折紙
せの
折紙
昨日、彼女と別れた。
昨日はいつも通りに大好きな本をビニールで作った自家製のブックカバーに包んで濡れないようにして一時間ほどの風呂に入った。そうして、残っていた20ページ程を最後のページまで読み終えて、ある種の達成感と少しの喪失感とを持って風呂から上がった僕は上半身だけ裸のまま、スマホを開いて彼女からの不在着信に気づいた。
直ぐにかけなおそうかとも思ったけれど、結局、12月の暖房もいれていない部屋での半裸は寒すぎて、急いで服を着ようと山積みの洗濯物からパーカーを漁っているうちに電話のことなんて忘れてしまっていた。
それから風呂上がりのアルコールを、なんていう体に悪いことをする勇気もない僕は冷蔵庫からノンアルコールのチューハイを取り出してテレビをつけた。
そういえば僕がテレビをつけると決まってCMばかりで、時間を見ると15分だとか30分だとか45分。ああ、なるほどCMの時間だと、いつも運の悪さを感じている。
けれど昨日は違った。
適当にチャンネルをいじっているとCMどころか、丁度22時から始まる僕が好きなアナウンサーが出ているニュースを見つけた。このアナウンサーはいつも清潔そうな服を身に着けて、綺麗な声でさらさらとニュースを読み上げる。それが機械的だ、なんて言って僕の友人は理解してくれないけれど、僕はその無機質なところがニュースの醍醐味なんだと、笑って言い返したりしている。テレビに映る彼女を見て今日は運が良い、なんていい気持で居るところに近隣の未だ犯人が捕まらない連続通り魔事件のニュースが流れた。
今まで負傷者こそ出していたが誰かが死んだという話は聞かなかったのについに死者が出たことを大好きなアナウンサーが無表情で機械的に話した。成程、友人の意見はもっともかもしれない。
テレビの中の彼女が、確かに今までよりも冷たい女に見えて少し嫌いになった。
嫌な気持ちを消すようにひんやりとしたチューハイを勢いよく喉に通したときに、視界の片隅でちかちかと着信を知らせて光るスマホを見つけて、手に取ったのが彼女からの電話だった。
....
「ふぁ…」
情けない音を出しながら欠伸をする。スマホのアラームは6:00丁度に設定してあるけれど、時刻はもう8:30をさしていた。仕事のある日はきちんとアラームで目が覚めるというのに、休みだと分かればアラームがそれを察して鳴らないのか、もしくは都合良く体が目を覚まさないのか。ベッドに体を預けながらもう一度欠伸をすると、だんだん思考がさえてくる。と、同時に、昨日の、彼女の声を思い出す。
電話越しにきっと涙をこらえていた彼女の声。言い出しにくそうに別れを言って、そうしてまた鼻をすすって、唾を飲み込む音まで聞こえた。まだ家には、当たり前だけれど、彼女のおいていった色々なものが残っている。洗面台の鏡の前には、仲良くお揃いの歯ブラシとコップがあるし、台所の食器棚には、彼女がマイ箸を買ったんだと笑いながら言って、置いて帰った綺麗なお箸がある。起き上がると、きっと色々なものが目について思い出すから、出来ればベッドから出たくなかった。寝室だけは、僕が人の物を置くのを嫌がるからと、彼女のものは何も置いていない。こういうときに、人の匂いや気配がするとよく眠れない僕の無駄な繊細さが役に立つ。
彼女が別れを考えた理由は、あまり詳しくわからない。別れたいといった彼女に、僕はどうして、と聞かなかった。別れる、なんていう一方的な言い方だったら腹が立ったし、別れよう、なんていう能動的な言い方だったらきっと僕は彼女を嫌いになっていた。だけど、彼女は一言、別れたいと僕に頼んできた。その言葉のどこかに、僕らがいつもお互いに感じていた相手への感謝だったりそういったものが含まれているように感じた。
だから僕は、何も言わなかった。分かった、と返事して彼女の言葉をまった。風呂上がりで、髪も乾かしていなかった僕の頬を、冷たい水がつたった。それでも嫌な気はしなかった。彼女が次にいう言葉が、謝罪でもなく文句でもないということだけは確信していた。そうして、僕の予想通り彼女の口をついた五文字で、ああ、僕は良い人と付き合っていたんだな、と妙に誇らしく思って、つらくなった。
そういえばよく、「いい女になってふった男を見返してやる。」なんていう言葉を聞くけれど、あれは本当にいい考えだと思う。別れるときは、相手を否定せずに、むしろ失ったことを後悔させてやるくらいの方がダメージが大きいのだと思う。身を持って体験したのだからそれだけは確かだ。彼女が僕と別れる理由について言った言葉は、ほんの一言だった。
......
