきバッグにしまったそれを指で示す。すると彼女が笑った。

「これ、合い鍵。――代々の部長はこれを預かるんだよね」

「ハア?」

 いやさ、と先輩が笑う。

「輪転機のインクって、乾きにくくて、それでいて翌日回収だと、急ぎの発行物に間に合わない時があるんだよね。だから文芸部部長は、暗黙で部室の合い鍵持ってて、職員室がしまった後でも居残りしてられんの」

「いやいやいやいやいや」

「女子校だったときからの伝統ね。――文芸部は、ほら、イメージいいよね? だからいいところのお嬢さんが名前だけ在籍、ってのが伝統になっちゃってね。さて部長はじゃあどうするか。部長はそういうお嬢さん達の”活動実績”のために、今やってる部誌みたいなのを絶対作るように、ってことでね」

 だから、

「それがずっと伝統だから、今でもお偉いさんとかいいところの子が口コミで幽霊入ってくるんだよね。それで大学行って、やっぱ同じような部に入って、卒業後に”OB会”で、初めて顔を合わせて社交云々なんだって」

「部長が一番下っ端ってことですか……」

「まあ、君が来てくれて良かったよね」

 そういうことらしい。


 しかし先輩の背の高さは、一緒に帰るとよく解る。

 胸があって見上げると、肩と胸の向こうに顔がある感じだ。話していて、先輩の方も気になるのだろう、ちょっとこっちを覗き込むようにしてくる時がある。そして歩いていると、先輩が不意に横道を指さし、

「あ、こっち」

「何かあるんですか?」

「君の家は?」

「線路のあっちで」

「あー、地元。じゃあ気兼ねなく頼むね」

「え?」

「夜に地元で男の子なら、先輩を送っていく」

「あー、はい」

 学校が充分見える範囲の、アパートだった。一階部分。主に大学生に貸しているらしく、そのような看板もある。部屋の前で先輩は一つ頷いて、腰を落として、

「うん、有り難う」

 無茶苦茶子供扱いされてんなー、と思うが、まあ協定みたいなものはあるのだ。だから、

「じゃあ、お疲れ様でした」

「ハイハイ、明日もこんな感じで宜しくね」

「あ、はい」

 頷いて歩き出して、振り向いたらまだいて、手を上げられて、早く部屋に入った方がいいんじゃないかと思わされる。


 そして、夏服になって、事故るようになった。

 先輩だ。この人、場所を移って本を読むクセがあるが、その理由が解った。

 本の内容が推移して、場面の雰囲気が変わると、移るのだ。

 話し合いとか説明とかがあるときは作業台。更に真剣な、まあ恋愛とか、そういうパーソナルな内容の時は奥の棚の上。そしてアクションなどの場合は窓際だ。

 窓際が特にいけない。

 こっち向きに座った上で、座面が高い。夏服が膝丈チョイ上だからマー気になる気になる。窓際にはオイルヒーターの設置された場所もあって、それを乗り越すように座ると、更に脚が上がる。

 その上で、インパクト有るシーンになると、

「うわ、お、おお」

 と勢いよく膝を胸に寄せるため、つまり自動的に見える。

 ややあってから、先輩がそろそろと脚を下ろし、

「……あ、ゴメンね」

「いえ、別に」

「いや、変なもん見せた」

「いや、変なもんじゃないんで」

「おおう……」

 二人でちょっと黙った。というかコレ、アレだ。お互いがここから先の芸風を持っていない。

 ……えーと。

 じゃあ、と自分は言った。

「ファミレスで」


「ファミレスで」

 は一種の合い言葉だった。前の発表会の打ち上げとして学校近所のを使ってから、以後、何かあると、

「じゃあファミレスで奢るということで」 

 というのが、何となくのルールとなった。

 勿論、毎日じゃない。週末にまとめてそれだ。ついでにいうと、奢るかどうかは厳密じゃなく、何となくそうするときもあれば、そうしないときもある。ファミレスではお互いが知ってる作家の話とか話すこともあれば、先輩は古い逸話を知ってるし、こっちはネットでの新しい話題、というので上手く循環出来ていた。

