【番外編】マッシュルーム・スナップ5

 風がずわりと水の薄膜を撫でるたび、虹色の波が鮮やかに視界いっぱいに広がって、ハルとデイジーの足をくすぐってゆく。


 夕暮れのカルベロ貝砂海かいさかいは、輝く黄金の水面に貝砂の極彩色がちらちらと踊る、極めて幻想的なものであった。かぜがもたらした滅びによるものであるにしろ、それが美しいものであることは変わりなく、太田おおたは先ほどからカメラを構えることも忘れて、うっとりとため息をついている。


「世の中にはちゃんと、こんな……夢みたいな景色が、あったんすよ、イノシゲさん。もし、停職食らわずに、あの壁の中にいたら。こんな風景、予想もできなかった……」


「けぇッ。なら、人喰い赤星あかぼしさまに、感謝することだな」髭面はカバ車の手綱を取りながら、手元の地図を睨めっこを続けている。「オレはゴメンだぜ、壁の中のほうが、なんぼかマシだった。いくらキレイだろうが、空気がうまかろうが、そんなんは命あってのことだろうが。ここ一週間、ずっと肝が冷えっぱなしだぜ」


「この壮大な眺めを前にして、よくそんな、浪漫ゼロの台詞が言えますねェ! そんなに嫌だったら、イノシゲさんだけ帰ったらいいでしょォ」


「帰れりゃ、帰ってるよ! バカ野郎」


 数日前の、藻原もばらでの事件――つまり、巨大ヤドカリとの遭遇によって、忌浜いみはま県知事直々にご用立ていただいた護衛のヘリを、みごとに粉砕されてしまった一件であるが、これが現状、二人の忌浜への退路を断ってしまっている。


「おめおめ忌浜に帰って、護衛のヘリが、ヤドカリに食われまして……なんて言ってみろ。ただでさえ群馬から来て肩身が狭いんだ、スパイを疑われて、殺されちまう」


「えー、べっつに平気でしょ。意外と、信じてくれるかもしんないすよ? あの知事も、気前は良かったし、噂ほど悪い人じゃないかも」


「あのツラぁ見て、お前、よくそんな……待て、ありゃァ、何だ?」


 髭面は言いながら、低い雲の下にぷかりと浮かぶ、何か丸い物体を指差した。遠目にもどうやらそこそこの大きさに見えるそれは、身体の両翼についたヒレのようなものをぱたぱたと動かして、空中に浮かんでいるようなのである。


「……う、うわぁーっ! イノシゲさんっ、あれ、魚ですよ! フグですよ、フグ!」


「ふ、フグ!? フグが、なんで、空飛んで……」


 太田は双眼鏡を髭面に押し付けて、急いで一眼レフのレンズを外し変え、遠くに漂うその球形の魚を、ぱしゃぱしゃと撮り始める。


「すげえ……これが、トビフグってやつですかね!? は、初めて見た」


「寄ってきてる」


「え。なんすか、イノシゲさん?」


「こっちへ、降りてきやがる!」


 髭面の言葉通り、そのトビフグとおぼしき飛行体は、どうやら一行をその視界に収めたらしく、こちらへ滑空してくるようなのである。そのスピードは身体に似つかぬ凄まじいもので、先ほどまで双眼鏡でないと見えなかったのが、いまや肉眼でも余裕で確認できるほどになっている。


「だめだ、逃げきれねえ! あのフグは、人を食うのか!?」


「わ、わかんないですッ、う、うわあ、どうしよう、イノシゲさんッッ!」


 すくみ上がる二人の前で、それまで大人しく水を舐めていたハルとデイジーが、「ばるる」といきり立った。もはや20mほどまで近づいたトビフグに向け、その大口を目一杯に開き、「ぐごおおおおお」と太い声で吠え、威嚇してみせる。


