蜘蛛這う夜

 沼に落とされるような、全身の重み。指の先まで泥で満たされるようだった。これは女神一柱が乗っただけでは感じられない重みだろう。

 葛木を撫でながら後ろをふわりと浮く菊理媛は、時折手の指を僅かに動かす。傍から見ても、それは、人形を操る糸括りに見えた。菊理媛が指を動かすたびに、葛木の足や腕が動いた。唯一、首から上だけが自由である。


「手伝うって言ったくせに」


 葛木が毒を吐くと、菊理媛の甲高い笑い声が聞こえた。それは脳内に響く、不快な銅鑼の音のようでもある。


『手伝ってるじゃない』


 ずるりと菊理媛は葛木の頬を撫でて、前を向かせた。グッと歯に力を込めて、否定の意思を見せる。


『でも、ここから先は貴方一人』


 果実の甘い香りがした。目の前に現れたのは、一本の樹。丸く白っぽい実をつけて、ぽつりと暗闇の中に立っていた。


意富加牟豆美命オオカムズミノミコト、この子はお前に任せるわ。この子が仕えるべき人を待たせてあげて。もしそれ以外が尋ねてきたら、追い返しなさい』


 そう言って彼女は葛木をその樹の傍にやり、指先から出た粘着質の糸で樹に結び付ける。身体が別種の開放感に浸っていた。四肢こそ自分の意思に反して使われたからか、少々痛んで動かないが、ドッと流れ込み疲労感と一緒に、自由を感じる。ふと上を向いてみると、白い桃の果実と共に、枝に座る少年を見る。


「仕えるべき者をこの子は自分でわかっているのか」


 少年はしっとりとした声で菊理媛に問う。黒髪の奥に赤い瞳を称えて、彼はじっと葛木を見ていた。


『勿論よ。たとえ姿が変わっていたとしてもわかるわ。私達が作る契約書はそういうものよ』


 じゃあね、と菊理媛は何処かへと去る。軽くなった体に、威圧感があったと気づいた。観察するようにじろじろと目を動かす少年は、何処か銃夜に似ている。


「君も大変だな。女神に色々唾つけられて」


 退屈そうに少年は言う。暫くすると、ブチブチと音がして、重力がかかるのを感じた。吊るされ、縛られていた糸が、次々に地面へと落ちている。白い糸の束は切られてもよく見れば動いていて、心理的な嫌悪感を抱かせた。


「君からは友人の香りがする。さては外界で大宮家と関わりがあるね?」


 少年のその言葉を聞いても、葛木は黙ったままだった。それでも、うんうんと彼は頷いて、何かを探るようにジロジロ顔を見続ける。


「成程、宿儺の家から生まれ出た子か。彼の子孫は義理堅いし犬のような防人だからなあ。先程も一人か二人、宿儺の子がいたけれど、あちらはあちらで難儀しているようだ。全く、イザナギもククリも、お遊びが過ぎる。何のための彼等と思っているんだ」


 全ての糸を解いたのは、この少年であった。手には糸の束が纏めて握られており、するすると一つの塊となって、玉になる。少年がぽいと葛木の足元にそれを投げると、割れ出たのは、背の赤い一匹の蜘蛛だった。


「そのうち主人の下に戻る。そっとしておいて良いよ、宿儺の子。それより私の話を聞いてはくれないか。少し暇をしていたんだ」


 今、自分が歩けるようになっていることを悟って、葛木は振り返り、少年と木を見る。すぐには飛び掛かれないだろうギリギリの距離まで離れた。ゆっくりと少年の全体像を見ると、どうやら、彼の足は樹木そのもののようで、彼は桃木に上っているのではなく、桃木そのものとして、体が露出しているようだった。


「私はあまり知られた者ではないし、神と呼ぶ人も少ないし、これと言って外に出ることも無い。その反応は良しとしよう」


 彼は神、というものだろうか。それにしては俗物のような物言いと、人間らしい感性を持っているように思える。


「あまり離れるなよ。お前の主人はそのうちここに集まって来る。他にも沢山な。全ては時間が解決してくれる。彼が半目開きでうたた寝からゆっくり目を覚ましてくれれば、それで終わりだ」


