黄泉下落

 深く数百年越しの眠りから覚める様な感覚を、葛木は既に知っていた。それは赤子として自らが女の胎から這い出た時の苦しみによく似ている。

 ゆっくりと、久しく朝日を見るように、葛木は瞼を開けた。そこにあったのは、暗い黄泉の風景だけだった。光の一つも無い、暖かくて暗い場所。背を預けていた桃の木を見上げる。


「夜の民」


 葛木が呟くと、桃の木は黙ってその顔を見ていた。


「それが俺達、咲宮家の系譜か。成程、大宮家と相性が良いはずだよ。俺達は彼等の為にある」


 神聖なる桃の木の、その表情がほころんだ。気味の悪い笑いではない。ただ、純粋無垢な唇だった。


「だからこそ、ソレは終わらせないといけない。俺が大宮家……の、剣であるために」


 葛木は苦々しい表情で語る。彼の桃の木のその脈絡、動脈の一本から見たその血の物語を。物語から見た、自らの命運を。

 故に、珍しくも、彼は今ハッキリと意思を持って口を動かしていた。そして何時からか雁字搦めになった、死した少女との縁の強固さを、黄泉の奥底に眺める。葛木の理性は、その縁を拒絶していた。だが、意思は本能的にも、それらを受け止め、一種、喜んですらいる。

 未だ、切れない死者との縁を、あるべきではないその存在を、深く別次元に見出していた。葛木は一点、何もない場所に目線を置いた。


「俺は、大宮真夜の守護者です。もう、貴女の守護者じゃない。貴女は既に、大宮真夜じゃないんですよ。貴女は違う。貴女は、自由になった。アンタは、俺を未練にしちゃいけない」


 絶対に、名を呼んではいけない。そんな気がした。それが彼女を自分に紐付けないために必要なことだと、直感で分かった。

 彼女は自由になった。父も姉も全てを置いて、何処かに向かって行ったのだ。その自由を踏みにじってはいけなかった。彼女が自由になるために、発した言葉の一音一音を、無駄にするべきではない。

 どんなに拒絶を評しても、それは近づいて、己の頬を撫でているのがわかった。目の前にはいない。だが重なった何処かに、彼女はいた。その少女が、同じ時間軸で動いている保証はない。それは、葛木の言葉と理性が伝わっている可能性を、少なからずそぎ落としていた。

 見えずとも、彼女が何をしたいかは、わかりきっていた。それでも、葛木は溜息を吐いて、苦虫を潰した様な顔で、立ち上がる。


「俺は、アンタを許さない。アンタが勝手に俺の空虚に埋まろうとするのを、絶対に許さない。俺はアンタが嫌いだ」


 だから、と、葛木はその鋭い歯をいもしない少女に向けた。


「俺達の事なんて忘れて、何処かへ逝ってしまえばいいんです。自由になって良いんです」


 吸うに値しない息を吸う。一人間として生きられない自らの、影を踏んだ。


「だから、俺に――俺に、鎖を打ち付けるな――――海夜」


 呼んだ名を、忘れられざるその名を、葛木は噛んだ。桃の木を背に、彼は黄泉平坂を現世へ向かって歩く。

 増えた影の重みを忘れたいがために、彼は歩いて歩いて――――ぴたりと、人影を遠くに見て、足を止めた。




 穴だらけの少年少女の影遊びが終わる頃、魔王と魔女の子は不覚にも、本来入ることが出来ないはずの、黄泉の入り口にいた。皮膚の皺の一つ一つから、その空間から自分達に対する拒絶反応がわかった。

 淳史が頭痛でもするのか、ずっと、歯を食いしばりながら頭を抱えている。


「あぁ、クソ……二日酔いでもこうはならねえぞ」


 魔王やそれに連なる者は、どうも宮家に関連する異界や、八百万の神々が作り出すものとの相性が悪いらしい。カズも純血ではないとはいえ、魔女としての血が濃い故に、似たような症状が出ている。

 黄泉平坂。濃度の高い異質なその場所は、腐敗臭と鉄錆、土の匂いで固められた沼のような穴だった。ただ広がっている暗闇と、襲う不快感に、二人は顔を見合わせる。


「なあ、どうやって出るんだ、ここ」


 淳史が問うと、カズは眉を顰めた。少し考えるふりをして、両手を上げる。


「知らねえよ。俺、黄泉平坂は初めてだからな。何処かで他の誰かと合流できれば良いんだが」


 そうも言ってもなあ、と、カズは頭を抱えた。腐臭は滑らかに周囲に均等にある。薄い方へ行く、というのもまた難しかった。腐臭の正体は呪いなどの類ではない。これは恩讐、憎悪、慈悲、喪失感などの混合した、何処から巨大な心から駄々洩れた何か。感情の領分は宮家にある。物質的な性質を強く持つ魔女にはあまりに重く、穢れすぎていた。

