砂糖を持って

 ぬるりと、魚の体表面が腕や頬に触れて、気持ちが悪い。それは、蛇にも似た皮膚で、一夜の全身を覆う。中学制服をすり抜けて、皮膚に、直に当たった。毛穴全てを逆撫でする、粘膜。ふと、そのヌメヌメとした触感が消えたと思うと、パッと、目の前が明るくなる。白く濁ったその世界は、次第に暗くなって、長い、よくある貴族様の食卓のような机に、一夜は座っていると気づく。視界が良好になると、自分の席は、一番端っこの、お誕生日席のようなもので、その隣に、葛木が礼服を着て、共に座っているとわかった。半開きになっている葛木口から、彼の歯が、ギザギザで、普通の人間とはまた違う形をしていると知った。ボーッと、彼は、一夜の正面の先を見ていて、魂の抜けたようである。

「最後の晩餐」

 誰かの声で、一夜の耳元に存在する声。葛木の声ではないが、男の声である。一夜がよく知っている者の声である。しかし、その声の主は、一夜の視界にはいない。後ろも振り返ってもいない。不可思議だ。気味が悪い。

————奴が、自分の父が、いないのに、父の声が聞こえる。

「きっと独り占めしたくなる美味しさだ。口に入れたらそれで終わり」

 淡々と、一夜の耳に響く。

「やめろ、お前、何企んでるんだ」

 一夜がそう、冷静を装って言った。しかし、父の声は未だ解答は出さずに、一夜にやはり、淡々と言った。

「前を向け。上なんぞ見なくていい。涙なんざ、垂れ流しておけばいいんだ。お前は、早く前を見ろ。淘汰を止めたくば、その命を捨てたくば、前を見ればいい」

 ぐっと、目に力を入れる。長い食卓の先、葛木の目線の先。何がるのか、少し、わかりにくい。二つ、動く影を見た。あまりに幼い双子の姉妹が、二人、礼服を着て向かい合って座っている。座って、皿を前にして、片方が、その皿に大量の菓子を乗せて、もう片方は空の皿を見て、向かいを見て、泣き出しそうにしていた。少女達はおそらく、三歳か、五歳程度であろうが、頭につけている大きな赤いリボンで、あの、金糸屋の双子であることがわかった。

 胸が焼けそうな程の量の菓子を一人が、バクバクと平らげていく。何も与えられていない方は、指を咥えて、幸せそうに食べる自分の姉妹を見ていた。何度も、何度も、菓子は口に運ばれるが、一向に減らない。自分が食っても良いと思ったのだろう。与えられていない少女は、富む皿に、手を伸ばして、その菓子を自分の皿に乗せる。彼女が選んだのは、年頃の少女が選ぶにしては質素な、おそらくはシフォンケーキだろうが、その上に、たっぷりと、これまた甘ったるそうな生クリームが乗せられて、そのクリームが、鷲掴みしたときに、手に付いて、だが、それすらも気にせずに、彼女はそのスポンジケーキを口に運ぼうとした。

 が、その時だった。あまりべたついていない皿と、椅子と、生クリームを手に付けた少女が、共に後ろへ吹っ飛ぶ。

「お前に与えてなんかいない」

 冷静に、低く、唸る声で、それは聞こえた。少女の尽くを吹き飛ばしたのは、男の平手打ち。見たことが無い男だったからか、印象の非常に薄い男だったからか、すぐにはその者の存在に気が付けはしなかったが、その目と、髪色で、彼女らの父親であることがわかる。黒髪に、赤い瞳。大宮家たる理由。目つきは鋭く、ただ、顔面全体は印象に残りにくい。きっと、誰が話しても、そこまで深い仲にならない限りは、すぐに忘れてしまうだろう。そんな男でも、その大きめの手で放たれる平手打ちは強烈だ。小柄で、華奢な、少女の体躯は、三メートル程飛んで行って、当然のことである。

 ゴンと、頭を打った音が聞こえる。泣き出しそうだったのは、事実、泣き出す、という行為に移る。わんわんとずっと、泣き続けて。床で、可愛らしく、駄々をこねるような、痛みと驚きで暴れる内を抑えるような、そんな泣き方だ。