 バイトで親戚の酒屋の配達手伝ってることもあり、金に問題は無い。


 大学が隣接で住み込みは高校の頃から多い、となると、夏休みも校舎は開いていて、昼過ぎからは先輩が校内全域対応のクーラーを目当てに部室にやってくる。

 こっちもそれに付き合うが、待ち合わせすると確実に先輩が遅刻するから凄い。


 そんなこんなで学園祭も春の時と同じような流れとなった。だが、

「あ、色のついた飾り紙、家に忘れた……」

「え? 目次はそれに印刷ですよね?」

 あー、と先輩が部室に広がる印刷の乾燥待ちを見て唸る。まだ印刷するものは何ページもある。ちょっと彼女が頑張りすぎて書きすぎたせいだ。

「あの、ね? 後輩君」

「何です?」

 はい、と先輩が、バッグから鍵を一つ、こちらの手を取って渡す。何故か、誰にも見られないようにという、腰を落とした上で、そんな無意味な動きで渡されたのは、

「うちの鍵」

「ここの?」

「…………」

 黙って赤面されて、気付いた。この鍵はあれだ。

「いや、ちょっとちょっとちょっと」

「業務優先業務優先。――信用してるから。あと、もう暗いから見えない。飾り紙の束は入口置いてあるから。全部持ってきてね。ほらダッシュ」


 いいのかなあ、と考えながら先輩の部屋に到着。不審者だと思われたらどう言い訳しようと思いつつ、ドアを開ける。ついクセで膝で押しそうになるが、そんな必要も無い。

 ……明かりついてんじゃん……!

 防犯のためかなあ、と思うが、中は2LDKだ。あーキッチン綺麗とか見ちゃいけない。ただ部屋には本棚が並んでいて、奥の部屋……。寝室アー駄目駄目。目に入れたらダメだけど窓の半分を本棚が塞いでるのはどうかと思います先輩。

 しかしキッチンにあるミニテーブルにまで文庫が載ってるのは凄い。

 そして玄関の処に置いてあるのは、

「……全部ってコレ?」

 B4の五百枚束が、五つあるんですけど。


 謀られた……! いやホントそう思った。コレ、あれだ。重いからこっちに持って来させるという、そんな計画ですよね!? ね!?

 だがまあ、先輩がコレを抱えたらどうなるんだろうか。胸が邪魔だよな……。うん……。

 仕方ないので持って行くことにする。外に出ると夕暮れも終わりの時間だ。鍵締めて、五つ抱えて行く。すると、

「あ! ゴメンね! 五つあるって忘れてた!」

 先輩が向こうから走ってきた。


「じゃあファミレスで」

「はい、ファミレスで」

 そういうこととなって、とりあえずこちらが束四つ、先輩が一つで学校に戻る。正門から来ると解るが、部室には明かりがつけっぱなしだ。


 背が高いものを見上げるように、下には来ない。だから、

 上から来ないし、背が高いものを見上げるように、下からも来ない。だから、

「まだ正面口から入れるから」

 と二人で歩き、しかし、ふと先輩が足を止めた。

「あのね」

「何です?」

「私、一年のとき、実はバレー部に勧誘されてたんだよね。地元の中学でもそれだったし」

「あー……」

 凄く解る、というか、そっちの方が適している気がする。だけど、

「勧誘期間から思い切りフルの練習になって、何か辛いなあ、って思って帰ろうとしたんだよね」

「辛い?」

「んー、ほら」

 そこで初めて、先輩が、こっちの目の前で背伸びした。

 高い。その上で彼女は、手を上に伸ばし、高さを測る。

「凄いある、って自分でも解るし、垂直跳びとかもなかなかのもんなんだけどね」

 でも、と先輩が笑って言った。

「私じゃない気がするなあ、って」

「――――」

「そのとき、ここでほら、明かり着いてるのが見えて、何部だろう、って。

 バレー部よりも遅くまでやってる部活、ってのは、バレー部以外の選択肢として、何か言い訳になったんだよね。行ってみたら文芸部でビックリしたけど」

 それでさあ。

「本読んでると、ほら、あれ。――余分なこと、無くなるよね」

「それは――」

「背が高いとかさ、そういういろいろ、いい意味で視界が狭くなるっていうか」

 言われた。

「鍵掛けて、閉じこもったような、そんな感じになれる。――バレーやってたときは、常に評価とか出来とか、レギュラー云々そういうの気にしてたけど、本に閉じこもると、そういうの無いんだよね」

