注ぐ火が

 鼻にまとわりつくような甘い香が、周囲を埋めつくしていた。光廣はそれなりに、宮家の末端の末端らしいくらいには、鼻が良い。それでも本殿へ足を踏み入れるまでは気づかなかった。否、その言い方は間違っているだろう。この場所だけが、この本殿だけが、僅かに異界と重なっているのだ。


「葛木君」


 光廣は唱える。それは制止の意味を持っていたが、葛木は暫くその足を止めようとしなかった。


「何?」


 葛木が立ち止まって首を傾げると、光廣はグッと何かを堪えて、そして放つ。


「なんか臭うよ。危ないかもしれない」

「知ってる」


 パッと、すぐに葛木は返して、光廣の口を止めた。それに対して、グッと言葉を堪えた光廣は、あ、うん、とだけ返す。喉まで出かかっていた言葉も飲み込んで、暫くの無音を味わった。

 この無音も、現実ならばあり得ないだろう。外の祭りは盛況である。その声も何もかもが耳に入らないというのは、至って異常だった。辺りは暗く、光の一片も無い。


「この建物、前もこんなだったっけ……?」


 ぐるりと一周、周りを見渡して、光廣は呟いた。真夜と海夜と、もう一人を含めて、四人でここには来たことがある。ただ、その時は、美しい黒の屏風と、金や銀で書かれた呪文のようなもので、部屋が覆いつくされた、異様な姿だったと記憶していた。それもまたおかしな話だが、しかし、今はそれ以上に、構造が違う。

 仕切られた空間が無い、という点が、非常に光廣の記憶を引っ掻いてたまらない。仕切る屏風も、建物を支える柱も、何もない。空気は自分達が入って来た入口からも動かない。それが、この空間を異界たらしめている。


「少しだけ、あそこに似てる。本当に、掠っている程度だけど」


 唐突に、葛木が呟いた。光廣が葛木の背中を見ると、彼は立ち止まって、遠くの方に意識を飛ばしているようだった。


「それはどういう意味? あそこって?」


 光廣が尋ねると、葛木は一度、眼鏡をはずして、光廣を見る。


「俺、持ってる能力は、分断と結びなんだけどね。いつもは分断だけ使うけど、たまに、調子がいい時というか、というか、そういうときは、結びの方も活性化して、縁が何もしなくても見えるときがある」


 そう言う葛木の目が、何となく、緑かかって光っているような、そんなふうに、光廣には見えた。葛木は眼鏡を掛けなおすと、再び続ける。


「海夜様が死んだ場所も、ここと似てたんだよ。全ての人間に、断ち切れない絶対の理が結ばれていて、それが、何処か遠く、俺達が知る向こう側に続いている。そういう風景」


 多分ここは、と続けて、葛木は言った。共に、光廣も声を重ねる。


「「黄泉平坂よもつひらさか」」


 少し驚いたような表情で、葛木は光廣の顔を見た。その光廣の顔は、少しだけ感情を地に落としたようだった。


「そうだと思う。少なくとも大宮家が作る異界は、黄泉平坂に繋がってるんだ。だから、死んでも霊体として残ることは無いし、特殊な状況を作り出せるんだと思う」


 だから、と置いて、光廣は口を止めない。


「海夜様は何処か遠い所へ、自分の足で行こうとしたんだと思う。黄泉平坂は安定しない、あらゆる世界との道の一つだから。ここに自由に行き来する権限を持った人に、頼んだんだと思う」


 光廣は、海夜がどのようにして死んだか、詳しくは知らないはずである。少なくとも葛木はそう思っていた。だが、この光廣という少年は、自殺だと言われていた、その場にいた者でも不明瞭な点が多い彼女の死を、何処かよく知っているようでもある。


