底を焦がした

 レトロと言うのだろうか。以前に一夜が乗ったことのある、現実の電車よりも、今、乗っている電車は、昭和な雰囲気を醸し出していて、テレビに出てくる、そんな形状の車両を持つ。おかしな話、何処か懐かしいアニメの影響を受けていることが、よくわかる。一夜と海夜の二人は姉弟のように揃って、座席に座る。客はいない。確かに、貸し切りだ。座ってすぐに、ガタリと、地面と座席が動く。慣性の法則が、二人を同じ方向に揺らした。少し硬くて、座敷椅子のような感じの座席に違和感を感じながら、海夜と同じ方向を見ていた。外は次々に景色を変えて、白の虚無から、桜咲く田園へと、青を強調する海へと、滝囲む紅葉へと、三角屋根をアクセントとする雪景色へと。

 ただ、それが、何処か、やはり何処か、テレビ画面や画像でしか見たことが無いような、無機質なものだと思えてしまって、一夜は、身を乗り出してまでそれを見たいとは思わなかった。

「駅弁、買うの忘れちゃった」

 海夜が言う。だが、一夜は否定を論ずる。

「そもそも売ってなかっただろ」

「そうね」

 駅から作ってもらえれば良かった。と、海夜が言って、景色を眺める。目線は遠く、先が見えない。絵に描いた景色を眺めている気がしない。その更に先、何もない先を見ているような気がして、ならなかった。

「外に、外に出たかった」

 次々に咲く、海夜の独白。

「光廣……ミツが教えてくれる、景色が見たかった。家族で揃って、並んで座席に座って、流れていく景色を見るの。最初は電柱がいっぱいあるような、あぁ、私たちの街なんだなって思える景色で、それで段々、緑とか、紅とかの、自然の色が見えてくるの」

 でも、

「でも、初めからそんなの出来ないの、知っていたのよ。亥の島から、大宮家の女は出られない。そうやって、あの男が言っていたから。それが真実かどうかじゃないの。あの男が言っていたなら、最初から、私が外に出るなんて、出来やしなかったのよ」

 海夜は体を摩る。景色が、トンネルに入ったように、一気に暗くなって、固定される。車内の電灯が点いていなかったから、暗いまま、彼女は、どんな格好かもわからずに続けて行った。

「それに、私は海夜だから」

 フッと、蝋燭の火を消すような息が聞こえる。

「どんなに痛めつけても、どんなに穢しても、どんなに搾取しても、他に真であるものがあれば、気にされなんかしないわ」

 車内の灯りが点く。海夜の着物は、左前の死装束となって、白を誇る。死装束は、長い旅の衣裳だ。一夜はそれを思い出して、拳を握りしめる。

「俺から質問してもいないのに、何故お前はそんなベラベラ喋るんだ?」

「暇だから」

「自分で好きで電車出したくせに」

 そのまま、海夜は痛いところを突かれたというように、押し黙る。ぐっと、息を飲んで、彼女は謳う。それはそれは、綺麗に、清らかに。

「こんな、作られたみたいな景色、見ていて楽しくはないもの」

 赤い唇が揺れ動く。後悔のような、そんなようなもの。

「楽しくないまま、逝って良いのか」

 一夜の問いに、クスリと笑って、また、塞いだような笑みで、彼女が言う。

「ええ、逝ってからが、楽しいのよ。きっと、そうよ」

 遠く遠くのそのまた向こうを、きっと彼女は、見ているのだ。今以上を見続けている。実に、実に、足元を見ていない。彼女の傍で、彼女を待つ者を見ていない。それこそ、海夜が守っていた者は、海夜を欲し続けるだろうに。わかってか、それとも、知らずか、それは一夜にはわからないが、嫌に、海夜が、嫌がらせするときの自分とそっくりに笑うのだけはわかる。

「アンタは、少し辛いことがあったとしても、自由になりたいって、思ったりしないの?」

 海夜から、そんな問いが出たのは、彼女が一夜に答えて暫くのことだった。

「……元々、割と、自由だから。寧ろ、自由にしてやりたい奴はいる」

「あぁ」

 納得した、という雰囲気の声を、海夜が鼻から出す。一夜は、知らない彼女から、自分を知っているように言われたことが、少し、ちくりと刺さる。度々、そんなことがある。自分は知らないのに、相手は自分のことを知っているのだ。