 ちょいちょいと少年は手招いた。葛木はずっと黙りつつも、半分無意識に、彼の言葉に従っていた。


「……桃の木の、神」

「世間での認識はそんなものだな。実際には結界や破邪の神だ。菊理と共に、黄泉平坂の番人をしている」


 意富加牟豆美命オオカムズミノミコトと言えば、死んだ伊邪那美を蘇らせようとして失敗した伊邪那岐が、黄泉平坂で鬼と化した伊邪那美の追手から逃げる際、その神聖な身を以って、助けたとされる神である。それが、目の前にいるということは、それはこの場所が、確実性を以って黄泉平坂であることの証でもある。そして、更にはこの先が、根の国、黄泉の国であることを指し示す。


「暇つぶしがてら、話を聞いてくれるか、宿儺の子。君たち鬼の話を」


 ゆっくりと間を置いた語りに、葛木は仕方がなく腰を下ろす。


「興味は無い」


 一言そう言って、葛木はそれが黙るその瞬間まで、口を閉じ続けた。





 一方で、初風は自らの足を動かし、黒き蜻蛉に誘われんとしていた。次第に腐臭が増えていく。血と膿の匂い。それは、肉と骨の残骸が固まった香り。ぶつけた言葉と感情の後悔を、罪悪感を、罰を受けるという形で償いたかった。


 ――――あのとき、なぜ処されなかったが、分からない。


 同レベルの分家とはいえ、大宮家と豊宮家では格が違う。それに怒りを持たれ、豊宮家の本家当主や、大宮家から報復されてもおかしくはなかった。それでも何事も無くこの街に滞在出来ているのは、きっと、大宮銃夜本人が声を上げて庇ったのだろう。少なくとも初風にはそんな、借りのようなものが感じられた。故に、今、銃夜の式神に従って動き彼を助けるということは、貸し借りを終わらせることにも繋がる。それが、初風にとっての罰だった。

 少しずつではあるが、何か気配のような、子供の話し声も聞こえる。揺れる空気は、事の動きを表すものでもある。


「そこに誰かいるのか」


 この町の宮家は、子供が多い。ざわざわとしたこの声は、そのうちの誰かだろう。そう思って、初風はその声の傍へと駆け寄る。

 次第に、ぐちゃぐちゃという肉の音が鳴った。水分が粘着を持ち、一人の少年に張り付いていた。体液は赤。それは鉄錆の匂いの外套を待とうが如く。その少年はみすぼらしいこけた頬と、乾いた赤い唇を見せた。初風の影に混じっていた千翅達が、ブルブルと震えて、嬉しそうに彼に向かって行く。


「……鋸身屋か?」


 すぐに少年が、あの目の隠れた黒髪の青年だったのだろうと理解出来た。主人を迎える蟲達の震えが、全身から引き下がっていく。少年はこくりと頷いた。それこそが、彼が大宮銃夜であることを誇示する。


「その姿は何だ。服が随分と大きくなってしまったらしいが」


 皮肉を効かせて言うも、銃夜は少し穏やかそうに微笑むだけで、何も言わなかった。初風が押し黙って近づくと、一瞬、驚いたような顔をする。それでも、初風が顔を上げろと言えば、すぐに顔を上向く。


「成程、喉を裂いているのか。他には何だ、頭蓋が割れている上に、臓腑がいくつも欠けているのか。派手に食われているな。やったのは後ろにいる奴らか?」


 淡々と、見渡す様に初風は言った。ゆらりと揺れた銃夜の影の更に後ろ、何かが這う音を指し示す。暗闇から淡い白を見せたのは、痘痕で荒れた醜い女と子供であった。深く見れば、それらは親子なのだろう。だが初風はそれ以上深く語ることもなく、じっと銃夜の顔を見つめるばかりだった。


「深く、聞きはしない。どうせ問うたところで、声の無いお前が答えるとすれば、そこの虫達を私の中に入れて、見せるという手法だろう。あんな体験は二度とごめんだ。悪趣味が過ぎる。自分の仕え人くらい、よく言い聞かせておけ。無作法にも他人に地獄を見せるなと」