 アハハ。

「夜で暗いと自分語り始めるババアだよね。――忘れていいかんね?」


 言って、先輩が校舎の時計を見る。

「あ、入った方がいいね。一回目の見回りが来るから。――怒られないけど、説明しなきゃいけないのが面倒」

「あ、はい」

 と思って先輩の横に並び、自分は思った。

 この人は、己に適していることがあったとしても、それを辛いと、そう感じて、こっちに来たのだ、と。


 帰宅して、何か気分が全くノらなくて、床に寝っ転がっていたら、ふと思った。

 言葉にする。

「多分、俺、先輩のことが好きだよな……」

 そうだ。

 さっき、何かが満ちたような、そんな気がする。


 背が高い女子、という、自分の苦手な要素そのままの人だ。

 だけどこっちに気を遣ってくれたり、また、外のいろいろなものから自分を遠ざけるために本を読み、今に至ってる。

 鍵を掛ける人なのだ。

 自分とは細部や、否、下手すると大枠でも違うだろうけど、錯覚を覚悟の上でこう思う。

 解る人が、いたのだと。逆だからこそ、通じる人がいて、

「…………」

 さっき、夜闇の中で背伸びした先輩の姿と言葉が、ちょっと、頭の中から離れなくなってる。


「うわー……」

 どうしたものか。否、向こうは眼中ないだろう。

 大体、見ていると、先輩、無茶苦茶人気あります。元が運動系だったせいか姿勢とかいいし気遣いあるし、たまに学校内で見かけると、何かグループの中には必ずいる系だ。

 それに、ちょっとした決定打もあって、これは無理な感情だと解る。

 自分は、ある理由で、先輩のそういう視野に、入っていないのだ。

 諦めるしかないが、だが、節目はあった。

「先輩、卒業するからな-」

 付き合いも三月まで、となると、それを楽しむべきだろう。


 学園祭の後、先輩が、”上”の大学にそのまま移行出来ることが解った。

 三年生は、そういう時期になっていくのだ。だけど一抜けした先輩は、こちらに部室でそれを話して、膝をついた上でのハイタッチは何だかあれだ。子供の遊びみたいだが、こっちの感情が知られないかとやたら緊張する。だけど、

 ……自分勝手なのは無し! 無し!

 心に言い聞かせて、提案する。

「じゃあ今日は週中ですけどファミレスで」

「そうだよねファミレスだよね。――いやあ、今夜は奢るよね。もう、実家も大喜びで」

 話し込んで、送っていって、それがいつもの流れと、そうなっていた。


 ああ、いいじゃないか。

 好きな人と飯食って、送って、笑ってられる。

 こっちが、ある理由で視野に入っていないし、その理由も自分にはよく解る。

 だから視野外の自分が、今の関係を壊す必要は無い。そう思う。


 それから年末年始が来て、冬休みも先輩は暇を持て余して部室にいて、そしてまた変化が来た。

 いや、バレンタインは違います。そのときはフツーに、

「はい、後輩君にバレンタイン」

 実はかなり内心でキョドった。

「え? いや、どういうことです……」

「いやいやいや、バレンタイン」

 と言って、先輩が、あ、と気付いた。赤面して、

「いやあ、そういう意味のだったら、もっとちゃんとしたの渡すからね?」

「いやだからそうじゃないですよねと、そういうことを言ってますって」


 家帰って死んだ。

 視野外だと証明されたか――。

 部室では、否定された上で、ビミョーに空気が気まずかった。だが、

「何でチョコを?」

「いや、……この前の本、凄くよくて冬服なのに三回パンツ見せたら、後輩君から逆に奢って貰えて何か凄く悪いことしたなって……」

「パンツ分か……」

「いやそのときの奢りの分」

 結局全否定だよね!