「双子の弟って、そんなに大事?」

 海夜の、もう一つの、言葉。まるで、感情の籠らない言葉。

「どうせ、どっちかが居なくなったら、どっちかがいっぱい愛してもらえるわよ。真夜が言ったことなんて、気にすることは無いわ」

 本気で言っているのだろうか。それとも、おちょくっているのだろうか。どちらに傾いているのかが、まるで分らない。彼女は、一夜に同じネタで首を絞められている。それでも、殆ど同じことを言っている。今、起きている展開が、どう回るかなんて、理解しているだろうに。それでも、彼女は続けた。

「案外、一夕も、今は体が無いまま、好きにしているんじゃないかしら」

「黙れ」

 一夜が、ついに制止した。

「お前に何がわかる」

 我を忘れた、鬼の形相というやつだ。海夜にとって、その顔で迫られるのは二度目である。そのせいか、彼女は無表情に感情を抜け落ちさせたまま、動かない。

「一夕は、俺の弟は、異界で今、迷ってるんだ。遠くで、迷ってるんだ。俺の迎えを待ってるんだ。だから俺は、アイツを迎えに行かなきゃいけないんだ」

 感情が、揺れ動く。

「その筈なんだ」

 それ以上の言い訳が、何も出てこない。今から言う、海夜の言葉はわかりきっている。

――――どうせ、自分勝手だ、とか、言うんだろう。

 一夜は、そんな反論を覚悟して、唇を噛む。血が出た。鉄の味がした。

「……なら行ってみたら」

 ふと、海夜はそう言った。何を言ったのかわからなくて、一夜はきょとんと、首を傾げる。

「行って、聞いてみれば良いのよ。そんなに行きたいって思うなら。アンタ、自由なんだから」

 押し黙って、聞き入る。少女の歌は、清純だった。

「それから考えれば良いの。一夕をそのまま置いておくのか、一緒に帰るのか、一緒にそこにいるのか、一夕だけを帰すのか」

 純粋な考えだ。幼子のような考えだ。非効率で、合理性に欠けて、理想論で、突拍子もない。願望を体現して、ごみ箱に捨てて、それを拾い上げたみたいな、一夜にとっては不思議な音階。どうにもならない、不可解な歌詞。

「そんなことが、出来るんだろうか」

 一夜は、ストンと、乗り出した身を座席に戻して、無気力に言う。

「出来るんじゃない? アンタ、強いし」

 海夜の方が、一夜よりも随分と身勝手である。馬鹿々々しくなって、一夜は、クスリと笑って、重心を直す。背を伸ばして、自分の中を正した。

「昔も今も、泣き虫ね」

 海夜がそう、優しく笑って言う。一夜は自分の手で、顔を覆う。指先が、指の間が、掌の皺が、濡れる。口の中に入った水が、優しくしょっぱい。

「私の昔話、聞いてくれる?」

 嗚咽しそうな喉で、有無を言えない。それを続行の合図とした。

「昔ね、黒稲荷神社の夏祭りで、黒い髪の、小さい双子の兄弟と会ったの。二人揃って泣いていて、片方は膝から血を流してて。私達、助けなきゃって思ったのよ」

 自分の断片を探る。夏祭り、膝小僧の傷。夕焼けの中、つるりとした黒い髪に、赤い瞳を携えた、”二人のお姉さん”

「でもね、あのお祭り、人が多いでしょう。私達も丁度、迷子になってたのよ。その時」

 彼女らが、そういえば、ちょっと、泣きそうにしていたのを思い出す。

「見栄を張ろうってさ、思っちゃうじゃない。自分より小さい子が怪我して泣いてたら。それで、私達、話しかけたのよ、二人に。そしたら、片方の子しか、怪我してなくて、もう一人は何で泣いてるんだろうって聞いてみたの」

 自分の言った言葉くらい、覚えている。思い出したのだから、一夜は。口を一緒に、海夜と共に合わせて動かした。

「「弟が痛いから、悲しいんだ」」

 年の変わらない兄弟のくせに、と、海夜は言って、ケラケラ笑う。

「って、言ったの。覚えてたでしょ、やっぱり」

 海夜がいじわるそうに、言って、一夜の頭を撫でた。その手つきは昔とそう変わりなく、手そのものも、何の苦労もしてきていないような、綺麗な手だった。

「覚えられていないって、結構、来るものあるのよ」

「じゃあ、あれは半分本心だったわけだ」

 昨夜の、叫び声を思い出す。

「それどころか、真夜に向けた完全な本心でもあるわ」

 目をお互いに合わせて語る。虚ろで、きしくもそれが真実なのだとわかってしまう目。自分とそっくりだと、何度思っただろう。懐かしみ、聞く、少女の歌。

「私、やっぱり、真夜になり変われば良かったなあ……」

 きっと、それは可能だっただろう。真夜だとそのまま言い張って、誰かしら雇って、父親さえ殺してしまえば、きっと、彼女は十分にそのまま真夜として生きられた。彼女は金糸屋の当主になることが出来た。それでも、彼女はそれをしなかったのだ。

