何れ死に行くは

 また外では、光が陰っていく。夕日が全ての人々の影を長くしていた。少しずつ、少しずつ、人間の世界が遠ざかっていく。提灯に光が灯り始めた。


「アマテラス、ご機嫌は如何かしら?」


 黒稲荷神社の一角には、物々しくも数名の黒服を着た者達が寄り集まっていた。更には、ぐったりと呪符に巻かれる者や、深く眠る者もいる。テトリンはそんな彼等のうち、先程まで眠っていた三善鈴と対話を試みていた。


「機嫌もクソもねえよ」


  彼はハッキリとそう言って、額に置かれていた濡れ布巾を宙に放った。


「何も、何も阻止が出来ていない。見えてたものの殆どが確定的な未来だ。それでもそれが最善なのもわかる。でも、それは、うちにとっての最悪だ」


 髪をかき乱し、鈴は呟く。周囲に溢れる部下や同僚たちの顔見ながら、一人、宮家の城で言葉を繋ぐ。


「この国で一番と言われる邪神を目覚めさせて、大宮家の黄泉帰りを、何も知らない愚かな人間が一人死ぬのを、一つも阻止出来ないのは、国に所属する能力者として些か愚鈍が過ぎる。今は人の時代だ。出来るだけ神を起こしてはならない。宮家と言えど、自ら進んで死んで、糧となった者を呼び戻してはならない」


 知った口を、と、テトリンが言う。だが、鈴の口を終わらなかった。


「知っている。知っているともさ。俺の目は根源も見るからな。だからわかる。お前の大切な子供達がやっていることは、最終的に俺達では成し得ない、犠牲を出しながら多くのものを救う行為だ。だから止めるべきじゃないのもわかってる。それは毒花の一人として理解してる」


 でも、と続けた。


「それでも陰陽師の名において、止めなくちゃいけないことはあるんだよ、オッサン」


 力んで、鈴は立ち上がる。テトリンの胸倉を掴むと、強く息を吐いた。彼は戦闘が出来る人間ではない。故に、ここから何か出来るかと言われれば、何も出来ない。それでも、彼は目を合わせ、精一杯の威圧を込めていた。

 ずっと話を黙って聞いていたテトリンは、唐突ににっこりと笑う。


「それは結構! 良い陰陽師ね! アンタ! 顔は怖いのにひょろいし頼りなさげだけど、芯は通ってる。うん、良いと思う」


 彼ないし彼女はそう言って、丁寧に鈴を自分から引き剥がした。しっかりと目を見て、二人は対峙していた。


「私は貴方達陰陽師の味方にはなれない。今は宮家の子供達の面倒を見る約束があるからね。そもそも宮家と陰陽師は敵ではないわ。本質的には同じはず。その過程が違うだけでね」


 テトリンは片目をキラリと光らせる。するとすぐに鈴の両肩を叩き、くるりと回して背を押した。


「さあ! 早く部下の指揮しなさい! アマテラス! 未だにかの女神の名を預かるんだったら、相応の覚悟も実力もあるでしょう。今貴方に出来ることをしなさい。例えばそう、今から戻って来そうな負傷者を予知して準備しておくとか、ね」


 黒服の陰陽師たちは宮家の巣の中で、一人の男を見上げる。いつもは頼りがいの無い、それでも長と仰ぐ者。責務を負う者。誰よりも知り過ぎている男。指示を待つ部下の前に立つ鈴は、大きく息を吸った。


「これから宮家の幾人かが戻ってくる。状況が特殊だ。ついでにウガヤも戻るが、対応は宮家と同じだ。外傷はないだろうが疲弊しきっている。全員に無理やりにでも呪符巻いて寝かせる。場所の確保は————」


 淡々と、彼はそう言って全員に細かく言葉を繋ぐ。陰陽師たちは、それに対して少しだけ嬉しそうにしながら、行動を起こしていく。


 その空間の端、一人の少年が蹲っていた。誰にも気にもとめられず、ただ一人、畳の端を踏んでいた。動き出した大人達を見上げて、彼は廊下へと移動する十分な手入れもしれていないのに艶やかな金髪が揺れる。海と空の間にある青い瞳は、誰もいない何処かを目指していた。

