消し炭とせし

 暗闇の中、方向感覚がわからなくなる。だが、とりあえずは奥へ進んでいるのだろう。どんどん懐かしいあの地の果ての香りが近づいて来た。地の果て、皆のお母様がいる場所。全ての人間が、最後に必ず逝きつく終点。


「おい、何をしている。お前が来る場所ではない」


 唐突の声が、女の耳を刺激する。それは、命令であった。それでも、彼女は足を止められない。鈍い肉の臭いがした。


「止まれ。ここはお前が帰ってくる場所じゃない」


 声の主が、女の額に指を当てた。女はそこそこの身長だが、男はそれ以上なのだろう。声と指は、彼女の頭上から当てられるものである。


「さては、さては。お前、まだあの女が抜けきってないな? まあ、仕方がない。お前は元々そういう奴だ」


 男はずるりと女の額に人差し指と中指を入れ、くりくり脳を抉るようにして動かした。女は一瞬ビクッと体を震わせるが、すぐに、魂の無い浮いた表情に戻る。暫くして、男は指をゆっくり引き抜いて、糸を引く光る塊を取り出した。女の額が照らされ、ガクリとその体は男に寄り掛る形で崩れる。はだけた衣服が、彼女の女らしさを表した。


「夫を持つ女が、俺みたいな奴の前でそんな恰好をするんじゃない。全部抜いてやったんだ。とっとと帰れ。旦那が待ってるぞ」


 赤い瞳同士が、合って、点と点を繋ぐ線になる。女はゆらりと体を立たせて、力なく男を見つめた。


「貴方は会いに行かないの? 折角、もう少し奥に行けば、会えるのに」


 一瞬の正気が、女を少女、真夜へと立ち戻らせる。言葉は剣の如く男に刺さった。だが、男はクスっと笑うだけで、首を横に振った。


「良いんだ。俺は兄さんをここで守る。それに、アンタみたいな奴がここに迷い込んだら拙いだろ」


 ねえ、と、男は少年らしく笑った。だが、真夜は眉間に皺を寄せて、悔しそうな、悲しそうな顔をする。


「もう会えなくなるかもしれないのに? あの人、もう、一夕を殆ど食い尽くしてるわ。もう、もう少しで、人ではなくなるわ。そうしたら、貴方とは繋がりが消えてしまう。ねえ、一目だけ、一目だけ会いましょう?」


 真夜が言葉を連ねると、男は人差し指を女の唇に当てて、スッと黙らせた。手荒なものでも、何でもない。粗暴で乱雑な言葉を選んでいたように見えるが、そこには、似合わない優しさも見える。


「大丈夫。兄さんは現身を食い殺したりなんかしない。もう、しないんだ。大丈夫。そうやって、今、伊邪那岐が動いてる」


 指を指し、黄泉平坂の奥を見せる。一本の輝く木。それの奥先、割れた巨石を見せて、男は更に言った。


「後悔しかしてこなかったアイツが、ちゃんと動き始めた。大丈夫。きっと、兄さんと一夕は立ち戻れるさ」


 殻が割れたような、穏やかそうな声が漏れる。男の光る南天の瞳と、黒い鴉のような髪、そして、鈍く輝く赤い角が、真夜の瞳に映った。それはまだ何も知らない赤子のように純粋で、真っすぐな雰囲気を内包していた。

 それが愛おしくて、うらやましくて、思い出した記憶の先の、その残酷さを際立たせる。


「だって、でも、それって、結末も、意味も、全然変わらないじゃない」


 記録として残る言葉を、知る場面を、真夜は垂れ流した。その本性を知る男は、またクスリと笑った。


「悲しい顔をするな。俺は、俺は、ちゃんと、生きていくから。もう何度も歩いた螺旋階段だ。もう少しなんだ。だから、邪魔はしないでくれ」


 訴えかけるその声は、桃の花弁にかき消される。いつの間にか、真夜はふらふらとまた歩くだけの存在になっていた。記憶も、感覚も、ふわふわと浮いているようで、酷く曖昧だった。