「……そんな泣き方、テレビだけだと思った……」

 一夜が唖然として、そう、口をこぼす。そんなのと同時に、もう一方の、菓子をがつがつと食い漁っていた少女の手が、止まった。

「海夜、どうしたの」

 皿の残りが、目立つ。席を立って、真夜が、海夜に駆け寄ろうとした。

「怪我しちゃったの? 見せて。痛いの無くしてあげる」

 ずっと泣き続ける海夜に、歩み、近づこうとして、真夜の体も、弧を描いて、飛んだ。

「残すなって言ってんだろ」

 唸り声。誰かから見た、その、少女たちの父は、ただ、悪魔のようであるらしく、その鬼の形相を、真夜に向けた。彼はやたらと大きな声で、理解の出来ない言葉を叫んでいる。しまいには、泣かずにただ微笑んでいる真夜をもう一度叩いて、覆いかぶさった。何をするのかが理解出来ない。一夜にはまだ、そんなのの理解は追いついていない。ただ、それが、恐ろしいことだとはわかった。真夜の上の男は言った。

「何故お前は俺に似ない。何故俺に似た子が生まれない。俺の血が半分入っているくせに。俺と同じ目のくせに。何故俺と違うんだ」

 そうやって、真夜の呻き声を掻き消して、真夜の訴えようとする叫びを両手で潰す。昨日、一夜が真夜にやったように、彼は彼女の喉を絞める。嗚咽が聞こえて、静かだ。海夜はただ、怯えている。叫び声と威圧に圧されて、何も出来ない。双子の姉を助けることも、助けてと叫ぶことも。ただ、ただ、父親が言う言葉が、自分にも刺さっているようで、怯えだけでなく、ただ、悲しいだけの鳴き声も含んで、彼女は泣いていた。断末魔の音は消える。共に、真夜の生命が、消えようとしている。一夜は動けない。動こうとしても、動けないのだ。

「未だ、生きようとする者は、ここでは動けない。ここには来れない」

 葛木が呟いていた。

「なら、俺は、生きようとしても、一個の人間としては、生きようとしていないから」

 はっきりと、彼は言う。言って、テーブルの、一夜の前にいつの間にか置かれていた、食事用のナイフをサッと取って、テーブルを駆ける。駆けた先、あるのは、残された皿の上の菓子と、下半身の痴態を晒して娘に被さる男。そして、顔の色を変えて白目を向く、少女。葛木は皿をぶちまけて、黒い着物を着こんだ、自分の主人の父の上に、立つ。立って、ナイフを、その、食肉を切るナイフを、首の筋に当てて、骨と骨の間に差し込む。ゴリっと、骨が剥がれる音がした。太い、脊髄の損傷。中心を断ち切る。

「え」

 回らなくなったんだろう。呂律が、消えた。声も消えて、おそらくは即死。倒れ込んで、その死体の下敷きになって、げほげほと、真夜の声が聞こえる。

「真夜ちゃん、真夜ちゃん」

 海夜が、涙を枯らして、ふらふらと体を持ち上げて、葛木と、父親の死体、真夜に近寄った。まだ声が上手く出せない彼女は、すっと、手を宙に置いて、海夜を止めた。

「来ないで」

 胸元が、はだけていた。よく見てみれば、真夜は、幼くはない。十五歳の、正当な、現実的な、葛木と同じ年齢に見える。同世代よりは大きな胸元が、露わになりかけていた。客観的に、その当事者ではない一夜には、何となく、これは、海夜だけが幼いのではないか、と思考の帰路に立つ。

「もう、それ以上私の事、真夜って呼ぶなら、契約書、私が書いちゃうわよ」

 脅し文句に、疑問符。一夜は首を傾げる。そこで、自分が動けることに気が付いた。彼女らは、一夜がどう動こうと、気にしない様子で、寧ろ、一夜何ていないように動いていて、その無視加減が、一夜には刺さる。しかし、一夜はそれをさらに無視して、高い椅子を降り、三人と一つに、近寄る。近寄ったところでわかったことは、真夜が、その手に、上等な紙に、シンプルな万年筆で文字の書かれた書類を持っていることだ。

「何言ってるの、真夜ちゃん」

 海夜が、幼い声で、震わせて、言った。

「貴女は真夜、私は海夜よ。契約書って何、何なの。私、聞かされてない。パパから、何も言われてないわ」

 青ざめて、少女は続ける。

「真夜ちゃん、どうして黙ってるの。私、貴女を怒らせたの?」

「いいえ、違うの。違うのよ、海夜。貴女が最後まで海夜でいるならば、私がこれを書き換える、サインをするってだけよ」

 真夜は、淡々と、答える。

「私、貴女の言葉、幾つも私を介して吐き出させてあげたわ。貴女にいっぱいいっぱい、欲しいものをあげたわ。貴女の都合の良いように、貴女を演じたわ。私、ずっと我慢したわ」