「は、ハル! デイジー!」


「だめだっ! 逃げろ、お前ら!」


 髭面がハルの背中に飛びつき、その背中からカバ車のベルトを外してやろうと手をかける、それへ向けて。


 がばあ、と開いた特大のトビフグの口が、髭面を丸呑みにしようと迫る。


「おわああああ!」


「イノシゲさあーーーーんッッ!」


 トビフグの牙が髭面の身体にかかる、まさにその直前、横合いからカッ飛んできたデイジーの巨体がトビフグの横っ腹に突き刺さり、その身体をボールのように跳ね飛ばした。


「で、デイジー!」


「イノシゲさんッ! 危ない、起きて!」


 ハルから転げ落ちた身体を、カバ車から降りた太田に助け起こされて、髭面は大きく息をつく。一方で空になったカバ車を引きずったハルとデイジーの二匹は、勇敢にもそのトビフグめがけて挑みかかってゆく。


「だ、だめだ、ハル、デイジー! お、お前ら、死んじまうぞーーっ!」


 壮絶な戦いであった。普段は大人しいハルとデイジーも、スナカバの遺伝子に眠る強力な闘争本能を剥き出しにして、トビフグに噛みつき、押しつぶそうとする。一方でトビフグも、その重みにまったく怯むことなく、その大きな図体で暴れたくり、その鋭い牙を、ついにハルの右太ももに向けて突き立てた。


「きゃあーーーッッ!」


 ハルの雄叫びと吹き出す鮮血に、太田が思わず顔を覆う。髭面は懐から酒瓶を取り出して、一息にそれを呷ると、震える手で腰の小銃を引き抜いて、鮮血の舞う戦場へ駆けてゆく。


「この、豚魚ヤロウッ! オレが相手だ、ハルに、手を出すなーーーッッ!」


 叫び声に、トビフグの目が、ぎょろりと髭面を向き――


 そこで、ずばん! と、何か鋭利な槍のようなものに、後ろからその目を貫かれた。思わぬ死角からの突然の打撃に、トビフグは『ぼおおおおお』と雄叫びを上げる。


「う、うわっ! い、イノシゲさん、凄い!」


「え、ええっ!? いや、こりゃ、オレじゃ……」


 困惑する二人の、そのはるか前方から、どうやら年若い少年の叫び声が聞こえてくる。


「つ、つかまえたーーーっ! いけえ、ナッツーーー!」


「ウォーーーララァーーーッッ!!」


 トビフグを貫いた槍は、どうやら大型の銛銃であったらしく、伸びたアンカーを綱のように引く複数の少年たちが、飛び上がって逃げようとするトビフグの動きを封じていた。


 それへ、狼のように吠え猛る、頭に貝殻を被った一人の少年が、凄まじい素早さで貝砂の海を跳び駆けてくる。


 少年はトビフグへ距離を詰めながら、一回、二回と跳ね飛び、三度目の大きな跳躍でその手に持った大きな銛を振りかざし、トビフグに向けて突きかかった。


「乾坤っ、脳天貫きいいーーーッッ!!」


 少年は、大口を開けて迎えうつトビフグの、まさにその口の中に飛び込み、そこからフグの頭を貫いてしまう。一度、びくりと大きく痙攣して動きを止めるトビフグの、脳天を抉り抜くように掘り進んで、少年はとうとうその頭の皮膚を突き破り、そこから這い出してきた。


 夕陽に照らされて、てらてらとトビフグの体液に光るその少年は、一度「ず」と鼻を吸い上げると、そこで高々と銛を掲げた。


「ウラァーーーーーーッッ!!」


「「うらぁーーーっっ!」」


 遠くで見守っていた仲間の少年たちが口々に叫び、彼を称える。いずれも少年少女、まだ年若い彼らはしかし、荒々しくも輝きに満ちた狩猟民族の貫禄を、すでに備えているようであった。


「漁師だ……。カルベロの、漁師だ」髭面が、その光景に知らず呟く。「貝砂の海の、荒くれものども。もう、死に絶えたって聞いてたが。まだ、こんなところに……」


 ぱしゃり!


 太田のカメラの音に、髭面が振り向く。べろりと吐き出される写真に、にんまりと太田は笑い……やがてそれを、髭面へ向けてぺろりと見せてきた。


 銛を高々と掲げ、獲物を踏みしめた頭領に駆け集まる、笑顔の少年たち。なるほど、太田のその自信たっぷりな笑みに似つかわしい、見惚れるような画ではあった。




◆どこかで見た少年たちとの出会い。

 月曜日の更新は、少年たちと別れふたたび波乱の旅にでたキノコ守りコンビ!◆

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