「大丈夫。アンタはちゃんと、いつも幸福だから」


 遠くから、聞き覚えの無い、男の声が聞こえた。その甘い香りは、一夜によく似ている気がしたが、真夜は、たった一人を目指して、ただ歩き出した。




 一点の黒の中、もう一人の「女」は、揺れる密度の濃い瘴気に、グッと顔を顰める。奇妙な死の臭いは、彼女の中の何かを震え上がらせながら、蝕んでいく。

 これ以上ここにいると、正気を失うかもしれない、と、離脱の意を覚悟した。だが、奥に踏み込み過ぎたのか、元に戻る道があやふやで、引く足を持つことさえ無いようである。


「全く、クソ、あの黒髪青目変なガキを道案内に連れて来るんだった」


 初風はそう吐いて、整った髪を掻き毟った。無理やり、兄の彬人に結ばれ、失礼のないようにと整えられ、自分でも毎朝直した髪型だったが、どうも、自分の気質に似合わない気がしている。今ここには鏡も水面も無いが、きっと、酷い顔で、醜くて、汚いのだろう。日焼けで割れた皮膚と、薄く見え始めるそばかす、枝毛だらけの毛髪に、整えていない太眉。兄や、親友たる漣、かつての義姉である豊玉姫から美しいと言われるその顔が、初風には受け入れがたいものであった。

 美しいものに対する拒否感が、生まれつき強かった。それが兄彬人の背負う孤独感との同調で、価値観の不一致として、他人との乖離に現れる。

 俯いていた初風は首を振って、前を向く。今は、ここを出ることだけを考えよう。そうやって、心を震わせ、立ち上がらせる。


「臭いの濃い方に背いて歩けばいい。そうだ、そうすればいい」


 豊宮たる感覚の鋭さが、僅かなその差を極めて嗅ぎ分け、道を照らす。昔から、初風は呪術的なものを直感で嗅ぎ分ける能力が高い。どうやら、主祭神の関係で、豊宮家全体がそうであるらしいが、初風は特にそれが強く出ていた。


 だが、すぐにその道が閉じるように、震える空気と気配を感じる。


「なんだ?」


 その奇妙さに、思わず声が出た。声の反響が、それに出会って、跳ね返る。すぐに、それがこちらに向かって、とてつもない速度を出して、移動していることに気づく。


 目の前を覆うのは、黒の光。

 艶やかな硝子のような、黒曜石状の破片の塊が、初風を覆った。否、破片は皮膚を切ることも、痛みを与えることもしない。構えていた体勢を崩し、初風はその集団を見つめた。よく聞けば、その音色は鈴を振り乱すような音にも感じられ、何処か、美しく、清らかだった。


「……何だこいつら」


 素早く動くそれらは、何かを伝えるように、初風の周囲をぐるぐると回り続ける。一匹が、初風の行き場を失っていた手に止まった。


「蜻蛉? 蜉蝣?」


 黒いそれは、闇に慣れた目でよく見ると、軽い、漆黒の蜻蛉だった。ゆうに千は超える翅が、彼女の周囲に集まっていたのだ。


「式神か? そういえば、大宮の一人が黒い蜻蛉をうちの敷地に放ってたな。お前達か。通りでけたたましくていやらしい音だと思ったよ」


 一匹の蜻蛉にそう語りかけると、それはまた集団に戻って、再び一つの生命体に変化した。黒い硝子片の如きそれらは、寄り集まると、初風の影へ飛び込む。


「おい、私は主人じゃないぞ」


 式神にとって、影に入るということは、そのものを主人と見るということである。だが、黒蜻蛉達は、主人でもない初風の足元に入り込む。


 ――――暫くの後、初風は、視界の隅にノイズを感じた。

 それと共に、急に、ぐらりと頭が割れる感覚と、不快な映像が流れ込む。


 それは、無味無臭の暗闇で、恐怖に歪む少年に手を差し伸べる、そんな視点だった。周囲は上も下も分からない歪な日本家屋の中で、こことそっくりに暗い。ただ、自分が見つめる先には、少年が落ちかけている先には、ただ一つの深淵がぽっかりと開いていた。どこまで落ちるかわからない恐怖と、堕ちた先、もしきっと死ぬという確定事項への恐怖が、相まって、目の前の少年が感じている恐怖が、理解できてしまう。