 屋敷は広く、誰もいない場所は沢山あった。不思議と何処も襖が開けられていて、中の様子がわかる。ひっそりと大人しく隠れるだけの場所、ゆっくりと一時的にでも心を休められる場所。その中から特に生活感の無い場所を選んで、少年は入り込んだ。外の音が入らないように、そこだけ戸を閉める。紙の貼り合わせでしかないはずの襖は、妙な静けさを作り出す。

 薄暗さに目が慣れると、四方を囲む襖の絵が目に焼き付く。全て鮮やかな赤い彼岸花と、月、蝶が描かれている。それらは一種、物語を魅せるようでもある。少年がそれを撫でる。


 ――――ガタンと、何処かで重い物が落ちる音がした。急いでそちらを振り向くと、襖が、隙間を作っている。暗闇。既にどの襖が廊下へ出るためのものか忘れていた少年は、驚いて、目の前にあった襖を開いて、他の部屋へと飛び込んでいく。だが、そこは何も変化のない、先程いた部屋と全く同じものであった。


「ど、どうなって……外、どこ?」


 少しずつずりずりと何かが這いずる音が聞こえる。少年は次々と扉を開けた。それでも、出口は見つからない。光は何処にも見えず、元々体力が無かった少年は、ついぞ、畳の上に倒れ込んだ。

 背後の襖が開く。急いでそちらの方向に体を向けた。いつでも逃げる準備はしていたが、もう動けそうにもない。ぐっと歯を噛みしめて、少年は這い出る何かの気配に耐えようとする。


「……スティーブン?」


 聞き覚えのある声だった。自分をいつも蔑み、蹴り上げ、いたぶる一人の男と、その声は同じ声である。


「お、お父様……」


 少年スティーブンは、父親たる豊宮伊鶴を見上げた。彼の周囲には鉄錆の、強烈な血液の匂いがこびりついている。ごくりとスティーブンが唾を飲みこむと、伊鶴は駆け寄った。


「丁度良かった! こ、この子です! 私が今日ご用意していた贄は!」


 伊鶴は痛みすら感じられるほど強く、スティーブンの腕を掴む。スティーブンはその手で伊鶴の足元に投げ出される。痛みに耐えながら、伊鶴が見上げている先に目を向ける。

 そこにあるのは、虚空。それより先の、虚無。全てが破壊し終わった後のような、そんな無常な何かの塊。

 それが神という存在の一つだということくらいは、スティーブンの中にある宮家の血が訴えていた。だが、どれに照らし合わせても、それがどんな神であるかを理解するには間に合わなかった。ただそれは、破壊の神であり、焦燥と孤独を募らせている。その感情だけが、スティーブンの中に滲んで入って来ていた。

 静かに、スティーブンは涙を流す。それはこの神への恐怖ではない。親に見放されたという悲しみでもない。


「あの無名の魔王の孫です! 豊宮本家の若当主と同じ! 上質な魂と肉体を持っています! 見てください! こんなにも美しい顔をしていて……」


 父親であるはずの伊鶴はずっとスティーブンが如何にかの神の贄にふさわしいかを説いている。だがスティーブンにはわかっていた。この神がこの愚かで宮家とすら呼べそうにない男の言葉なんぞ、聞いていないことを。

 顔を合わせた瞬間から、二人はずっと目を合わせていた。感情を隣り合わせていた。少しずつ、少しずつ、じっくりとこの神の感情が流れ込んで来る。


————寂しい、悲しい、寒い、暗い、怖い。一人は、寂しい。


 ただその一点だけが、二人の琴線を触れ合わせている。未だにスティーブンはこの神の正体を理解していない。それでも、この神が求めているものは理解出来た。


————多分、僕を求めている。僕を友達にしようとしてる。


 スティーブンはそう解する。この神の隣に赴くことを贄となるというのなら、それも良いとすら思えるほど、すとんとその答えが落ちて来た。

 ふと、彼の頭の中に、一瞬だけ何かが映った。それは金糸の束が揺れる情景。一人の金髪碧眼の少女が、振り向く映像。誰も掴めないような空を写した瞳は、こちらを見て微笑んだ。それと共に、再び感情の海がどっと押し寄せる。莫大な寒さと吐き気にも似た、重たい泥のような寂しさと虚しさが体を満たす。この神が、その少女を求めていることを理解出来た。スティーブンは、ゆっくりと上半身を起こし、手を神に翳す。