「黄泉平坂に自由に行ける権限?」


 葛木が復唱する。それを光廣は拾った。


「言い換えると、螺旋階段を望む権限。様々な次元を渡り歩いて、何かを求めて彷徨える、そんな、多分、そういう感じの。僕が教えてもらったのは、そういう見方だった」


 酷く曖昧な答えを垂れ流す光廣に、葛木はすんっと鼻を鳴らして再び問いを投げかける。


「それは誰から聞いたの?」


 光廣を見る葛木の目は、少しだけ蛇に似ていた。それに睨まれた光廣は、目をギョッとさせて、驚きの表情を浮かべる。


「あ、うん、病院の、アキラさんに」


 どうやら光廣は、葛木の知らない所で、あの魔王を自称する男と何かしら深い話をしていたらしい。土産にと持って来た青いあの石炭や、少しの自分自身の能力に対する自信やなにやらは、全て、あのイギリス旅行で、光廣が得たものである。それは、誰が見ても明らかだったが、それを与えたのが誰なのかだけは、光廣を含めた、イギリスへ同行した者だけが知っていることだった。


「そう。あの人は、何でも知ってるのか」

「多分、そうだと思うよ。全部知ってて、僕達を俯瞰して見てる」


 まるで知ったような口を利く光廣に、葛木は言葉を零す。


「でも鵜呑みにはしない方が良い。あれは何となく信用がならない。真夜様に危害を与えるとも限らない」


 真っ当な守護者として、当たり前のことを言う。光廣から見て、葛木は常にそう言った、どうも感情を落とした様な言動が多い人間だった。それでも、置かれた役割は必ず全うする、完成された仕え人に見える。同い年で、自分の方が長く真夜と海夜に仕えているにも関わらず、何処か劣っているように感じた。

 そういえば、最期まで海夜と共にいたのも、彼だった。


「ねえ、そういえば僕まだ、葛木君からも、真夜様からも、聞いてないんだ。海夜様が最後何を言っていて、何のために死んだか」


 押し黙る葛木に、もう一回、問う。


「ねえ、海夜様は何で一人で死んだの。君から見て、本当にそれは真夜様の為になってたの? あんな、自分のことを利用していた女神の為に命を賭したことは、正しかったの?」


 ふつふつと浮かぶ疑問が、真夜への悪態となって現れる。聞かれていたらどんなに恐ろしいだろうとも思うが、そんなことは関係無しに、駄々洩れる感情が抑えきれなかった。


「……? 何でまだアンタは正しいとか、間違ってるとか考えてるの?」


 歩みを止めずに、奥へ奥へと進んでいく葛木は、そのまま言葉を落とす。


「俺達はただ仕えるだけ。あの時、海夜様は真夜様だった。でも、海夜様に戻って、自由になった。ただそれだけ。前も今も、俺達は真夜様に仕えてる。海夜様のやることに口を出すことは意味が無い。海夜様は、真夜様の為に死んだんじゃなくて、ただ、自由になっただけ」


 たったそれだけ、と、葛木は口を噤んだ。それは感傷ではない。葛木は本当のことを言っている。それはブレない彼の真だった。それくらい、光廣には理解が出来る。それでも、反して感情的な光廣では、何かがプツリと切れるまで、食い下がる。


「でも、自由が死だなんて……」


 言いかけたその時、光廣は目を見開いて、歩く足を止める。空気の振動が変わったことに、葛木は振り返って尋ねた。


「どうした?」


 呆然と立ち尽くす光廣に、葛木は首を傾げる。彼が口走った言葉も、よくわからないままだった。


紫音しおんさん……何で……」


 光廣が見ているその先を、葛木もじっと見つめてみる。ふと、ぼんやりとした光がそこにあるのがわかった。より深く見ようと、自然に手が伸びる。ほどなくして、それが、人の形をしていることがわかった。

 もし、もしも光廣の言う紫音が、自分が仕える以前にいたという守護者だとすると。葛木には、自分にその存在が何と見えるか、すぐにわかった。


「海夜様」


 呼ばれた少女は、送り出したあの時と違わぬ姿かたちで、自分達に微笑んで見せる。ただ、それが海夜でないことぐらい、簡単に理解できた。葛木は忍ばせていたクナイを手に、光廣の腕を掴んで、その光に迫る。


「あまり彼女を愚弄しないで欲しい。あの人が、自由になったあの人が、わざわざ未練たらしく俺達に会いに来ることなんて無い。あの人はそんなことをするほど愚かじゃない。もっと、真っ当な人間だ」