 ズッと、真夜は、足を前に出す。前に出す。前に出す。何度も出して、歩む。それはそれはゆっくりと、時間を長引かせるように、ゆっくりと。そして、海夜の前に立った。

「だから、最期の最後くらい、好きにさせて」

 海夜の手を引っ張って、前に付かせた。そのまま、這いつくばった海夜の手を、真夜は踏みつける。

「まず、そのクリーム、私のだから、食べたら許さないから」

 フッと、真夜は息を吸って、足をどけて、再び席に着く。

「貴女らしいでしょう。好きなことやって、好きなように生きるの。だから私、今は、好きなようにやるのよ」

 確かに、印象として、席に着く真夜は、真夜そのものらしい形をしている。海夜は静かに泣きながら、床にべったりと尻を付けて、葛木と共に真夜を見つめた。

「お菓子、お腹いっぱい食べたかったの」

 葛木が蹴り倒した菓子の山を指さして、彼女は笑う。無邪気な笑み。あの、数時間の日常で見た、意地汚そうな、シンデレラに出てくる義姉のような、そんな、作られている笑みではない。そして、真夜は手を広げて、一夜に顔を向けた。

「水族館に行ってみたかったのよ。生きた魚がいっぱいいるっていう場所に。だから、校舎を海にしてみたの。自分の名前が冠してる場所って、行ってみたくなるでしょう。どんなものか知りたくなるでしょう」

 一夜に言ったのか、それとも、彼女の後ろの、二人に言ったのか。

「当主様、貴方は、外に出たことがあるんでしょう。貴方は大宮家でありながら、亥の島を出れる。外の世界を知ってる。ねえ、聞かせなさいよ。外ってどんな感じ? 海ってどんな感じ?」

 迫る。彼女の放つ雰囲気が、ピリピリと痛い。ただ、それ以上に、一夜にとっては、一つのことに気が付いてしまったことが、一番に悲しくて、自分に重ね合わせて、静かに、涙した。

「……何よ、面倒な奴」

 眉間に皺を寄せて、真夜は言う。一夜が何も答えないと知ると、机に向きなおして、足を組む。ふと、一夜は口を開いた。

「……吐くほど食って、何になる。もう、一口食った時点で、お前、いくんだろ」

 真夜は目線をそのままに言った。

「そうね。だから、その前に、契約書、書かなきゃ。葛木、ペン持ってる?」

 葛木が、自分の胸元に触れる。少し驚きながら、自分が持っていたペンを、真夜に手渡した。否、手渡そうとして、真夜がペンを掴むと、そのまま放そうとしなかった。少々機嫌悪そうに、何度も真夜は腕を引く。しかし、葛木は手を離さない。

「……これを離したら」

 葛木は言った。

「これを離したら、お嬢、アンタ死ぬんですかね」

 冷静に淡々に言う。しかし、真夜はそれ以上に虚無に言った。

「電車に乗るだけよ。当主様とね」

「それなら」

 腑に落ちていないというのがよく分かる表情で、葛木は手を離す。ペンは、万年筆だったらしく、インクが床に零れて、真夜と葛木の手を汚していた。

「まあ、左前の着物を着ることになるでしょうけど」

 そう言うと、真夜は、空白になっていた場所に、『大宮真夜』と達筆な文字で書いて、葛木にたたきつける。

「光廣の事も書いてあるものよ。元々はそこのクソ野郎が書いた契約だけど、死んで、今現在真夜である私に所有権が移った。前にやった儀式的に、名前は自動譲渡されるから、私が居なくても、自動的に次の真夜に行くはずだから。よろしくね」

 自分一人で、彼女は決めていく。孤独に、彼女は自己完結を進めた。葛木は全く腑に落ちていない。聞いている一夜は、理解している。彼女が選んだ道が、何となく、把握できた。その、以前行われたという儀式も、どんなものか、簡単にわかる。

「……気が付いてはいた」

 葛木が、ふと、そう言って、真夜に渡された書類を読む。光で透けて、その紙に、葛木のサインも、光廣のサインもあるのが分かった。

「俺の契約は、大宮真夜の守護だ。ただ、何故か、両方にそれが、契約書の効力が作用していた」

 指で、海夜を指す。少し、機嫌が悪そうに、彼は言った。そんな声にも、真夜は動じていない。

「彼女は、海夜、という名前は冠していても、存在は真夜だ。真夜として生まれているからな。アンタは、真夜という名でありながら、存在そのものは海夜だ。真夜の、ストックだ。だから、両方を守ることになった」