「きれいに折れなくなったの。」と彼女はすでに涙でぐずぐずになった声で、それでもはっきりといった。
何故だか、妙に納得した。
彼女にとって、【きれいに折れなくなった僕】との関係は、修正できるものではなくなっていた。折り目が付かない程、きっと僕らは固くなってしまったんだろう。
それが僕らの関係を終わらせるすべてだった。
ゆっくりとベッドから起き上がる。
朝の冷えた体温に、冬の冷気が容赦なく襲ってくる。
「寒い…」
小さく呟けば、もっと寒さを感じるようになった気がして少し後悔する。急いで着込まないと、僕は軽く震えながら昨日から変わっていない洗濯物の山へと手を伸ばした。
服を着て少しの暖をとる。
いつものように、コーヒーを飲もうと数か月前に買い替えたばかりのコーヒーメーカーにマグカップをセットしようとして、手を停めた。
かちゃん、とかわいらしいお揃いのマグカップ同士がぶつかり合う。僕が手にしようとしている青いくまさん(キャラクターの名前は忘れてしまった)とその横にある桃色のくまさんがきちんと仲良く手をつなぐようにして並べてあった。そういえば彼女は、このマグカップが手をつなぐようにして置かれていないと可愛らしく頬を膨らませて怒ってた。私たちがずっと手を繋いでいられるわけじゃないんだよ、なんて言うから、だからってマグカップにやらせなくても、と笑いながら返したのを覚えてる。
思い出してしまえば、どうにもこのマグカップを離す気になれなくて、一人の頃に使っていたマグカップを食器棚の奥の方へと手を伸ばしてとった。
.....
コーヒーメーカーにシンプルな白いマグカップをセットして、いつものようにブラックのボタンを押す。ふいに視界に脇のミルクの粉が移り込む。僕はブラックしか飲まない。だからもちろんこれは彼女のためのものだった。初めて僕の家に彼女が泊まりに来た次の日の朝、眠たい目をしておはよう、と告げた僕に彼女は信じられない、という顔をして突然ミルクの粉を買ってきて、と近くのコンビニまで朝から僕を走らせた。それから、彼女しか使わないミルクの粉は、必ず僕が買うことになった。不思議と、嫌じゃなかった。
出来上がったことを知らせるライトの点滅をぼーっと見詰めて、マグカップを手に取る。立ったまま、コーヒーメーカーの前で一口啜れば、冷えた体内に温かい液体が芯を持つ様に流れ込んでくる。ほっと一息つくと、僕は彼女と選んだ木の温かさの感じられる木製の椅子に座った。そっと椅子とセットになっている机にマグカップを置いて、向かいの空席になっている椅子を見るとまた彼女の顔が頭に浮かんだ。
僕の家に泊まった朝は、コーヒーを入れて、この暖かい机に向かい合って座るのが習慣だった。彼女はいつも僕の目の前で熱くなったマグカップを小さな両手で包み込んで微笑む。そうしてミルクで甘くしたコーヒーを啜るとマグカップを机にそっと置いて脇に置いてあるナプキンを一枚手に取った。
「何をするんだい」と初めてその行動を見たときに僕は馬鹿みたいに問いかけた。どうしてもそのナプキンに触れる指の動きが、僕が普段使うそれではなかったから。ふふ、と彼女は笑って、見てて。というように僕の目を見て楽しそうにナプキンを広げた。
それから、僕は夢中になって彼女の指の動きを見た。初めは、広げたナプキンを綺麗に半分に折り曲げる。そうして折ったかと思えばまた広げる。今度は先ほどの折り目へ向けて細い指がナプキンを折る。そうしてまた広げる。そんなことを繰り返しているうちに、まだ何も形が変わっていないナプキンは折り目だらけになってしまう。そして彼女はそこから、もう説明のできないくらいの速さで折り始めた。ああ、さっきの折り目はここで使うのか、なんていう発見と感心も一枚の変哲もないナプキンが立体的に形を織りなして行くうちに訳が分からなくなった。
出来上がったのは、一体のくまだった。最後に彼女は短く切った爪先で目か、なにかそこら辺のものを作って僕の方へとそのくまを立たせて見せた。
じっとくまと向かい合った僕は、今にもその掌に乗る程の小さなくまに嚙みつかれる気がして、なかなか手を伸ばして触れることが出来なかった。やっとそのくまを掌に収めて、噛みつかれないことが分かってからは感心の連続だった。くまの指先など本物もろくに見たことはないけれど実際の物であるかのように精巧でナプキンで作った紙の、所謂、折り紙とは思えなかった。確かにただのナプキンから作り上げられたそのくまは彼女の手によって命が吹き込まれていた。
僕は暫くコーヒーを飲むのもわすれて彼女の顔と掌の上のくまを交互に見ては息をついていて、彼女もまた、僕のその反応に嬉しそうな顔をして微笑んでいた。彼女はこの折り紙、というにはあまりにも素晴らしい芸当を父親から教わったと言った。手先が器用なのは昔からで、それは明らかに父親の遺伝だと。
思い出したかのように、僕は一人分のコーヒーを机に置いたまま席を立った。たしかリビングの小さな本棚の上に、あの時そのくまを飾った気がした。
.....