「お腹の中なんて、吸い出してしまえばよかった」

 海夜はそう言って、下腹部を撫でる。

「……戻れないよね、やっぱりさ」

 海夜は一夜に言う。一夜は俯いて、首を縦に振った。そうだよね、と、か細く言った海夜の声が、刺さって、抜けない。

「後悔、しないでよね。アンタは」

 次々に、彼女は矢を放つ。しかし、一夜はそれを受け止めて、はなさない。反応は、全て、脳味噌のどこかに突っ込んで、グタグタに煮込む準備をしている。忙しく、脳を動かした。

「……あのさ、これ、言っていいのかわからないんだけど」

 言葉を濁す海夜の迷いに、「何でも言えば」と、素っ気ない様子で、後押しをする。うん、と、頷いて、彼女は言った。

「アンタ、大宮家の中にも色んな役割がわかれてるって知ってる?」

 あぁ、と、一夜は息をついた。それを合図として、真夜も更に、息をするように言葉を吐き出した。

「本家の仕事は、大宮家が受ける恩恵を守ること。私達、金糸屋は、大宮家の情報を隠し守ること」

 大宮家だけではない。全ての宮家は、そういうふうに、自分たちの宮家を守る為に、屋号で家々を区別しながら、その役割をになっている。それくらいのことは、本家大元の当主である一夜は別に知ってはいることであった。

「情報は歴史よ。歴史は私達にとってとても重要。神代から現在に至るまでの記録を全て、金糸屋の当主になるかも知れない真夜だけは、知っていた」

 親から子へ紡がれるもの。それは、家によって違う。金糸屋では、本家と違って、歴史を受け継いでいく。

「でもね、入れ替わった後に、私、一つだけ聞いたの。『まだ教えてなかった』らしい話。帰ったら、真夜に伝えてやって」

 コクリと、一夜が頷く。

「良いけど、それ、俺が知っていていいのか」

 一夜が問うと、海夜は「不可抗力よ」と言って、続ける。

「宮家には、百五十年程前の歴史が、綺麗さっぱり、消えている。文献も、証言も、その歴史の存在さえも、時代に刻み込まれていない」

 一瞬、何のことかわからなかった。百五十年程前となると、幕末か明治か大正か。長く続く宮家の歴史から見ると、つい最近のように感じられる。その歴史が、無いと、海夜は言った。

「でもその時を境に、私達は完全な人間に変換されてる」

「まるで、俺達が元々人間じゃなかったみたいな言い方するな」

 一夜がそう言うが、海夜は気にせずに、また、言葉を起き連ねていった。

「宮家から角は消えた。獣の耳は消えた。翼は消えた。獣の声は小さくなった。人を食うものも減った。様々な色の鋭い爪は消えた。そして、私たちの持つ能力を持つ者が、一般人に現れ出した」

 いや、彼女は、最初から、宮家が人間ではないと言っている。そんな口振りだ。まるで、海夜の言う宮家は、魑魅魍魎の類である。

「空白の五十年間が、私達の先祖を人間に仕立てあげて、私達を人間として生まれさせた。そういう歴史が、あるのよ。それが、真夜が最終的に知るはずだった歴史」

 一夜の脳内は混乱をきした。自分たちは人間ではないのだろうか。人間に仕立て上げるなんてのは、一体どういう意味なのだろうか。宮家の人間は、本来それを知っているのだろうか。少なくとも、自分は知らなかった。歴史を金糸の如く紡いでいく、金糸屋の言う事を、一夜は否定出来ない。