 ふと、そんな身動きの取れない世界で、軽やかに歩く、一人の少年を見る。それはカズにとっては見覚えのある少年だった。


「葛木……だっけ」


 大宮真夜の守護者にして、一夜曰く、大宮海夜を葬った者。彼は、こちらをしっかりと認識して、いつも通りの表情で迫っていた。


「そんなところで何してんですか。アンタが来るところじゃないでしょ」


 淡々と、何処か人間味を失っているような、無機質な言葉で、葛木はカズを刺した。隣にいる淳史のことをちらりと見ると、彼は溜息を吐く。


「お騒がせ魔王様もいる辺り、鼻が利かなくて迷ったんですかね」


 葛木の言葉に、その通り、と淳史が笑う。どうやら淳史と葛木もまた、何処かで知っている顔らしい。カズは掴んだ幸運を、舌なめずりで飲みこんだ。


「丁度良かった。お前、外に出るんだろ。ついでに案内してくれないか」

「それは良いですけど、間に合うんですか、アンタ」

「なあに、大丈夫さ。まだ三時のおやつくらいの時間だろ」


 カズがそう言った瞬間に、葛木は眉を顰める。どうにも咀嚼できない何かがあるらしい。彼は言いにくいように、口ごもって、また開口した。


「いえ、既に十時間は経ってません? 俺、ずっと黄泉平坂の奥で人を待ってたんですけど」


 暗い丸眼鏡の奥底と、紫色の瞳が合わさる。不自然な時間の進みに、二人はお互いを見つめ合った。


「つまり、どうやって出たって、外が何時間経ってるかわからねえってことだろ。これは困ったな」


 無言の園に、淳史が切り込む。その通りであった。ケラケラと笑っているこの男の、妙に核心突く言葉が、頭を痛くする。正しい事を言っているのだが、どうにもそれに従いたいと思えない。もしかしたら、淳史という男は、そういった何か呪いのようなものでも受けているのかもしれないとすら思えた。


「出て来たのが一年後でしたとかだったらちょっと嫌だな」


 淳史の戯言は、彼の一年の価値が圧倒的に軽い事を意味している。カズにはまだ、その軽さがわからない。眉間に皺を寄せながら、次を考え続けた。ふと、その様子を俯瞰して、自分が一夜に似てきているように思えて、カズは僅かに笑った。


「……一年後、何ていうことにはならないと思いますよ。少なくとも、豊宮の若君がいらっしゃるなら」


 葛木が淳史の言葉を遮るように、唐突にそう呟く。


「黄泉平坂から出るときは、強い縁のある場所に導かれるらしいんで」

「それは誰から聞いた?」


 カズは葛木をジッと見つめる。だが、すぐにその目線を翻して、葛木は言った。


「高貴な方が、大昔に言ってたんですよ。まあ数十万年以上前の話ですけど」


 葛木の纏う、妙な違和感。その一歩の重みが、言葉が、たまに見かけていたあの守護者としての姿とは全くの別者になっている。神の加護でもつけたかと、影を覗いてみるが、ただ暗く式神の一つすら見いだせない彼の足元は、深淵を覗くような感覚を誘発させた。確かに彼は変異している。餓えぬ程度の飯を食わされて、ただ繋がれていただけの獣が、後ろに主人を引き連れながら、食わず寝ずの餓えた獣に見えた。


「どうかしましたか?」

「いや、何でもない」


 カズは葛木の言葉を避ける。触れない方が良い、深いプライベートなことを見ているような気がして、影を見つめるのも止めた。


「じゃあ、俺達に縁がある場所へ、還ろうぜ。丁度鼻の効く奴が来たんだ。案内を頼む」


 淳史がそう笑った。カズは葛木と顔を見合わせて、仕方がないというように、肩をすくめる。カズが頼めるか、と言うと、はい、とだけ葛木は呟いて、真っすぐに歩き出す。


「ご主人達も外に出ているので、少し急ぎましょう」


 淡々と、淡泊な時間が、暗闇の中に続く。いつもなら堪えきれないだろう淳史も、やはり気分が悪いのか、ずっと黙りこくっていた。カズは違和感と砂を踏むような足元に、意識を集中させる。

 時刻はとうに近くなっている。もしも自分に縁のある空間に還るというのなら、それは、その時、正に、カズが自身でやらねばならないことを成すための、唯一の好機ということだった。息と覚悟を飲みこんで、カズは次第に見える赤い光と、葛木の背を追った。

