還りて行くもの

 どれくらい時間が過ぎたかわからない。だが、光廣には未だ意識があった。普通の人間ならば、狂っていてもおかしくはないだけの環境である。それでも光廣は実に正常に、人間としてそこにいた。真夜が、玉依姫が黄泉の外に出て行った後も、幾人かが外へと向かって行った。それを眺めながら、引き留めることも無く、光廣は外からやって来る者を待っていた。出て行く者に意味はない。出て行ったところで、意味はない。何もすることは出来ない。生きて歩む者達を害することも、狭間にある者達を呼び止めることも、ここから出て行く者には、不可能だった。

 ふと、刹那の気配が二つ、一人の影に入り込むのが分かった。


「海夜様……」


 辛うじてわかるその気配は、元主人そのものである。しかし、もう一人、何処かで感じたことのある、微かな力の塊を見る。銃夜ととてもよく似ているが、彼ほど強いそれではない。

 否、銃夜が強すぎるのかもしれない。彼は存在そのものが、宮家の常識と照らし合わせて否定されるべきものである。死を超越し、黄泉平坂を落ちることなく、幾多の命が合わさった者。


 ――――銃夜様の「死」は、一体どうなるんだろう……


 この世界では、死は周囲を巻き込んで進むものである。予想が出来ない生命を、見守るしか出来ない光廣は、ただ、もどかしくて仕方がなかった。


 そうして、その銃夜や葛木を含めた数人が黄泉平坂から出て行く。一部には予想していなかった者もいたが、無事、表層を泳ぐだけで済んだようだった。

 導かれるものに引き寄せられる者、何もなくただ日の下へ立ち戻り生きる者。様々なその出口が開かれたのがわかる。

 光廣にとって、その感覚は初めてのものであった。初めてではあったが、驚くことはなかった。幼少期から、何れ向き合うことになると、散々言われてきたことだった。予行練習も無く、ただ、言われ続けていたのだ。黄泉平坂の最深部を開き、そこへ向かう星の子のことを。

 そういう、世代だと、ずっと聞かされ続けた。それを言葉にはしていけないことも、それが、柳沢に連なる者の守るべきことである、ということも。

 柳沢という名こそ持たないが、格由光廣はその列に並ぶ者であった。柳沢は日の神の血を継ぐ者にして、祖の偽りを正す者達。自らでは御することのできない祖を、夜の者共に殺せと願い、仕え、その血を混ぜては繋ぐ。名を持たない光廣はただ仕えるのみであったが、主人を守り血を繋ぎその力を最大限引き出すということについては、大きな役目として背負っていた。

 故に、主人である真夜と海夜が生き残るために行った、儀式の不正にも加担せざるを得なかった。本来であれば、双子の儀式においては、どちらかが必ず生贄として死ぬことになっている。しかし、彼女達は守護者である自分と君影紫音を共に異界に入れ、紫音を殺して生贄とすることで、双子両名の死を免れたのだ。そしてそのある意味で不正にも近いそれは、光廣の使命にとって、都合が良すぎた。あの高い能力と母体としての機能を持つ二人を両方生かせるのであれば、今代で柳沢の願いが達成されなくとも、次に期待が出来る。何より二人は片方は神として、片方は人として、上質であった。二人が揃って成長すれば、黄泉の国で眠る彼の神と共に、今代で日の神を殺すことさえ出来ただろう。だから、光廣は初めて人を殺すその手助けをした。純粋でただ毒花の者として宮家を維持しようとしただけの女性を、見殺しにしたのだ。

 暗闇の中に溶けていく紫音の断末魔を未だに覚えている。心が蝕まれるようなそれは、ただひたすらに鼓膜を揺さぶっていた。菊理媛が細切れにしていく、その女は、最期、永遠とも言える時間の中で、真夜と海夜に恨みを吐きながら死んだ。

 それが正しかったのだと、思う他なかった。毒花は愚かだと、願うしかなかった。


「おい、何を考え込んでいる」


 ふと、幼い少年の声がした。声色に相反して、威圧的で可愛げのない言葉。罵倒にも近いが、それでいて光廣には心地良くも感じた。


「一夜、様」


 黄泉平坂の奥、正装に身を包んだ一夜は、金の龍――から人の姿に変貌したゲンと、少し疲れたような羚を隣に、その場に立っていた。少し、死者の匂いと血の匂いがして、光廣は顔を拭う。少し遅れて、黄泉平坂の奥から、見たことのない和装の青年が歩く。彼は黒髪に赤い瞳で、一夜が大人になって背丈も増えればこうなるだろうな、とも見える風貌である。