「……ぼ、僕で良ければ……僕と、と、友達になりませんか……?」


 自然とそんな声が出ていた。覚束ない唇は、父への恐怖心である。この暗い神に対して、恐怖という感情は抱けなかった。

 差し出した手を取るように、影が僅かに動く。伊鶴がゆっくりと隣の襖を開けている。逃げ出そうとしているのだと、すぐにわかった。それでもスティーブンは、神から目をそらさない。ゆっくりと、神は、彼は、スティーブンの肩に手を置いた。


『友よ』


 芯のある青年の声だった。畏怖感こそあれど、優しい声だった。


『友よ、聞こう。この男はお前の何だ』

「ち、父です」

『そうか、父か。父ならば仕方がない』


 彼はしっかりとした筋のある手で、伊鶴の顔を撫でる。伊鶴は途端に開いた襖の中に飛び込もうとした。しかし、すぐにその表情が青ざめていく。


『親ならば、子の糧となるのは仕方がない』


 開いた襖の中から出たのは、一匹の金色の龍。それは伊鶴が叫び声をあげるよりも前に、その頭を噛み砕いていた。そのまま金龍は伊鶴を小分けに食い千切っていく。


『さあ、後ろを向け』


 龍を撫でながら、彼はまた言った。スティーブンはそれに黙って従う。背面にあった襖は満月を称えた金屏風に代わっている。赤く染まった手で、スティーブンの肩を押し、その屏風の前に立たせる。神が屏風を撫でると、そこが赤く染まった。それが血であることに気づくのは簡単だった。


『友よ、今は一度、お別れをしよう。大丈夫。また外で会おう。友として、お前にこんな姿をずっと晒すわけにいかないんだ。それに、もうすぐ祭りの時間は終わる』


 さあ、と、彼はスティーブンを押す。襖はバンという大きな音を立ててその道を示した。幾つもの先にある襖が開いていく。


『いつか、お前の最愛の人を、俺が作ってあげる。それまで、少しだけ待っててくれ。最果てにある幸せを待っていてくれ』


————振り返るな、胸を張っているお前がきっと一番美しい。

 ひりひりと痛みのようにも感じられる一種の殺気が、振り返ることを許さない。背後にある存在が、少しずつ薄れていく。それが正解だと、本能が言っていた。ほんのりと光が見えた。本物の、満月だった。


「やあ、良かった、ここにいたんだね。探したんだよ。どこに行っていたんだい」


 聞き覚えの無い声が聞こえた。伊鶴とはまた別の、優し気な低音。それは足を引きずりながら、こちらに微笑みかけている。高い背が威圧感にもなっているが、敵意を察知することはなかった。


「私は一姫。豊宮一姫。息子の和一から話は聞いている。さあ、少しだけお話をしないとね。君は君で解決しないといけないことがあるんだ」


 一姫を支えるように一人の女が彼の腕を取っている。金髪紫眼、少しだけスティーブンと似た印象を持った、怪し気な雰囲気の女だった。彼女はスティーブンを見てにっこりと微笑むと、その血塗れになっていた顔をシルクで拭く。


「あら、本当にあのクソアマそっくり」

「ヴィヴィアン、そういうふうに言うもんじゃないよ。彼は産み落とされた側なのだから」

「わかってるわよ。別に脅しでも何でもないの。怖かった? ごめんなさいね。貴方の母親とは昔から色々縁があるの。貴方が悪いわけではないのよ。ただ、思い出させるような顔をしてしまっているから」


 ヴィヴィアンと呼ばれたその女から沸き出しているのは、一種の憎悪である。端正な顔立ちの中にそれが滲み出る程に、その感情は強く巨大であった。スティーブンの耳元で彼女はシルクの布切れを握りしめる。血液の匂いがどんどん古くなっていく。それがもわりと鼻についた。