 暫くして、フッと葛木の影が消える。振り向けば、淳史すらいない。扉が繋がったのだと、瞬時に本能が理解した。


 その西に見える光は、かつてカズが失った時間そのものであった。三年前、カズはここで一人、少女の手を放した。

 それは白く、清く、儚くも何処か畏怖を持つ少女。弟の一夜のように、真っ直ぐな白い菊のような人。大宮朝伏トモフセは、そんな女性だった。当時十三歳の誕生日だった彼女は、ここでカズの目の前から姿を消し、ついに見つからなかった。最後を共にしていたカズだけには、彼女が何処へ向かったのか理解が出来ていた。それが、何処か遠くの世界、魔王達の根源、不老不死蔓延る戦火の地。そこに彼女は「不老不死」を探しに出たのだと、カズには何となくわかっていた。

 魔王達の証言と、魔女達の伝承を紡ぎ合わせ、座標を割り出す。そして、その座標と自分達の住むこの世界を繋ぐ扉を作った。黒稲荷神社の鎮魂祭は、神降ろしの儀式である。だが宮家にそんな神降ろしなどという概念は実際には存在していない。何故なら神は、多くが宮家の胎を介して受肉するからである。しかし彼等は、未だ完璧な神として受肉は出来ていない。肉を使った神の顕現でさえも難しいのである。では、直接的な降臨など無理に等しい。既に人の生きる肉の世界と、神の域は別たれているのだから。であれば、大宮家の神降ろしの儀式は、神など関係のない、もっと別の儀式である。誰かが道を作って利用しようとした、そんな痕跡の一つ。異世界の者を呼び出す、門の創造。それを利用してやって来たのが、魔王達だとするならば、符合する点は幾つかあった。そして朝伏があちら側へ行ったのが、この日であることも理解が出来た。

 故に、カズは、この日すべきことを全て理解していた。


 息を吸う。神社の外れ、二人だけで何度も来た場所で、カズは夏空の沈む夕日に向かって手を伸ばした。


「もう帰ろう、トモ。みんな、待ってる」


 繋げなかった手を、そっと差し出す。触れたのは、冷たく、火薬と血の匂いを纏わせた白い指。


「うん、そうね、カズト。お腹が空いて仕方が無いの。テトリンのおにぎりが食べたい気分だわ」


 傷一つない彼女の顔に、夥しい返り血が塗りたくられていた。藤の色の瞳が、夕焼けを入り混ぜて輝く。白い絹のような髪に、かつて贈った黒の帯が結ばれたままだった。成長した少女の体に見合う、黒いドレスが、よく似合っている。

 懐かしいような、新鮮なような、何処か空白な心を抑えて、カズは朝伏の顔に触れた。


「――――血を拭こう。それともそれは化粧か?」

「貴方が手を出す直前で、ちょっとね」


 そう言う彼女の手には、血染めのナイフが握られていた。これで誰かの首でも掻き切ったのだろう。彼女はそういうことを平気でする。


「ちょっとね、ムカつく子だったから、殺してしまったわ。でも大丈夫。すぐに生き返るの。とても便利ね、王って」

「王?」

「こっちに来てからは魔王と呼んでいるアレよ。刺しても捩じっても引きずっても落としても千切っても――――死なないのよ、凄かったわ」


 ドレスの裾で顔を拭う。朝伏は冷たくそう言ってナイフを睨んだ。すると、それをカズの手に突き刺す。


「貴方もきっとそうなるのね。私はそうはならないのに」


 唖然としているカズの手から、ナイフを抜き取る。すると、朝伏は眉間に皺を寄せた。カズの手は、傷跡一つないまま、元に戻っていた。


「もうなってるんだ。つい、この前のことだけど、祖父さん……アキラっていう魔王に、不死の証明をされた」


 朝伏は少し驚いた様子で、アキラという言葉を聞いた。ジッとカズと目を合わせると、何処か納得したように微笑む。


「そう、アイツか。アイツだったのね。あぁ、そんなことなら、もっとちゃんと対応しておけば良かった。確かに目が似てるわ、貴方達」

「そんなに似てるか?」

「似てるわ。顔は義父様一姫さんに似てるけど、目はそっくりよ。性格は貴方の方が何倍もマシだけどね」

「マシ? 良いの間違えじゃないのか」

「貴方、自分の性格が良いと思ってる? 好きな女の子の手を放すような人の性格が、良いわけないじゃない」


 バツの悪そうに眼を伏せるカズに、朝伏は微笑む。エスコートしてみせろとでも言うように、彼女はそっと手を差し出した。カズはその手をもう一度そっと取ると、跪いて見せる。ぎこちないが、何処か西洋の騎士のように振る舞うカズに、朝伏はまたにっこりと口角を上げる。その瞬間、重なった手にナイフを突き刺した。


「帰ったら病院に行って治さないとな」


 刃に繋がれたままの手を、カズは握り返す。その返答を、もっと言うことあるでしょ、と、朝伏が笑った。二人は神域の森を歩く。祭囃子が近くなる頃には、日も落ち、刃物も何処かで失っていた。それでも掌に穴が開いたまま、二人は手を繋いでいた。

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