 その少年の瞳は赤く、怯えと驚きが、恐怖を引き立て涙を多量に貯めている。


「助けて。今までのことはいくらでも謝る。何なら俺は支族、いや、陰陽師に落ちたって良い。お願い、助けて」


 はっきりと、生殺与奪の権利は、自分が握っていると、少年の言葉で理解する。ただ、初風には、それがあの大宮銃夜とそっくりであることが、酷く動揺を誘った。


「馬鹿、そんな命乞いは要らないんだよ。待って、助けるから。裸女が来るまで耐えて。俺の手を握って。俺もいつまででも待つんだから」


 同じ声が、自分から発せられる。ハッキリと、言葉が出ていた。


————これは記憶。あの鋸身屋の記憶だ。

 理解を示した次の瞬間に、言いようもない感覚に陥る。この二人がどちらも嘘を言っていないこと、本心から、助けてほしい、助けたいと思っていたこと。きっとこの視点が、あの鋸身屋、大宮銃夜であるということ。鋸身屋は兄弟を殺して当主になると、そう知っていたはずのことが、今、何かが違うとハッキリしてしまった。

 言葉を放った後悔と、この記憶を見せる式神達の思考が、ぐちゃぐちゃになって、視界の外、初風は盛大に吐瀉する。


 それでもなお、その記憶は続いた。


「式神を出せ、珠夜じゅや。そうだよ、式神を出せばいいんだ。手伝わせればいい。お前を受け止めてくれるかもしれない。あ、神の加護もあるじゃないか。それでほら、力を出して上ってくればいい」


 ごく自然に、当たり前に、銃夜はそう放つ。それが無意味であることも、無慈悲であることも、傍観者の初風にはわかった。一方で、もう一人、目線の先にいる珠夜は、更に青ざめて顔を歪めた。


「何を言ってるんだお前は。式神なんて、いるわけがないだろう。あれは天才の所業だ。神だってそう簡単に加護など与えるもんか」


 恐怖に加えて、少年は歪んだ嫉妬と、怒りをその犬歯に見せる。


「わからないのか。お前は天才なんだ。当たり前に式神を二種も持って、神の加護を与えられ、異界でこれだけの身体能力を得る」


 記憶の先、このギリギリの状態が、どれだけ続いたのかがわかる。銃夜は、珠夜をずっと、腕の一本だけで持ち上げて、数時間経過しているのだ。握り返さない珠夜の手は、既にうっ血して、感覚すら無いのだろう。


「何か方法を使って、二人で生きてここから出たとして、俺は毒花に殺される。お前が双子の片割れだからだ。お前みたいな化け物が一緒に生まれたせいで、俺は、死ぬんだ」


 呪いを垂れ流す。それが、延々と、銃夜に突き刺さった。


「兄さん達だってそうだ。裸女が殺した。兄弟で一番強いお前を生き残らせるために。お前がどんなに望んだって、お前が生きてる限り俺達はずっと死ぬ運命だった」


 ガタガタと震える胴体が、腕の骨と筋肉を伝って、わかる。その上に、安くない絶望と曖昧な喪失感が、銃夜の中で走るのもわかった。


「お前が早く死んでおけば、俺達が生き」


 途切れた言葉は、瞬間的に沸いた憎悪にかき消されるように、黒い蜻蛉に包まれ、黒い二振りの刀に切り刻まれた。銃夜の意思ではない。隣接する、愛情に染められた怒りが、その少年を殺した。黒い蜻蛉達が包んだ、兄弟の体は、一瞬晴れた視界に、首だけが奈落に、深淵に吸い込まれるのが確認できた。ずっと握っていたその手は、軽くなって、温度は最初から無かった。


 深淵がこちらに迫る。その異界の崩壊が見えた時、全ての色をぶちまけたような、灰色の濃い感情が、こみ上げて、もう一度、初風は吐き出した。


 その吐瀉物を目の前に見ることが、それが、ただの記憶であり、自分のことではないと実感できる、最初の物体である。

 荒い息を整えながら、傍に近づいた黒い蜻蛉を見つめる。


「お前、何で、これを私に見せた」


 感情の見えない昆虫の複眼を見ても、何も答えは得られない。もう一度影にでも入って貰えれば、考えていることもわかるのだろうが、それは、二度と経験したくない苦痛をもう一度味わうことと同義だろう。


「……怒っている、らしい、な。すまない。いや、本人に謝るべきか」


 立ち上がり、初風は蜻蛉達を見上げた。


「案内してくれ、扇羽千翅。お前の主人の所へ」


 どうなっているかもわからない、その一人の少年の傍に、初風は向かう。黒い蜻蛉、千翅に導かれ、彼女は奥へと足を進めた。




 黒と闇が蠢く中の、その外、祭りの賑わいの中で、カズは書類を認める。数人が本殿の中に入ってしまった。これ以上の意味の分からない事態を回避するため、本殿の外、入り口の前で、入ろうとする者を監視する。簡易テーブルはギシギシと煩く、長時間書き物をするには向いていない。