 自分の罪やら罰やらの感情を棚に上げ、初風はそう言った。ある意味で、それは強がりでもある。僅かに影が揺れた。


「……いつまでその成りでいるつもりだ。痛みばかりで何もできないだろ、それでは。あのガキと裸女家の男に見せて良い姿か、それは」


 初風がそう聞くと、銃夜はふるふると顔を横に振る。否と見た初風は、銃夜の手を引いた。


「歩けるか。無理なら手を貸そう。蜻蛉や刀では、人を支えることは難しいだろうからな」


 血液と汚物に塗れた彼等は、引き摺り出されるように立ち上がる。死人の臭いを背に、初風は歩き出す。僅かに歩いた先で、引いていた手が重くなった。ごしゃっと音がして、肉と骨のぶつかる音だとわかる。


「……歩けすらしないなら先に言え」


 怪訝な表情で振り向いた初風が言う。眉間に寄った皺が、むき出しになった牙が、獣のようだった。銃夜が少しだけ恐怖を感じたような顔をすると、初風の顔を何かが掠める。

 それは黒い刀。銃夜の影から伸びたそれが、初風の髪の毛を切り、頬に傷をつける。


「そうだ、それでいい。守護者とはそうあるべきだ。即座に脅威を排除するものだ。例えそれが主人の望みでなくとも、脅威だと思ったら判断する時間も許さずに殺すべきだ」


 初風はそう言って、刀を手でずらす。頬だけでなく、その指からも血液がしたたり落ちる。刀はその血を吸い、銃夜の影に戻った。


「主人であるお前は不快に思えばそう言うべきだ……いや、守護者の方とはそんなことせずともなのだろうが、他の人間には言葉を使わなければわからないものだ。だから私にはお前が過去に何をしてそんな姿になったのかがわからない」


 その言葉に、銃夜はきょとんと眼を丸くした。意味を分かりかねているのか、ずっと、真っすぐに初風を見る。一度、初風は溜息を吐いて、銃夜を抱きあげた。その瞬間に、二振りの刀が初風の腕を切り落とそうと迫る。


「やめろ燐鈴りんれい。それは駄目だ」


 ふと銃夜がそう呟いた。途端に、刀は動きを止めた。


「何だ、話せるじゃないか」


 初風がフッと笑った。その顔は、あの疲れ切った彬人の表情に酷く似ている。銃夜の喉はよく見れば、赤黒い糸のようなもので塞がれていた。足りない肉を埋めるように、銃夜の欠損部分には黒い蜻蛉が集まる。だが重みは無かった。動く気配もないそれらを眺めて、初風は再び歩き出す。


「お前の言葉でお前の昔話を聞こうじゃないか。それで納得出来たら、そうだな、この前病院で言った私の言葉を謝罪しよう」

「……長い話になる」

「良い。どうせ黄泉平坂の道は長いのだから」


 銃夜が口を動かし始めると、初風は少しだけ歩幅を縮めた。その縮めた距離を知るのは、重なった影に住まう式神達だけだった。




 また一方、その銃夜を探す晴嵐と異夜は、混乱を極めていた。既に数時間は同じ場所で待っている気がする。ガリュウが欠伸をし、シキが不安げに鳴いた回数は既に数えきれない。ガリュウという神に従うのは、間違えではなかったはずである。二人はどちらも、深淵を知らない自覚があった。どちらも共通の友人である銃夜の抱えたものを知っている。故に、自分達がどれだけ平和に生きて来たかを理解出来ているのだ。だからこそ、神の忠告を聞く余裕があった。