 一夜は「契約書」の効力について知っている。契約書は、サインした人間同士での約束事が書いてある。その約束事は、絶対に守られるのだ。どんなにサインした者が拒んでも、それは絶対に守られる。絶対の呪術。一夜の祖先が作り出した、命すら簡単に捨てさせる、強者の為の呪術。その契約は、サインした者が死ぬまで続く。契約書に、サイン者の「譲渡」の宣言があれば、サイン者が死んだ際に、その所有権を移転されられる。

「たったの二年ちょっとくらいだったけど、よくそれでわかるわね」

 真夜がそう言うと、葛木はハハッと笑った。

「研修先が優秀だったんでね」

 ふうん、と、真夜は鼻を鳴らす。葛木の笑ったときの顔は少々、一夜には恐ろしい。尖った歯が、人間とは違う風に見せていて、本能的、動物的恐怖があるのだ。しかし、真夜は目を細める。

「私、アンタのその笑った時の顔、好きよ」

「それはどうも」

 合いの手を確認すると、真夜はもう一度、言う。

「海夜も多分好きよ、その顔」

「へえ」

「どうせ知ってるでしょ。さっさと断るか受け入れるか決めてやってよ。あの子が可哀相だわ」

「自分もでしょ」

「あら、わかってんじゃない」

「だから嫌なんですって。それに、俺みたいな野良犬に惚れる人は本当に見る目が無いって思ってるんで」

 でも、答えるならば。そう、前置きをして、葛木は、一瞬、悩むふりをして、一度、一夜をチラと見る。そして、もう一度、真夜を見た。

「アンタは嫌いかな。あぁ、大嫌いだ」

 だから、


「だから、行きたきゃ好きなところに逝ってください。好きなようにすればいい。俺達の事なんて忘れて、何処かへ逝ってしまえばいいんです。自由になって良いんです」


――――それは、言ってはいけない言葉だ。覚悟を更に深めないでやってくれ。生きていたものならば、その、生きた理由を、腕を引いてやってはくれないか。自分が、堕ちるから。

 一夜はそう、言いたかった。言おうとして、口が固まった。真夜の決心の表情が、自分の鏡写しと似通っていたからだ。抗う理由を落とした人間は、生の際で、いつもこんな顔をする。一夜は、床に落ちているケーキを見た。真夜の唾液の付いた、それだ。真夜が確かに、この死に近しい世界で食べたものだ。

「じゃあ、私、電車、来ちゃうから」

 真夜は立ち上がって、何処かへ行こうとする。白いだけ、濁った空間に、地平線、どこにあるのかわからない電車に、彼女は向かった。向かおうとして、その足を止めた。止めざるを得なかった。

「待って。海夜、待って」

 海夜であった彼女が、幼いままに、真夜であった彼女にしがみついた。最後のあがきだ。何も知らない者は、それしかできない。

「海夜、お願い。一緒にいて。私、貴女に背負わせたもの、全部背負うから、一緒にいて。一生、一緒にいて。お願い」

 泣きじゃくって。それでも声は通って。一夜はそれを傍観して。何もすることが出来ない。

「真夜、何か、勘違いをしているようだけど」

 真夜であった少女は、優し気に、それでも、真の通った声で、謳う。

「私がいなくなったら貴女が結局は、全部背負うのよ。私、貴女に全部置いてくの。貴女には、クソ親父の失態も、勘違いババアの妄言も、全部よ。全部、貴女に置いておくの。私が持って行って、リセットするのは、私の体だけ」

 彼女は下腹部に手を当てて、クスリと笑う。そこに何があるのか、一夜には明確にはわからない。ただ、一夜は、十三歳で子を産んだ人間を知っている。その人の昔の目と、今の彼女の目が似ていることはわかっていた。

「じゃあね。まあ、せいぜい、頑張って」

 真夜であった海夜は、海夜であった真夜を引きはがして、投げ飛ばした。その幼い体を葛木がキャッチして、真夜の体に傷は出来ないだろう。ただ、海夜の行く先が知りたくて、又は海夜が言ったことを実現させるために、一夜は、海夜の隣を歩く。黙って、歩いて、歩いて、葛木と真夜はこちらを見ているだろうか。振り返ってもそれがわからないくらいには、遠くまで、遠くまで、ただ単純に歩いて行った。リンリンと、鐘がなる。古風な、少々古びた箱型の乗り物。それが、振り返った一夜の後ろに現れた。海夜が、一夜の顔を見て笑った。

「貸し切りよ。楽しみましょう」

「あぁ、まあ、そうだな」

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