 その隣で、金髪の人形が、否、人形のような少年が、カズを見つめていた。


「あの」


 少年は恐る恐る、カズに言葉を投げかける。不安と不可思議の塊をぶつけられたカズは、なんだ、とだけ、ぶっきらぼうに返した。


「父上は、何をしにあの中に入ったんですか」


 父と示したのは、国津碑、その当主である。先程、カズはその本人を本殿へ笑顔で送り出した。そしてすぐに、この場所に待機所を作り、これ以上一般人が入るのを避けていた。その頃には、営業的な笑みも無くなり、疲れたような、少しの感情を含んだ顔に戻ったのだ。


「アイツは供物になりに行ったんだよ。月読との誓いを破った罰、そして、俺のために」


 正直な言葉を漏らすカズに、パイプ椅子を鳴かせながら、金髪の少年は言葉を詰まらせる。


「スティーブン。お前は気にしなくて良いことだ。俺の父さん……豊宮一姫が来るまで、ここで一緒に待っててくれ。来たらすぐに保護してやれる」


 カズはそう言うと、スマホの画面を見て、眉を顰めた。


「管理課もいるのか。少し厄介だな」


 それは、千寿香からのメッセージで、祭りを回り、監視している状況を伝えるものである。どうやら、管理課の一部が本殿へ向かっているらしい。本殿へ続く道、こちらへ向かう喪服を遠くに見て、カズは頭を掻いた。


「おう、管理課。悪いが今回は手は貸せないぞ。一般市民に影響があることでもないし、俺達だけで解決することだ……」


 管理課のその人間と目を合わせずに、そう言ったカズは、その雰囲気を視界の端に捉えて、言葉を濁す。


「あぁ。悪いな、豊宮本家当主殿。これはさ、一般市民がどうとかの仕事じゃないんだわ」


 燃える炎のような瞳、豊宮淳史が、カズの目の前で立ち止まった。すぐに顔を合わせて、カズは淳史に問う。


「神喰殺しが何の用だよ」

「観測機で、そろそろこの辺りに神喰が現れるって話が出てね。まあ、予測にのっとって、ここに来ただけだ。他の陰陽師は、いつも現れる大宮家の残骸の監視ってだけだよ」

「そうか。なら」


 カズが払おうとしたとき、淳史は、顔をぶつかりそうになるまで、急に近づける。にんまりと笑ったその顔は、どこぞのアキラのそれにも似ていた。


「でもさあ、ちょっと今日はおかしすぎやしないか? 他の宮家や毒花はどうした? あぁ、そういや、お前の従者が見当たらないな。何処にやったんだ?」


 淳史は懐の、小さな刃物をカズに押し付ける。動じないカズを見て、それに意味がないことは理解出来ているのだろう。だが、周囲に言葉聞かれぬよう、淳史は近づいたままカズに耳打ちした。


初風うちの孫は何処だ。まさか巻き込んでるんじゃねえだろうな」


 はあ、と、カズは溜息を漏らす。


「俺は巻き込んでない。でも、中に入った可能性はある。俺達が開いた門の中に、引きつけられた宮家が多い」


 厄介なことに、と付け足して、カズは治りかけの首筋を掻いた。淳史は珍しく怪訝な表情で、カズを見る。


「管理課としてじゃなく、豊宮淳史として本殿に入れてもらえないか」

「無理だ。これ以上儀式が不安定になっちゃ困る。樒だって、俺に無断で今日は消えたんだ。俺にも予測できていないことが多すぎる」


 淳史は舌打ちをして、カズと睨み合う。それが数分続いた頃、スティーブンが、あ、と声を漏らした。


「どうした?」


 カズが問うと、細い指先で、スティーブンは淳史の後ろを指す。


「あの鶏、何ですか」


 三人は共に、木の影、ひょっこりと顔を出した、鶏頭の男を見る。目が合うと、それはびくりと跳ね上がって、こちらに向かって走り出した。


「あ、お前何だ! ちょっと待て!」


 カズが止めようとすると、カクリと直角に曲がって、その男は開いた本殿へと飛び込んだ。それに伴って、カズも、淳史も、本殿へと体が何故か引き込まれる。

 一人残されたスティーブンは、虚空に手をかざしたまま、パイプ椅子から降りられずに、固まっていた。

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