 クナイをその喉に突き付ける。ハッと、光廣から狼狽える声が聞こえた。それでも、葛木は態度を変えずに、海夜の喉の肉に、刃を食い込ませる。


「異界だからって、誰が何をしても許されるわけじゃない。アンタはどうせ神様なんだろうけど、だからと言って俺がアンタを敬って、その人の嘘の姿を享受する理由にはならない」


 光廣を掴む手に、力が籠められる。アレは違う、アレはそうじゃないと、光廣に言い聞かせるようだった。暫く静止していた空間が、その女の声で動き出す。海夜だったそれは、するすると黒色の髪を白くして、額に赤く煌めく二本の角を生やして、にかにか笑った。


『残念。お人形はお人形ね。ちょっとくらい、感情的になってくれてもいいのに』


 それは硝子を砕くような、綺麗で濁った女の声だった。光廣が、あ、だとか、う、だとか、苦しそうな声を出している。


『あら、思い出した? そうよ、私よ。菊理媛ククリヒメよ。お久しぶり。格由光廣』


 名を呼ばれた光廣は、すぐに葛木の後ろに隠れる。その状況が、どういうことは何となく察しがついた。


「アンタが儀式の渡し役? 俺の前の守護者を殺して、細切れにした怪物」

『怪物は酷いわ。あの時は玉依姫の言葉に従っただけ』


 にこにこと笑みを絶やさないその女神は、再度にんまりと笑って返す。まさしく彼女は鬼と呼ばれるその姿にふさわしく、思考も何処か鬼畜と呼ばれるそれであった。怯える光廣を見て、相当のことがあったことはわかる。今でこそ、宮家の儀式と呼ばれるものの殆どが、傲慢で下劣な神と呼ばれる者達に、弱者の肉を供物として与える行為であることを知っている。


「責任転換はいけないんじゃないの? あの頃、真夜様はまだ、自分が玉依姫って知らなかったはずだ」

『変なところで聡い子、私達に嫌われちゃうわよ?』

「それは今関係が無い。アンタの性根が腐ってるのは、馬鹿でもわかる」


 女神を相手にして、葛木は次々と罵倒を唱えた。握る光廣の腕をくんっと引いて、足に力を籠める。


「走って。こいつはダメだ」


 葛木は光廣の手を取って、話にならない話を放り投げ、女神を背に走り出した。転びそうになる光廣を無理やり引きずって、光の向こうに足を動かす。元来た道を戻って、空気を求めて外へ向かった。一度、後ろを振り返って、あの女神の様子を見る。既にその姿は無く、息の上がった二人は足を止める。


「大丈夫?」


 尋ねる葛木に、光廣は青ざめたまま笑い返す。


「うん、ありがとう」


 淀む空気が、外に近づいたことで少しは澄んだようだった。距離にふさわしくない程度、僅かに祭りの楽し気な声が聞こえる。


「一回出て、助けを求めた方が良い。それこそ結びに特化した人を……」


 冷静に、葛木がそう言っていると、ドンっと首根っこを掴まれ、大きな衝撃と共に床に叩きつけられる。放り投げられたと理解した葛木は、すぐさま体勢を立て直し、先程まで自分がいた場所へ目を向けた。そこにいたのは、消えたと思っていた菊理媛で、光廣のことには目を向けずに、ずっと自分を見ている。


「光廣君は外へ行って! 誰か、毒花を連れて来て!」


 今のままでは真夜を探すことは出来ないと、葛木は光廣に指示する。声が聞こえたのか、光廣はわかったと叫んで本殿の外へ向かって走り出した。ズンと体が重くなり、目の前が暗くなる。


『探し物を手伝ってあげる』


 菊理媛はそう言って、長く白い髪をずるずると伸ばし、葛木を覆った。遠くで、鈴の音が聞こえた。





 その一方で、二人の数秒前に本殿へ入ったはずの異夜と晴嵐は、銃夜を探して暗い本殿の奥を彷徨っていた。どうもここがおかしいということは、入る前からわかっていて、ガリュウも警戒していることが、異夜にはわかる。