 しかも追い打ちが来た。

 風呂上がりに母から家族としての家族チョコを貰えた訳だ。だがそのとき、交換条件というように、母が切り出してきた。

「ちょっと、このところ、凄い美人と夜にファミレスで食事してるそうじゃない?」

「あー、部の先輩」

「そういう言い訳?」

「いやいや、そういうんじゃなくて」

 否定も食らった夜だ。だからまあ、言おうと思う。

「こっちとか、視野に入ってないから」

「そう?」

 そうだよ、と己は言う。

「先輩の読んでる本、シリーズものでハマってるのが、パターンとして、アレなんだ。身長高い男が、背の低い女の子とコンビ組む話」

 つまりさ。

「先輩、背が高くて気にしてるみたいで。……憧れとしては、自分より背が高い相手がいいんだろうなって、解る訳、読んでる本で」


 そういうことだ。

 先輩の鍵掛かった部屋の中に、俺はいない。

 調べることだけはしないと、それは何と言うか、プライドで保っていたんだけど、作家名やシリーズ名は憶えてる。それが原作のドラマになったり、アニメにもなったりすれば、先輩の口から上がるときもあるし、書評は目につくようになる。そしてそうなった。

 先輩はそのシリーズを、俺と出会ったときにはもう読んでいたから、向こうの方が長い。

 知りたくない話を、先輩が嬉々として語るときのネガな刺さり具合はなかなか沁みる。浅ましいものだねえ、とは思うが、人の好みだ。

 それに自分も、背の高い相手が苦手になったように、先輩はまた、逆に、背の高い相手を欲しているということだ。考え方としては裏表だけど、根本は同じだと思う。

 だからこそ、これは”負け”だ。


 結局、先輩とは、いつも通りを続けて卒業式の日となった。

 正直、ホワイトデーで何か返して、そこで告白して自爆、とも考えたが、それは先輩との関係を完全に壊してしまうし、一方的な押しつけだ。

 それに卒業式は三月の十一日。ホワイトデーには早すぎる。

 卒業式の手伝いを、二年が行う。送辞とか、そういうのの流れだ。

 だからまあ、その後で先輩は来るだろうと思って、部室の前に立っている。すると、

「あ! ――ゴメンね後輩君」

 先輩が来た。


「あ、先輩、今日、どうします?」

 バッグに証書の筒を入れた先輩は、袖のボタンとか全パージ状態だ。人気があるんだなあ、と、いつものルーズ具合からは想像も出来ないが、今更ながらに思わされる。すると、

「ちょっと、友人達とこれから集まろうってなってんのね」

「ええと、じゃあ今日は――」

「後輩君が後ろいたの見えたから、こっちいるかな、って。忘れ物とか、中にある?」

 腰をかがめて言われると、参ってしまう。

 ああホントに、俺、この人が好きだ。だから、

「俺は別に、何となく来てるだけなんで、先輩が開けないなら、それで」

「そ、そう? 中、いい? じゃあ――」

 と言いかけ、先輩が言葉を止めた。

 ファミレスで、とは、ならないわけだ。

「じゃあ、ゴメンね。友人達、下で待ってるから」

「はい」

 言うと、先輩が歩き出す。外へ、ホールの方へ。


 終わりだなあ、と、そう思った。

 気付くのが遅かったかもしれない。もっと早く自分の感情に気付いていれば良かった。

 でも、しょうがない。

 心に鍵を掛ける、ってやつだ。

 先輩もそうしていて、彼女の鍵の中に自分はいない。それはもう、昔からだ。だから、

「じゃあ」

 と自分も、ファミレスの次を考えないといけないのかな、と、そう思った。

 ……やっぱ背が高くないとダメかなあ。

 と思い、ホント、先輩の気遣いは有り難かった、と考える。そして、

「――――」

 気付いた。


 ダメだ。

 違う。そうじゃない。

 心に鍵を掛ける、ってやつだ。

