さばくは神が手

 一方で、カズはナイフの突き刺さっていた手を何度も握っては開いてを繰り返していた。その隣で、朝伏は腫れて肉の見える手を、文夜に向けて差し出していた。

 少女の手を、白い布が覆っていく。朝伏は始終微笑んでいた。その眼は治療を施す文夜に向かっていたが、彼は一切目を合わせようとしない。その表情は暗く、何処か恐怖を抑えているようにも見える。


「悪いな」


 ふと、傍にいたカズがそう言った。文夜は整えた包帯の切れ端を撫でて、カズの方を見やる。


「何がだ」

「本当はもう仕事終わりだったんだろう。引き留めて悪いなって」

「俺は宮家を治療するのが仕事だ。気にするな」


 そうは言うが、今日の文夜は何処か不安げで、そわそわしている。今すぐここから逃げ出したいような、何処か小動物にも似た雰囲気を醸し出していた。


「ありがとう」


 治療が終わり、自分の手に巻きつけられた包帯に、朝伏はにっこりと微笑む。そして、そういえば、と、呟いた。


「伯父さん、まだ生きてらっしゃったのね。びっくりしたわ」


 唐突なその言葉に、文夜は目を見開いて、朝伏を見る。彼女はにっこりと微笑むだけだった。


「ほら、あの子のことよ。貴方、一夜の子を預かってるじゃない。そろそろアレが一夜みたいになる頃だと思っていたから」


 朝伏の言葉に、文夜は狼狽えながらも、唾を飲む。何も言い出せず、言い出そうと口を開けば、再び朝伏が唱え始める。何処か楽し気な彼女の表情に、カズはそれを止めることも、話題に入ることも出来なかった。


「それに一向に一夕が目覚めないものだから、一夜がしびれを切らして何か仕出かす頃じゃないかとも思って」

「そんなこと、するわけないじゃないか」


 やっとのことで反論を始めた文夜は、ゆっくりと、言葉を紡ぎ出す。


「一夜は聞き分けの良い、素直な子だ。一夕を心配しているのは確かだ。それでも我儘で人を殺すような、そんな、化け物じゃない」


 それに、と、切に願うように、文夜は言葉を繋ぐ。それは丹念に織られた布のようだが、一つ一つが歪に聞こえた。


「一夜に子はいない。式神も、いない。お前が式神を持たないように、あの子に式神はいない。俺が一夜から預かっているのは、一夕だけだ」

「あら、そうやってまた言い訳するのね。認知を歪ませるのは貴方の悪い癖だわ」

「違う。お前が間違ってるんだ。人間性を冒涜することでしか生きられないお前達が間違ってるんだ。俺は人間だ。お前達が異常なんだ。お前達が違うんだ」


 まるで言い聞かせるように、文夜は言った。彼の手をよく見ると、震えているようで、言葉の端にもそれが見える。カズが、文夜の肩を叩く。


「何の話をしているんだ。どういうことだ」


 カズが何を問うても、文夜は、違う、とだけ呟く。次第に、肩まで震えが伝わっていく。文夜が、まるで何かを恐れる赤子のようになっていった。それを眺めていた朝伏は、ふと興味を失くしたように、椅子から立ち上がる。


「カズは包帯、巻かなくて良いの?」


 何の脈絡もない言葉に、カズは呆気にとられる。文夜の背に触れながら、朝伏を見た。彼女に変わりはない。不思議な雰囲気も、元々のものだった。全てを俯瞰して語る、美しい人。呪術の天才。宮家の中でも最上の探求者にして、最も神に近い少女。