「ここ、妙に軽いな」


 異夜にとって、この異界はおかしな居心地の良さがある。重力が薄い。空気が新鮮に感じる。いつも弱く守られてばかりの自分が、何となく強くなっている気すらする。


「そうか? ただ暗いだけなんじゃないか?」


 晴嵐にはそのような感覚が薄いらしく、不思議そうな顔をしていた。晴嵐も式神としてシキという狼を出して、隣に歩かせている。シキは周囲をきょろきょろしたり、匂いを嗅いで、晴嵐に報告しているようだった。


「でもなんか、神の臭いが充満してるみたいだ。いや、神というよりもこれは、死者か」


 そう言って、晴嵐はシキの頭を撫でる。異夜の影から、ガリュウが少し大きな狼になって出る。


『だろうな。ここは黄泉平坂だからな』


 ガリュウが呟くと、異夜は首を傾げた。


「黄泉平坂? あの黄泉の国への入口が何でこんな場所に繋がってるんだ」

『なんだお前、大宮家の分家のくせに、知らないのか』

「分家だからって知ってることばかりだと思うな。俺達は元々、血筋の管理が役割だ。俺達はその血の繋がり以外を直視しない」

『へー、へー、つまりお前らだけハブられてるわけだ』


 いつまでも回答しないガリュウに、異夜は少しだけ苛立ちを覚える。それを察したガリュウは、また少し意地悪そうな顔で言った。


『拗ねるなよ、ご主人様』

「拗ねてない」

『そうか? そうは見えないけどな。まあ、良いさ』


 少女の様相の異夜が睨んでも、それは可愛らしいとしか思えない。そのことだけは、晴嵐は飲み込んで、ガリュウの話に耳を傾けた。


『元々、大宮家がここに居を構えたのは、ここが黄泉平坂の入り口だったからだろう? 千宮家が拠点にしている場所は、高天原に繋がってるしな』


 神話の言葉を並べられ、異夜と晴嵐は顔を見合わせる。二人は共にガリュウを見つめた。


『椿姫かっさらって神獣になりやがった、あの天邪鬼クソ野郎がここを死に場に選んだ理由が、ここが一番呪詛を使いやすかったかららしい。まあ俺もお前に封印を解いてもらってから、影伝いに話を聞いただけだけどな。俺、アイツに封印されてたんだし』


 封印されていたというガリュウの言葉に、晴嵐は異夜を見る。異夜は黙って、ガリュウに背を預けて、その場に座り込んだ。


「ガリュウは昔、この辺りの断絶した大宮支族の家に封印されてたんだ。シンもそこで見つけた死体を蘇生させたものだ」


 晴嵐の声にならない質問に、そう答えて、異夜は更にガリュウへ問う。


「……じゃあ、ここから先に続いているのは、つまり」

『黄泉の国さ。伊邪那美が治める死者の国。死んだ奴や、死んだ奴に呼ばれている奴が導かれる場所だ』


 それに、と置いて、ガリュウは言った。


『本当はここに、太陽でもなく、月でもない天の神が封じられていたらしい。そいつに呼ばれた奴もいるだろうな』


 くあっと、自分には関係ないとでも言うように、ガリュウは欠伸を呆けてその場で伏せる。その目はずっと先の、奥の奥の、黄泉の国へ向いていた。


『これ以上進んでも、お前ら人間じゃあ、戻って来られなくなる。ここで化け物共を待て。大丈夫だ。呼ばれたからって、そのまま飲み込まれるわけじゃあない。特に銃夜は安全だ。アレは死んでいるが、生きている』


 シキがくぅんと不安げに鳴いた。晴嵐はガリュウの傍に寄って、シキと共にその場に座り込んだ。少しだけ、息苦しい。


『生きてる奴は拒絶されて、こっちに戻ってくる。大丈夫だ。玉依姫も、役目を果たせばすぐに戻ってくる。まあ、戻って来た時、この空間で人の姿を保っているとは思えないけどな』


 最後、聞き捨てならない言葉をつぶやいて、ガリュウは異夜の影に溶ける。待て、もっと詳しくと、二人で影を叩くが、その後反応は無かった。

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