 そうだ。そうじゃない。

 先輩は、こちらの鍵の中にいない。外の人だ。

 自分だって、先輩にとって、そうだろう。鍵の中にいなくて当たり前だ。

 他人なんだから。当然だ。

 鍵はその人の聖域だ。

 それに遠慮をしてたら、絶対に勝てない。ならば、

「――先輩!」


「先輩!」

 走って呼びかけた。ホールだ。誰もいない卒業式後の二階ホール。

 階段に行こうとしていた先輩に自分は追いつき、手を取る。

 いろいろ迷ったが無視した。手を取って引っ張り、振り返させる。すると、

「――――」

 先輩が、驚いた顔で、こちらを見ていた。

 当たりだろうか、どうだろうか、解らない、だけど、

「先輩」

 言った。

「本とかそういうの別で、好きになってしまったんで、付き合って下さい」


「え?」

 というのが、一気に赤面していく先輩の第一声だった。

 正直「やっちまったか!?」と思ったけど、押すことにする。

「あの、いいですか」

「え? 何が? ええと」

 ちょっと待って、と言われた。明らかに狼狽えた口調で、

「後輩君? あの、ええと、……今なら引き戻せるから、ね? あの」

 と、腰を落として言う先輩に、自分は言った。

「あの、……先輩が腰を落として俺と話すのって、あれですよね?

 ……背が高い理想の相手がいるとしても、現実では、俺を選んだからですよね?」


 そうだ。

 先輩は、他の人達や友人と話すとき、俺に対するようなことをしない。

 だけど、俺と話すとき、視線の高さを合わせてくれる。

 背が高いものを見上げるように、下には来ない。だから、

「俺にだけ、変えてますよね、先輩」

 鍵の中では違うものに理想を見ているが、理想は理想だ。

 現実では、彼女はこちらを見てくれていた。

 もう理想は怖くない。それを有りとした上で、先輩も、

「まっすぐ話がしたいと、……最初から、そう言ってくれました」


「――!」

 先輩が逃げだそうとしたので、手を引っ張る。

 おおお長身で元フィジカル派だけあって力が強い。だけど、これは要するに図星だ。

 頑張って引き留めると、先輩が肩を落として膝をついた。彼女はそのまま両手で頬を押さえ、

「うわあ……、もう、何で……」

 お互いホールに座った。その上で向かい合って、とりあえずこっちから聴取することにした。

「というか、何でって、俺が聞きたいです。……何で?」

「いやだって後輩君、凄く良かったから」

 うわあ何か意味が解らないけど熱が上がる。

「いやいやいや、俺、背が低くて本しか見てないですし」

 だから、と先輩が言った。

「あのね? 私がちょっと居残って読書してたとき、君、私のこと、見上げたのよね」


 覚えはある。サッカー見て、帰りが遅れたときだ。

「あのとき、部室を見上げたら、閉じたカーテンの向こうに本棚があって……」

「うちの部室にカーテンはないんだよ? 窓際にオイルヒーターある旧教室だから何か防炎云々って話で、本に日が当たらないよう本棚の位置調整してるくらいで」

 ほら、と先輩が言った。

「私カーテン」

「す、……すみません」

「ね? 私が立ってたの、眼中無かったでしょ? 翌日、うちにきて、私のこと何にも解ってなくて、再確認したのよね。――この人、本しか見てない! って」

 死にたくなった。だが先輩が言う。

「私が見つけて、私を救ってくれたものを、同じか、それ以上に見るこの子は何だろう、って。でも見上げられたとき、私は眼中入ってなかったなあ、って」

 だから、

「この人とは、見上げられるんじゃなくて、まっすぐ話が出来たらな、って。――私、読書は高校デビューだし、私と本と、どっちが先かって君に聞いたら、本って答えるだろうから、私、負けないぞ、って」