行ってみると案の定、彼女と僕の移った写真が貼られたコルクボードの前にくまは置いてあった。一回り、作った時の記憶よりも小さくなったように見えるそのくまは、草臥れたように見えた。それでも未だ、やはりくまとしての威厳があるのか、僕を噛みつくような目で見てくる。その目が「私を作った人はどこにいる?」と僕を攻めるように感じられてどうにも後ろめたさを感じた。
「別れを告げたのは、彼女の方からなんだよ。」
少しやけくそになりながら、僕はくまに言う。紙のくまだと分かっていてもひるんでしまって小さな本棚の前に正座した。くまは僕の問いに答えずに依然として僕をにらみつける。どうして僕が攻められるんだろう、振られた方なのに。くまを視界から外す様にコルクボードの写真を見ると並んで写る僕らが見えて目を背けた。「どうして別れた」と下から声が聞こえた気がした。もう一度くまを見ると問いかけるように僕を見ていた。
「どうしてって、それは…」
僕はくまの目を真っすぐに見れずに目線をさらに落として小さくぼやいた。自分の口から出た言葉なのに耳に届いた声があまりにもか細くて情けなくなった。どうしてって言われても困った。別れた理由を持っているのは別れを告げた方だけだと思っていた。だけど、よくよく考えればそうじゃない。付き合うことも別れることも二人いなければできない事だった。僕と彼女で選んだことだった。
どうして僕は彼女と別れたんだろう。折り紙が得意な彼女が、綺麗な細い指で、爪をいつも短く整えた僕の大好きな指で、繊細な紙を折っていく姿が好きだった。僕はいつもコーヒーを飲みながらそれを夢中に眺めていた。くまだけじゃなく、たくさんの紙の動物に命を吹き込んできた彼女が僕に、「きれいに折れなくなった」と言った。それは、つまり、僕との関係が。それは僕にとって絶対的な否定だったし、相当なショックを伴った。けれど、それが彼女と別れる理由なのか、と言われれば僕は首を縦に振ることは出来ない。
彼女と別れるだけの理由を僕はもたなかった。彼女は、僕と別れる理由を持っていたけれど、それは僕が分かった、と受け入れて初めて成立した。その分かった、という言葉一つに僕の意思は何もなかった。
きれいに折れなくなった、と言った彼女に僕は全く、誠実ではなかった。
すっと、くまに手を伸ばす。僕はくまを掌の上にそっと乗せるとじっと目を合わせる。けれどもう、くまは僕をにらみつけてはいなかったし、それどころか目線を合わせることもなかった。勿論、噛みつくこともなかった。既にただの折り紙になってしまったくまを僕はもう一度、本棚の上に置いて、ありがとう、と呟いた。
振り返って、木の机を見る。机の上のコーヒーからはもう湯気は立っていない。きっと冷めきってしまったから、もう一度淹れなおそう。今度はあのお揃いのマグカップで。僕はスマホをポケットから取り出して彼女へメールを打った。
『今度は、僕と一緒に、折ってくれませんか。』
折紙 せの @seno_
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