「えっと……」

「クロだ。大宮家の神獣。手伝ってもらっていた」


 一夜が光廣の不思議そうな顔に応えると、クロと呼ばれた男は、あの見知った獣の姿へと形を変えた。


「あ、えっと、クロ様でしたか……すみません……初めて見たもので」

「構わん。忘れて良い」


 ぶっきらぼうにクロはそう言うと、一足先に黄泉平坂の出口へと向かう。どうやら彼も、その道を知る者であるようだった。


「もう儀式は終わった。帰るぞ。どうせ入って来た奴らももう帰ってるんだろ。一応菊理媛に尋ねてはみるが」

「一夜様はここのことを全て把握しておいでなのですか?」

「当たり前だ」


 光廣には、どうも一夜が饒舌で機嫌の良いように見えた。実際、興奮して頬を紅潮させている。いつもは何処か人間味の無い彼が、今はただの人間の子供に戻っているように見えた。だが、ちらちらと彼の神性もまた垣間見える。

 ――――同居している。今までバランスの取れていなかったそれらが、上手く混ざりこんでいるように見えた。神性と人間性は融合せずとも、隣り合ってそこにあるようだった。


 黄泉平坂の奥は、ただ暗く、腐臭を纏った何かが充満している。そこで何をやっていたのか、何が起きていたのかは、誰にもわからない。何がどうして、大宮一夜という子供を、こんな奇妙な存在に完成させたのか、わからなかった。


「いつまでここにいる気だ。門が閉まるぞ。自分の主人を忘れたのか」


 ふと遠くから、ゲンの声がした。光廣は、既に桃木まで歩いている彼等を追って、焦りを含んで、走った。




 涼やかな風が、神社の本殿を吹き抜けていった。死の匂いは既に和らぎ、そして風に乗って消える。一夜の鼻には、懐かしい華の香りが残り続けていた。スンと鼻を鳴らして、一夜は死と生の余韻に浸る。

 しかし、そうしているうちに、周囲は次第に喧騒を招いていた。無駄に騒がしい屋敷の中に居座る黒服の団体に、一夜は眉を顰める。


「何故陰陽師が宮家の屋敷でガヤガヤやっているんだ」


 不機嫌そうに、一夜は牙を見せる。近くにいた光廣が、宥めるように言った。


「今回は想定外が幾つもあったみたいですから、その、ご容赦を」


 その言葉に、一夜は更に怪訝そうに、頬をぴくりと動かす。


「何でお前がそういうことを言うんだ」

「いえ、あの、僕は管理課の動向について、調べたりもするので」

「……そうか」


 納得はいかなかった。それでも、何となく黙っていないといけない気がしたのだ。口を噤んだ一夜は、周囲を見渡す。真夜も、銃夜も、異夜も、真樹もいない。日は暮れている。皆、外にいるはずだった。何なら、カズもその目的を果たしている頃のはずである。

 真樹に至っては、今日の祭りを楽しみにしていた。もうすぐ夜店も本格化する頃である。迷子になる前に、共に付き添ってやらねばと思っていた。金魚を入れる水槽も、押し入れの奥から引っ張り出して、既に用意している。


「佐々木」


 思わず、台所で忙しくしているテトリンに、声をかける。彼ははいはいと言って、手ぬぐいで手を拭きながら、一夜と目線を合わせた。


「真樹は何処か知らないか」

「真樹君? そういえば、見ないわね」

「いつから見てないんだ」

「そうね、貴方が儀式をしに行ってからかしら」


 じわりと、嫌な予感がした。黄泉平坂で真樹の気配はしなかった。それが、今となって凶兆を示唆する。


「ゲン、羚、真樹を探すぞ」


 一夜は軽くなった衣装の袖を翻し、廊下へと出る。多くの見知らぬ大人達がいる中で、少年三人が動き出す。それを見た一人の男が、掠れた喉で言った。


「探すなら、内庭に行ってみると良い。それと、スイカが一つ入るくらいの箱を用意しておけよ」


 男は錆びれた金の髪を煙草の煙で揺らす。体調が悪いのか、顔に血色は無かった。


「何だお前は」


 一夜が問うと、男は壁に背をもたれさせながら、据えた目で笑う。


「三善鈴。能力者管理課交渉部所属。陰陽長としてアマテラスの名を預かっている」

「……何故俺に指図する」

「指図しているつもりは無い。助言だと思って適当に拾い上げてくれればいい」

「そうじゃない。お前は真樹がいるところを知っているのか、そしてそれを俺に何故伝えるのか、聞いている」


 鈴は一夜の問いに、煙を吐く。隈で縁取られた目で、一夜達を睨むと、無表情のまま言った。


「母の旧姓は君影。母方の祖父は大宮支族。そして俺は、自分の座名が嫌いだ。ただそれだけだよ」


 君影は千里眼の証。その眼を持ちながら、血の道を大宮に属し、アマテラスの名を嫌う意味は、。一夜は鈴を見下ろしながら、フンと鼻を鳴らした。


「参考にさせてもらう」


 そう言って、一夜はゲンと羚を携えて、屋敷の内庭に急ぐ。廊下を歩いていると、全て開けられていたはずの襖が、幾つか閉まっていた。嫌悪感にも似たざわつきが、次第に形を成していく。日が沈んで暫く、三人の足音と共に、月が昇って行く。月読の特徴的な微笑みが思い出された。