 ああ、同じだと、そう思った。

 言わなくても通じていたようなことが、言われて、通じた。


「だけど――」

 先輩が、困ったように唇に手を当てた。

「部室来る前に慣れないメイクしたら遅刻の常習になるし」

「ああ、あれ」

「平均十八分とか言われた」

「す、すみません」

「カップ洗って間違いなく気付かれたと思うし」

「いや、あれは、ええと……、すみません」

 やー、まあ、と先輩が、熱を持った頬に手を当て直して言う。

「どうして?」

「どうして? って」

「だって君、背の高いの苦手っぽかったし、本以外眼中無いような感じだったし」

「そうですか?」

「そう」

 軽く睨まれた。だけどこっちも、先輩に言いたいことがある。

「先輩が学園祭の時、バレーボールの話をして、グっと背伸びしたのが、凄い印象強くて」

「背、高いって、そういう話だったのに?」

「俺にだけ話してくれたじゃないですか」

「ああ、うん……」

 お互い煮詰まる。ただ、こっちとしては懸念がある。

「いいでしょうか」

「どうぞ」

 何だこのノリ、と思いつつ、問うておく。

「先輩、……背の高い相手が好みですよね」

「本の話なら、アレは避難所」

「避難所」

 言われて、何となく腑に落ちる。鍵を掛けて、ということだ。だから先輩は一つ息をして、バッグからちらりと本を見せ、

「今日も逃げ込むつもりだったんだよね」

「どうしてです?」

「卒業式だってのに、後輩君にバレンタインのフォローも出来なかったから」

「フォロー?」

 はい、と渡されるのは。包装の箱だ。菓子だと思う。

「本の形したチョコ。――バレンタインの時、そういう意味の、って言ったよね? だからまあ卒業式の勢いもあるし、ちょっと早めのホワイトデーをこっちから渡す、というのはどうかと思ってたけど……。後輩君、部室の中に入らないって言うし、まあ、キョドって逃げるよね私のキャラだと……」

 ああもう、と先輩が両の頬を押さえる。

「後輩君、焦りすぎだって……」

「いや、だって、卒業式なんで」

 はい、と追加で渡されたものがある。書類だ。紙。何かとみれば、

「……図書室の、バイト司書……?」

「来春から、午後で入れる日はこっちの図書室」

「……何で早く言ってくれないのか……」

「卒業式の後でないと、ここでバイトの許可書が出るわけないよね? ね? だから春休み、来たらこれ見せて驚かして”ヘヘン? 先輩に会いたかった?”ってやってやろうと思ってたんだけどな……」

「すみません」

 だが思う。この人、俺もだけど、コミュニケーションが変なところで下手だ……。


 と、下から、先輩を呼ぶ声がした。

 あわあ、と彼女が立ち上がる。

「すぐ行く――!」

 と声を放って、同じように立ち上がったこちらと顔を合わせる。

 視線が合った。

「うん」

 笑われた。まあいいや、とも、良かった、とも言える顔だ。そして、

「あ、もう」

 泣かれた。

 笑って泣かれて、見たことない先輩がたくさん今ここで出てきて。

 幸いだ。

 そしてしばらく、先輩が涙を拭って、頷き直した。

「ええと、これから――」

 あ、と自分は思った。次期部長としての云々を果たしてない。だから、

「鍵、鍵を」

 部室の合い鍵は代々の伝統だ。だから次期部長として卒業式には貰っておきたい。

「鍵を下さい、先輩」

 言うと、先輩がややあってから頷いた。

「ま、ちょっと早いけど、いいかな」

 春休みも来るつもりだったのだなあ、と思うが、バッグの中から抜き出し、手渡された。

 先輩は、何かちょっと気合いの入った顔でこっちの手を握り、上下に振って、

「じゃ、じゃあ、友人達とは、三時には終わるから、四時に待ってて。勝手に開けて入っていていいからね?」

「勝手にってか、俺の場所ですよ、もう」

「言う言う。――でも、しっかり祝おうね。ちょっと、言えなかったこととか、思ってたこととか一杯あるから」

「御願いします」

「うん」

 涙は落ちた。だから彼女は、行く。手を振って、

「じゃあ、四時ね? 先に待ってて」

 下からは先輩の友人達の呼ぶ声が聞こえる。先輩はそちらに向かい、またこっちに振り向いて、しかし行ってしまった。


 何か嵐のようだったな……、と、自分は誰もいないホールで一息を吐く。

 手にはチョコの包み。

「コレを持って帰るのは凄いぞ……」

 部室に置いておこうかと、そんな風に考える。丁度、鍵も貰ったのだ、部長として、合い鍵の初使用と行こう。

 そして自分は、部室の鍵を突っ込み、膝でドアを押して、

「……ん?」

 鍵が入らない。というか、全く入らない。先端からダメだ。

 何だこの鍵。と、よく見て、理解した。

「……これ、先輩の部屋の鍵だ……」

 待て。意味が違う。というかモノが違うどころか明らかに解釈違いだ。

 あの人、こっちにこれ何て言って渡したっけ。

「……ちょっと早いけどいいかな、とか、しっかり祝おうとか」

 どんだけ。


 結局、現場で正座して待っていたら、十八分遅れでやってきました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る