「何を口をポカンと開けているの。初めて知ったとしても、それくらいは受け入れるべきよ」

「受け入れるも何も、突飛すぎる」

「そうかしら。私からしたら、今、平然と、死人と話してるアンタの方が突飛だけれど」

「お前だって、死人と話すくらい、やったことあるだろ」

「会話になったことないもの。普通の奴らじゃ」

「あぁ、確かに」

 一夜達が日常的に会話する死んだ者たちと、意思疎通は効かない。それは、死んでいるから、という概念が邪魔するからだろうか、それとも、一つ、世界を跨いでいる存在だからだろうか。理由は未だ、誰にもわかってはいないが、ただ言えるのは、今の一夜と海夜のように、死した存在と、生きている存在が意義ある言葉を交えるというのは、実際問題、不可思議の塊である。

 ふと、一夜は、不可思議の感覚に、海夜の存在への安心感を切り取られた気がして、その存在を確かめるために、真夜の手に躊躇なく触れた。

――――スッと、感触は無く、ただの冷たい水の塊に指を入れた感覚があって、一夜の指は、その小さめの手は、彼女をするりと抜けていく。

 そのまま、座席に指が触れた。

「……もう、降りるのか」

 乾いている指を見ながら、一夜は言った。

「そうね、飽きちゃったし。伝えることは伝えたわ」

 海夜は、立ち上がる。いつの間にか、景色は白くで固定されて、線路が何処までも続いていくだけで、もう、車両は動いてはいなかった。立ち上がりでふらつくことも無く、元気に、それは元気に、海夜は、プシューっと音がした、目の前の降車扉の前に立つ。振り返らずに、海夜は、開いたそこから、一歩踏み出す。トン、と、少しだけ力がかかったような音がして、そこから、足音がなる。

「あ、帰るときは、トンネルの中で降りてね」

 海夜の、独り言のような忠告が、一夜の耳に自然と入る。それでも彼女は、振り返らなかった。最後、血の色の瞳同士を見合わすのを忘れていたと、一夜は心の中で溜息を吐いた。

 ガタン、と、車輪が回る音がする。降車扉は開いたままに、電車は動き始める。ランプはついたままで、嫌に世界が明るくて、心内との矛盾に、嗚咽が止まらない。揺れと音との、リズムが、やはり、嫌に心地よくて、眠ってしまいそうだ。駄々をこねる赤子のように、一夜はその心地よさが不気味で、一人で泣き出してしまいそうだった。中々に止まらない、寂しさが、頭をガンガンと締め付けていく。


 そんな時だった。自分の座っている、座席の真正面に、目をやる。うっすらと、今にも溶けてしまいそうな様子の影が、自分と同じように、座っている。電車が進むほどに、それは僅かだが、濃くなっていく。一夜はそれを見続けた。それ以外に、変化する風景も無く、そして、それが、あまりにも、自分と似た体格であったから、影法師のようで、不思議でもあった。どんどん進む。どんどん濃くなる。音の変化も、風景の変化も、揺れの変化も無いが、その、『彼』は存在をはっきりさせていく。

「一夕……?」

 あまりにも、似ている。服装は、白く、自分と完全な鏡合わせに見えるが、うっすらと見えてくる顔立ち、瞳の色、髪の色は、自分と全く同じである。そして彼もまた、こちらを見ていた。彼は驚く様子もなく、無表情に、一夜を見ている。口を動かすことも無く、その場に、ただ、存在するだけのように見える。

「なあ、一夕」

 彼が、自分の弟、一夕であることなど、まだわからない。わかりはしないが、一夜は、暇つぶしだと自分に言い聞かせて、言葉を積んでいく。

「お前は、どれがいい。一緒にそちらにいた方が良いのか、俺はお前を取り残していくべきか、俺だけが残るべきか、二人で一緒に、母さんたちと暮らすのが良いか」

 今、幻影でも聞けるのなら、それはどんなにうれしいことだろうか。一年以上、聞けなかったその声を、聴くことが出来たら、それだけで、どれだけ素晴らしいことだろう。

 だが、影の子は、赤い瞳を輝かせて、声を発さない。発そうとしていることは、口の動きで理解できた。だが、まだ、「遠くにいる」らしく、全く、言葉は聞こえない。

「まだ遠いのか。俺は。まだ近くにいないんだな、お前は」

 そうやって、自分を納得させていく。まだ、見ていたい。自分と鏡写しの影に、話しかけていたい。ぬいぐるみに延々と投げかけ続ける子供のように、一夜はずっと、ずっと、声を出した。