 暫く歩いて辿り着いたのは、屋敷に唯一ある小さな内庭だった。襖に囲まれたそこは、月の光をも拒み、影の暗さを集めている。黄泉平坂とはまた別の黒さが、そこで蠢いているように見えた。

 ふと、その中央に、見知った顔の男を見る。それは樒佑都だった。カズをその傍に寄せていない彼は、教師としての微笑みも、従者としてのあの悪戯が好きそうな顔もしていない。ただ黙って、そこにいた。一点を見て、両手に桶を抱える。


「お前、何をやってる。主人はどうした」


 一夜が声をかけると、樒は少し驚いたような表情を見せた。だが、すぐに教師としての表情へと変化する。


「一夜君でしたか。若は今、貴方のお姉さんを病院に連れて行っていますよ。一緒に千寿香がいるので、心配は要らないでしょう」


 姉、と聞いて一夜は一瞬硬直するが、すぐに首を振った。


「俺は、お前がここで何をしているのか、を聞いている」

「……貴方には関係ありませんよ」

「ここは俺の屋敷だ。祭りの最中に俺の屋敷で勝手をされると困る」


 樒は、その言葉を聞いて、訝し気に眉を顰める。反射的に、彼は呟いた。


「いつ貴方のモノになったんですか、ここは」


 そう呟いた瞬間に、ゲンと羚が樒にナイフを突き立てた。それは主人である一夜の殺意を感じ取っての動きである。樒はびくりと筋肉を震わせると、すみません、と呟く。


「二人とも刃を下ろせ。俺が軽率だった」


 一夜の指示で、二人はスッと身を引いて、一夜の後ろに戻る。唾を飲んだ樒は、再びしっかりと一夜を見つめた。


「先程の問いに答えるとするなら、人を待っているんですよ」

「誰を待っている」

「それは、多分、貴方と同じじゃないですかね」


 そう言って、樒は桶の蓋を開けた。三人は予想しなかった動きに、フッと身構える。

 ――――その次の瞬間、カタン、と、樒が見つめていた襖が、僅かに開く。

 そのまま、弱々しい力で、襖は全開になっていく。ズ、ズズズ、と、鉄錆の匂いを運びながら、その空間は現世と完全に繋がった。


「おかえりなさい。よく頑張りましたね」


 樒が優し気にそう呟く。その目線の先にいたのは、襖から赤い布に包まれて這い出る、真樹だった。真樹は顔面蒼白で、何かボールのようなものを抱えて、内庭に落ちる。それに驚きつつも、ゲンが駆け寄って、真樹の体を起こす。それに対して言葉の一つも吐かない真樹は、布に含まれていた血にまみれて、上質な白シャツも赤く染まっていた。


「これは何だ。お前は何処に行ってたんだ、真樹」


 一夜がそう言うと、真樹は抱えたものを地面に落とす。突如として、制御出来ない感情を、波だという形で溢れ出させた。そして叫び、傷だらけの手で、樒に縋りつく。


「ごめんなさい! ごめんなさい! 僕のせいだ! 全部僕のせいだったんだ!」


 悲鳴にも怒りにも、負の感情としてなら何とでも言えるその表情は、整った真樹の顔をぐちゃぐちゃにしていた。一夜の足元に、真樹が持っていた何かが転がる。


「僕の為に、先生の、主人を、死なせて、ごめんなさい。先生の好きだった人を殺して、ごめんなさい……生まれて来て、ごめんなさい、兄さん……」


 ずるりと、真樹が樒の腕の中で眠る。気絶にも近いそれは、まるでこと切れたようだったが、動く背が息をしていることを指し示していた。

 一夜は足元に転がった、幼い樒の頭を見て、歯を軋ませた。樒は真樹をゲンに預けると、その頭を持ち上げる。


「それは何だ」


 一夜が問う。迷いなく、樒はハッキリと言った。


「式神である俺を、作った人です。本当の、咲宮真樹の兄で、彼を生むために死んだ、咲宮佑都の、頸ですよ」


 彼は自分と同じ顔の頭を、冷静に桶の中に入れ、蓋を閉めた。そうして、樒は眠る真樹の頭を撫でた。

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