 カズは何かを決めたように、スッと息を吸って、朝伏の手を取った。


「大丈夫だ。俺は傷つきもしなければ、病みもしない。死にもしない。安心して良い」


 カズがそう言うと、朝伏は、そう、とだけ言って、目を細めた。もう何も話せそうにない文夜を置いて、二人は診療室を出る。

 すると、開いた扉の前で、白衣を着た巨体とぶつかる。おっと、と低く地を這う声が、頭上から聞こえた。


「なんだお前。来てたのか。もうお前には医療何て必要ないだろうに」


 ククッと、気味悪く笑うのは、神野だった。書類を持ち、診療室に入ろうと扉に手をかける。それをカズはすぐさま止めた。


「文夜がいるんだ。急いでないなら、そっとしておいてやってくれ」


 カズの言葉に、神野は一瞬戸惑いのような表情を見せる。初めて見る顔だった。それでも、彼はすぐに元の愉快犯顔に戻って、身を引いた。

 仕方がない、と言って、カズたちから離れようと、歩き出す。だが、その瞬間に、彼は足を止めた。振り返り、じろりとカズ達を見る。


「そういやあ、お前、戻って来たんだな。やっぱりここがお前の故郷で、そいつがお前の所有物か。通りで妙に懐かしい匂いがすると思ったよ」


 神野はそう言って、しっかりと朝伏を睨んだ。朝伏の方はというと、クスクスと笑って、少しだけ困ったような表情をしていた。


「私も、歳を取った貴方に出会うなんて思ってなかったわ。お医者さんごっこなんて、また面白い事しているのね」


 朝伏がころころと笑っていると、神野は呆れたように溜息を吐く。


「おい、クソ孫」


 神野はそう言ってカズを呼ぶ。カズは、はあ? と唸った。バツの悪そうに神野は威嚇するなと言い、朝伏を指さした。


「そいつはな、若い頃の俺の内臓を引き摺り出したり四肢を捥いだり散々やってくれた、クソ女だからな。縁を切るなら早いうちにしておけ」


 そんなことを言う神野に、朝伏がまた笑った。今度はより一層楽し気に、無邪気な表情で、神野を見つめる。


「やっぱり痛かった? ごめんなさいね。でも貴方、減るものでもないじゃない。少し色々貰ったけど、結局そうやって元気にやってるんだから。それに、私以外にもずるずるずるずるずるずる……やってる子、いたでしょ? ホルマリン漬けにしたり、刻んでみたり、やってた子」


 あれは面白かったわね、と、朝伏が言う。彼女はそういう場所に今まで行っていたのだろう。遥か彼方の次元にて、神野やそれ以外の誰かと、そういった、残虐で新鮮な体験をして、戻って来たのだ。


「でも私、貴方がカズトとカズキのお祖父ちゃんだとは知らなかったわ。世間って狭いのね」


 え? と、カズが朝伏に問うが、彼女はカズの方を見もしない。神野が面白がって、応答を続けた。


「あぁ、何なら、淳史や昴もこっちにいるぞ。島谷の目を埋め込まれた肉人形もいるしな。出雲や春馬もいるだろうが、行方はわからん。ただ痕跡だけがある奴らは何人かいるからな、長く生きていればそのうち会うだろう」


 そういえば、と付け足して、神野はまた言った。


「お前、実家に戻る時気をつけろよ。大丈夫だとは思うが、アイツがいるからな」

「アイツ?」

「羚だよ、稲荷山羚。お前が騙して目を取ったんだろうが。アイツ、今はお前の弟の従者やってんだよ」

「あら、騙した? そんなつもりじゃなかったんだけど……代わりにあげた私の目、役に立ってるかしら……」


 首を傾げる朝伏の青い瞳が光った。カズの記憶がフッと蘇る。そうだった、朝伏の瞳は、片方が夕焼けのように赤く、また片方が瑠璃のように透明な青だった。それが、今は両方とも同じ青に輝いている。


「でも良いじゃない。彼だって、減るもんじゃないし。それに、代わりにあげたのは私の目よ? こっちに来てから大いに役に立ってるはずだわ」


 るんるんと機嫌よく彼女はそう言った。神野は呆れてものも言えない様子で、短く溜息を吐く。

 朝伏との会話に飽きたのか、神野は時計を見た。その様子に、朝伏が気付いて、ふと呟く。


「何か用事でもあるの?」


 朝伏の問いに、神野は歯ぎしりで答える。急激な態度の変化。殺気の漏洩。カズは、朝伏の前に立ち、庇うように手を添える。それだけ、神野という男からは、殺意と悪意が漏れ出ていた。