「新しく友達が出来たんだ。真樹っていう、俺達より小柄で、子供っぽくて、弟が出来たみたいで、可愛らしいんだ」


 ずっと、ずっと、


「細好がな、成人してさ。成人式に行ったんだ。そしたら、あのカズに邪魔されて、それで、細好、すっごく成長して、大人になっちまってさ、龍を創り出したんだぜ。親父でも親には成り切れなかった、龍の親になっちまったんだ、アイツ」


 このまま、この電車に乗り続ければ、


「そん時にさ、新しく、守護者が出来たんだ。ちょっと意味わかんないやつだけど……結構良いやつだぜ。お前も……きっと仲良くなれ……る……」


 お前の声を、聞けるんだろうか。


――――頭が痛い。眠気のような、頭痛。体が暖かい。夕暮れになっていた、電車の外の世界の光が、妙に暖かい。眠くて仕方がない。必然的に横になる。それだけで、息が楽だ。正面に迎えている彼は、平然と、そこに座っているままだった。自分だけが異質な気がして、更に頭が痛くなる。

「ごめ……寝る……」

 意識が、遠のいた。目を瞑った先は、暗い暗い世界だ。いつ、トンネルが来るのだろう。いつ、世界が暗くなって、降りなければいけなくなるのか。それがわからなくなってから、自分の判断に、少しだけ後悔を示した。息が、止まってしまったような気がする。


 暫く、本当に、記憶が無い。夢の中では夢を見ないということか、それとも、それだけ疲れていたんだろうか。鉛でも腹に詰められたように、重く沈んでいくような感覚に襲われたことだけは、体が覚えている。

 ふと、目が開きかけて、あぁ、よく寝た、と、純粋に思ってしまった。そんなときに、自分が、暗闇の中に置かれていたのに気が付いた。そして、自分の頭と座席の間に、枕のような、人肌のぬくもりを感じる。また、頭をそれと挟むように、また、人肌の何かが、頭に置かれている。

「……誰?」

 一夜には、それが、手と、誰かの膝だということが理解できる。懐かしい、酷く懐かしい、温度。微妙に窮屈な形。

「一夕?」

 一夕と尋ねてみたが、そうでもないだろう。自分と似ている程、この肉は華奢じゃない。

「誰?」

 寝ぼけ眼で、何度も尋ねる。ふっくらとした肉が、何となく、それを女性のものだと思わせる。

 一瞬、海夜が戻って来たのかと思った。


「もう、夕暮れだよ。家に帰ろう」


 聞き覚えのある声で、それは言う。一夜は目を見開いて、転げ落ちるように、床に落ちた。背中が痛いよりも、驚きと、混乱が先走っている。体が、扉の前まで来ていて、そのまま立ち上がると、扉の前に、外を背にしているようだった。

「何でいるの!」

 外の、外界の喧騒が、現実味を帯びて、迫っている。トンネルは、少々の光によって、その無機質下限を露わにする。

「ねえ!」

 膝を貸していた、彼女は、彼女は、一夜の目の前まで、ツーステップでやってきて、その青い瞳を、一夜の赤い瞳と重ねた。

「帰ろう、一夜」

 一夜よりも一回り大きい彼女は、細好と同じ、父親と同じ色で、白い髪を長く背に垂らして、青い瞳を一夜の向こう側に行かせて、一夜を抱き寄せて、倒れる。あともう少しで、トンネルが終わる。一夜が眩しく感じた先には、赤い光がずっと瞬いていて、一瞬だけ外から、窓が、電車内が見える。一夜の真正面であった場所には、一夜と同じ、横顔が、無表情に、佇んでいた。


――――体が思うように動かない。白い、清潔感のある部屋で、一夜は目覚める。未だ、耳の中には、ガタリガタリと動いていた、揺れと音が残っている。

 手が、誰かに握られているのに気が付いた。

「おはよう、一夜君」

 羚が足元、目の前で、そう言って、一夜の目覚めを歓迎する。手を握っていたのは、ゲンの方であった。

「異界から帰ってきて、君、そのまま頭を机の角にぶつけて、血い流して、病院へゴーだ」

 そう笑って、羚が、おちゃらける。ゲンも、溜息をついて、良かった、と、ずっと、連呼する。肩から一気に力を抜いて、口が、パクパクと動いた。

「……一夜?」

 ゲンが、不思議そうに、一夜の顔を覗く。

「姉ちゃん……」

 静かに、一夜は言った。

「姉ちゃんが、帰って来る……」

 静かに、静かに声を落としていく一夜の言葉に、ゲンが驚き、羚が、少しだけ、眉間に皺を寄せながらも、笑っていた。

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