「大丈夫、似てるわけじゃないのよ。ただ私は貴方の母親をぶん殴って四肢をもぎ取ってやりたいだけ。子供に罪が無いのはわかっているわ、ええ、わかってるわよ」


 多少、息が荒く感じた。彼女は少々冷静さを欠いている。それを察知したのか、一姫はヴィヴィアンの腕を引いた。


「ヴィヴィアン、ここは良いから、佐々木君の所に行って、管理課の魔女の子達を診てやってくれ。魔女の血族に陰陽師や宮家の力は相性が悪いからね」


 一姫がそう言うと、ヴィヴィアンはフッと息を吸い直す。


「わかったわ。頑張ってね、貴方。お父様はかなり怒ってるみたいだから。分別は出来る方だし、貴方の首を捥ぐようなことはしないと思うけど」

「ここは他人の家だし、八つ裂きにされないようにはするよ。じゃあ、後でね」

「えぇ、ディアにパンを焼かせているし、そっちも早く終わらせてね!」


 支えの手を引いて、ヴィヴィアンは長い外廊下をパタパタと走って行った。一姫は少しだけ困ったような顔でそちらに手を振ると、すぐにスティーブンへ目を戻した。


「時間が無いから湯浴みはさせられないが、その姿もまた、証明にはなるだろう。着いておいで」


 一姫はスティーブンに手を差し伸べる。その言葉一つの意味もわからずに、スティーブンはその手を取った。ゆったりと、月光が二人を照らしていた。歩みを向ける先から感じられる殺気が、恐ろしくて仕方がなかった。




 一方で、また一人、少女は歩いていた。自由になったその時間を満喫して、幾つもの世界を見て回って、影から一人の少年を覗きながら、彼女は黄泉の国を歩き回っていた。その奥底では、かの神に許されなかった、自らの父が出し続ける断末魔が聞こえている。歩く道々には、自分と同じような子供達がいた。否、子供とは言えぬ成人したての青年もいる。皆、瞳は赤く、髪は艶やかな黒だった。かの神と同じ姿である。数人、見覚えのある者達もいる。


「ねえ、アンタ」


 その一人に、声を上げた。そろそろ独りにも耐えられなくなっている頃だった。その一人は、少年で、生前時々顔を合わせていたあの奇妙な少年とそっくりの顔をしている。ただ、彼よりも幾分か幼さが見えた。


「何だよ」

「今日はここから少しの間だけ外に出れる日でしょう。一緒に出てみない? 折角のお祭りの日だし」


 少女がそう問うと、少年はキッと彼女を睨む。


「……会いたくない奴が外にいるんだ。俺の首を跳ねてのうのうと生きている、双子の片割れがいるんだ」


 少年はそう言って、手に持っていた黒い狐面を顔に着け、その場に座り込んだ。少女がそう、と零して隣に座ると、少年は続ける。


「お前だってそういうのだろ。お前だって双子だったはずだ。劣っていたから守護者にも捨てられたんだろ」


 ぽつりぽつりと零れていく少年の声が、少女の耳に入っていく。彼女は少年の背を撫でると、ふと言った。


「私はね、逃げて来たのよ。宮家から逃げたの。守護者に背を押してもらって、ここまで逃げたのよ。自由になりたくてここに来たの。誰も私を捨てようとはしなかったわ。でも、弱かったから、自分からそうするしかなかった」


 少女の言葉を飲んだ少年は、ハッと顔を上げる。少女はにこやかに、少し気の強そうな目じりをほんの僅かに下げた。それは双子の姉の真似だった。


「でもね、どんなに自由が楽しくても、やっぱり、会いたい人がいるの。本当は一緒に居たかった人がいるの」


 少年は少女の表情が少しの嘘を含んでいることに気づく。

 本当に自由が楽しかったのか? 

 それはただ自分に言い聞かせて来ただけなのではないか? 

 彼は少女の言葉を反芻した。少年の中にある自己矛盾と、少女の矛盾を重ね合わせる。


「でも押し出してくれた手前、顔を合わせるのが少しだけ怖いのよ」


 私は弱いから、と、少女は置いた。少年が顔を覗く。狐面の向こう、くぐもった声で少年は言った。


「弱くなかったら、俺達が強かったら、少しは幸せだったのかもしれない」

「そうね、私も強かったら、その方が良かったのかも」

「俺が強かったら、兄さん達も含めて、今日も皆で笑ってたのかな」

「それはわからない。どんなに強くても、私達は神様にはなれないから。摂理から外れ続けたらどうなるか、それは私達じゃわからないことよ」


 少女は笑った。それは諦めにも近い。少年の手を取る。思い切り彼を引き上げると、少女はリボンを揺らして歩き出した。


「とりあえず、わかっている今をちょっとだけ見て見ない? 今はちょっとだけ自由で、考えるには十分すぎる時間があるんだから」


 二人は暗闇を歩いた。ほんの少し先の神木に向かって、甘い香りを辿る。黄泉平坂の道に疲弊は無かった。

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