 だがそろそろ、それも耐えられない。シキの感じている恐怖心が伝播して、晴嵐はもう動こうと立ち上がる。


「なあ異夜————」

「待て、黙れ、聞こえないのか」


 ふと声をかけた異夜の顔は、脂汗で染まっていた。唇は青く、ガチガチと歯を鳴らしている。


「お前いつの間に」

「俺だって気付いたのはさっきだ! ちょっと黙ってろ! 前を見ろ前を!」

「前って言っても……」


 異夜の見ている方向を共に見つめる。次第に、シャンシャンという鈴の音が聞こえた。聞き覚えのある音だった。


「銃夜!」


 晴嵐は千翅の音に向かって、駆け出す。


「馬鹿! 近づくな!」


 異夜がそう言って晴嵐の袖を掴んだ時には、既に一人の女におぶられる銃夜の姿が二人に見えていた。


「何だ。安倍のところのガキか。丁度良かったな、さっきまでぐちゃぐちゃだったんだが、この辺りに来て元の姿に直ったんだ。これならお前でも連れ帰れるだろう」


 その女は豊宮家燈籠船の娘、初風だった。二人には何故この女が銃夜を背負って歩いて来たのかがわからない。すぐに晴嵐は初風から眠った銃夜を受け取り、シキに背負わせた。


「ところで安倍の。お前、玉依姫に何かしたのか?」


 初風がそう言うと、晴嵐は眉間に皺を寄せる。ハッと顔を赤くして、思い出したように慌てると、初風に言った。


「あ、あれは事故だ! 事故! 中身は豊玉姫だったし!」

「いや、大宮真夜ではなく、玉依姫に対してだ。自覚が無いのか? 豊玉姫を連れているあたり、既に理解して行動しているものだと思っていたんだが」

「あんた何を言っているんだ。俺は神の加護なんて持ってないぞ」

「豊玉姫は元とはいえ義姉だぞ。気配くらい察せるんだよ。それともあれか、豊玉姫は黙って息子に着いて来ているのか。とんだ毒親だな。早めに縁切っといた方が良いぞ」


 そこまで初風が言ったところで、ずるりと、晴嵐は影から何かが這い出る感覚を覚える。それは瞬時に晴嵐の頭上を舞う。煌びやかな薄布を纏い、赤い唇をとんがらせて、その美貌を誇示する女神。正しくその女神は、あの海で見た、あの事件の原因足る悪女、豊玉姫。


『ちょっと、うちの子に変なこと吹き込むのやめてくれないかしら。見守ってただけよ。ここじゃ妹も人の姿が保てないし、教えてあげないとわからないと思って、一緒にあの子を待ってたの』


 何処かあの時よりも人間らしく、彼女は振舞う。青ざめた異夜が無言で口をパクパクと動かし、ガリュウは人型となって異夜の前に出ていた。その様子を嘲笑うように、初風は鼻で笑った。


「兄貴を騙して生んだ子には手助け一つせず、魂すら食われるまで見殺しにしたくせに、死んでも何度でも生まれ変われるそいつは助けるのか。本当に身勝手な女だよ、お前は」


 初風がそう吐き捨てると、ドンという音と巨大な重力が場を襲う。それは畏怖とも言える、強大な感情。晴嵐にもわかった。何かが近づく。初風は気丈にも苦虫を潰したようにして、それがやってくる方を見ていた。晴嵐も、異夜も、全身の毛を逆立てながらそちらを見やる。


『おかえり、玉依姫』

「ただいま、姉さん」


 そこにいたのは、いつものように赤い唇をにっこりと上げて微笑む真夜だった。だが少しおかしいのは、黄泉平坂という環境で穏やかに微笑んでいるということと、異常なまでの威圧感である。


「ちゃんと集まってるのね。じゃあ、もう外に出ましょう。大丈夫。他の子達もちゃんと自力で帰ってくるから」


 神と同じことを言う。彼女はまさに今、大宮真夜ではなく、玉依姫としてそこに存在しているのだと思えた。


「ほら、ウガヤ、外に行こう」


 玉依姫は晴嵐にそう言って、手を出す。ずっと、子が握り返すのを待つ、母のような表情だった。


「俺はウガヤなんて名前じゃない」


 深呼吸した晴嵐が言った。その目はしっかりと彼女を見据えている。玉依姫は一瞬びくりとして、手を引く。


「……そうだったね、ごめんね、安倍君」


 少しだけ怯えた彼女は、豊玉姫と目を合わせて、首を傾げる。


「みっちゃんと葛木ちゃんはまだ奥にいないといけないみたい。まだ、海夜と会えてないから。だから、私達の後にしか帰ってこないの。先に出て、出店で遊んでよう」


 真夜はそう言って、スタスタと晴嵐たちの後ろを行く。ガリュウがいつの間にか狼の姿に戻って、その後ろをついて歩いていた。渋々と異夜も共に歩く。残された晴嵐は、どぽんという豊玉姫が影に沈む音を聞いて、振り返る。


「俺はどうすれば良いんだ」


 晴嵐が呟くと、初風が独り言のように言って、足を動かし始めた。


「自分の感情に真っ直ぐにしていればいい。それが一番真実に近い」


 シキがキューンと不安げに鳴き、背負った銃夜を落とさないようにゆっくりと、無意識に歩き出した晴嵐の隣を歩いた。

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