「あぁ、酷く億劫な予定が入ってな。日が完全に落ちる頃には、ここを出なければいけない」


 そんな唸る神野に臆することも無く、朝伏は、カズの手を下げさせて、前に出でた。優し気に、ただ否定も肯定もしない彼女の滑るような口が動いた。


「何処へ行くのかしら。ほら貴方、いつも急に行方をくらますじゃない。ここでまた消えられても困るもの」

「今のところ放浪する予定はないが、そうだな」


 神野が天井を向いて、呟いた。


「黄泉平坂の入り口へ、新しい破滅の子を拝みに行ってくる」


 黄泉平坂と聞いて、カズが反応する。つまりは、大宮邸へと向かうということである。思わず、カズは口を開いた。


「新しい破滅の子ってなんだ」


 カズの問いに、神野はハッと笑った。愉快そうに、いつも通りの楽しそうな口ぶりで、彼は唇を動かす。


「お前の同類同列のことだ。まあ、ソイツの場合は、機能こそ違うようだ。が、俺達と同じバグであることに変わりはない」

「……それは、和姫と何が違うんだ。お前はアイツを選ばなかった。でも今から会いに行く子には、見どころがあるということか」


 言葉に、確かに神野が反応した。カズは僅かに動揺する神野の指先を、唇を見逃さなかった。そのまま神野が言う。


「――――見どころ、というには稚拙過ぎる。俺が気に入っているわけではない。出来ることなら俺はアイツをすぐにでも処分したい気分だ」


 獣のような、野生的な殺意。本能を剝き出しにした王の姿がそこにあった。泥のように殺気を纏った神野に、カズはたじろぐ。足を、一歩引こうとした。だが、そうすればすぐにでも消されるとすら思った。カズは息を吸った。朝伏が、カズの背に体を寄せた。


「ねえ、それなら、何がその子を気に入っているというの?」


 朝伏の声に、フッと我に返った神野は、暫くの沈黙を置いて、身を翻した。


「星の神という破壊と、螺旋階段の向こう側の、破壊」


 それだけでお前はわかるだろう、と、神野は呟いて、そのまま歩き出した。朝伏がその背を追いかける。カズは一人置いて行かれようとしていた。だが、すぐにそれに朝伏が気付く。


「どうしたの、カズ。行きましょう」

「いや、朝伏、お前」

「どうせ行きつく場所は同じよ。それとも豊宮のお屋敷に一緒に帰って欲しい? 良いわよ、私、一緒に夜を過ごしても」

「……そういうのは、色々と段階を踏んでからだろ」


 調子を崩されたカズは、はあっと溜息を吐いた。


「やっぱりジジイと孫ね」


 朝伏がそう笑う。カズは歯を軋ませる。神野と同じ紫色の瞳を収縮させて、沈黙する。そして、朝伏の手を取った。


「あら、家までエスコートしてくださるの?」

「そんなところだ」


 諦めたように、カズは神野の背を朝伏と共に追う。外で、車の運転席で千寿香が待っていた。カズは神野の白衣を引っ張って、車両まで案内した。車両の傍まで来ると、千寿香が三人に気づく。彼女はサッと車両の外に出で、後部座席の扉を開いた。


「人が増えていますね」


 千寿香の言葉に、あぁ、とだけ返事して、カズは朝伏を後部座席に座らせる。そうしているうちに、神野は躊躇いもなく、勝手に助手席を陣取った。カズはそれを見て、すぐに朝伏の隣に腰を下ろした。


「若、一姫様から、黒稲荷神社に合流するように連絡されていますが」

「丁度そっちに行くつもりだった。その通りにしてくれ」

「わかりました」


 千寿香は短く返事を済ませて、アクセルを踏んだ。日は既に落ちていた。同時に、月が昇る。今日は極めて月明かりの強い夜だった。

 黒稲荷神社へ向かう道中、祭り帰りの、浴衣の、四、五歳の少女が母親と共に歩いている姿が見えた。少女は黒く艶のある髪を揺らし、水風船を振り回す。微笑むその眼の中に、赤い南天のような、獣性を秘めた瞳を見る。カズは一瞬のその風景を、目に焼き付けた。


「何だ、やっぱりいるじゃないか、式神」


 カズが誰に言うでもなく、呟く。隣で佇む朝伏は、ただ黙って微笑んでいた。

 祭りの明かりが近づいていく。見覚えのある鴉が同じ方向に向かって飛んでいるのが見えた。中々、騒がしいことになりそうだと、カズは周囲を見渡した。

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