【理由なく、千の花が誇っても】

 説明のうちの、言葉選びは難しい。彼、羚は、思考を重ねて、理解しやすいように、文を繋ぐ。その説明を受ける対象は、一夜と、ゲンと、布団から上半身を起こした細好、リュウである。その周囲に不満そうな顔で佇むカズとその従者や、これは話が長くなりそうだと茶を用意する楓であったり、人形を膝の上に乗せる真樹、二匹でちょこんと座るクロとツバキなど、多くの面々がいた。興味を持って聞く体勢にある者もいれば、仕方が無いから聞いてやろうという顔の者もいる。さて、どれから言ったものかと、羚は首を傾げていた。その羚の隣には、一夜達が引きずり込まれた箱など、禍々しいものもある。

「さて、説明の前に、僕自身が説明をするために、こちらから質問してもいいかな」

 羚がそう言うと、少々不機嫌そうに、カズが首を突っ込む。

「こっちの世界のことは色々と教えただろ。俺が」

「いや、君に聞いたのはほんのちょっぴりだし、君は稀有な方だし、なんか胡散臭いから、君からの情報はなるべく却下だ」

「……そうかい」

 バッサリと切られる。それが何とも愉快で、一夜は半笑いで見ていた。

「そうだなあ、まず、宮家には異世界っていう概念はあるかい?」

 一夜に聞いたのだろう。羚の目は一夜に向いていた。

「無いとは言わない。実際、異界って呼んでる、別の世界に行くことは多いからな。ただ、お前の言う異世界っていうのが何なのかわからないと、どうも言えない」

「そうか。じゃあ質問の仕方を変えよう」

 フッと、息を吸って、羚は言う。

「一夜君、君は、君であって君じゃない君、という存在がいる、もう一つの世界があるって、信じる?」

 口が開きかけるが、それを途端に手で塞いで、飲み込んだ。何となく、あの、異界から入ったり出たりで見た、『弟』の時の話がリンクしてしまった。それを言うべきか言わぬべきかで迷う。しかし、一夜はそれも飲み込んで、一言

「信じる」

 と、声を張る。

「よろしい。それがまず前提にあるとしよう」

 教師のように、見た目に似合わぬ口ぶりで、一人称に似合わぬ態度で、羚は隣にあった箱を持ち上げる。

「今この中には、僕がカズ君と一緒に作った異界ってのがある。とあるオジサンに土台を用意してもらって、そこにカズ君が色々構築して、その上に、僕が彼女を召喚した」

 箱を思いっきり振る。中からは、がさがさという乾いた音と、女性の可愛らしい叫び声。

「彼女はヒカケ。龍王ヒカケだ。僕のいた世界では観測者と呼ばれる、世界を見定める者であった、完全たる人喰い龍。彼女は昔、人間との間に二つの種族を作った。僕らの世界でも、彼女はその種族の子を全て自分の子供だと思っている。いや、そう言っているだけの方が正しいんだけど、こちらの世界に連れてくるときに、ネジが飛んで、こちらの世界では、本当にそう思ってるらしい」

 振り続けて、女声、おそらくは龍王の「貴様!」「やめろ!」「振るな!」「酔う!」だのという叫びも無視して、羚は続けていく。

「彼女のネジはあっちの世界に戻せば戻るから、気にしないで」

 物理的にネジを飛ばしているのは、羚の方ではないだろうか。と、思いつつも、一夜は飲み込んで、まず聞きたいことを言う。

「こちらの世界と、あっちの世界ってなんだ。お前はこの世界の人間じゃないのか?」

 冷静に、言う。冷ややかで、誰も寄せ付けないような声。

「うん。そうだよ」

 羚は箱を振るのやめて、床に置くと、一夜と正面向いて、自分の指で自分を指す。

「知性ある全ての生き物を神刀人鬼と呼ぶ世界。そこで僕は一度死んだ。死んで、ここに送り飛ばされた。しなければいけないことがあったから」

 しなければいなけないこと、と、抽象的な表現を扱うことに、一夜は戸惑う。何かを隠しながら喋っているとすぐにわかってしまうからだ。

「しなければいなけないことって、なんだ」

 一夜の言葉にぴくりと反応を示す。だが首を横に振って、目を覚ますのと同時に、言った。

「言えることではないし、君たちに理解が示せることじゃない」

 だが、と続ける。

「だが、それに、大宮家に属するしかないってのは、関係する」

 大きな手振り身振りで、羚は声を張った。

「僕は、大宮家に協力してもらわないと、目的を遂行できない。これが遂行できなきゃ、僕以外の全ての存在に迷惑がかかる。それこそ一夜君だけじゃない。カズ君、ヒカケさん、細好君、リュウさん、ゲンさん、口無しだったアリス、真樹君、その他全ての生き物たちに、だ。君たちが生きていくために必要なことがある。起源も期限もない。けれど、僕は大宮家にしてもらわないといけないことがある。その時になったら、だけどね」

 羚は静かに言う。そして静かに目を瞑る。その隙に、カズが口を開こうとする。だがそれを、一夜が睨んで口を開けて止めた。

「お前に大宮家が必要なのはわかった。だけど、何でお前は直接俺達のところに来ずに、豊宮に行ったんだ?」

「僕がこの世界に来た時の扉が、カズ君の部屋の襖だったんだよ。宮家の各本家の屋敷は、色んなところに通じている。だから宮家の中の神隠しは多い。その扉が僕のいた世界に繋がっていても何にも不思議なことはない」

 そうでしょう? と、首を傾げて困ったような顔をして、羚は言う。確かに、そうだ。宮家の屋敷とはつまり神域である。神域とは別次元を踏んだ自次元である。ならば、異世界からやって来る時、宮家の屋敷を通じていても不思議なことは無いのだ。言葉を踏んで、羚は続けた。

「で、丁度それがカズ君が寝起きの時で、その前の晩使ってたらしいインク瓶をカズ君が驚いて倒して、僕は僕で血だらけだったからその血も畳に零れてて、畳代とやらを稼がねばならなくなった、というわけさ」

 畳代という単語で、カズに多く目線が行ったが、当の本人は知らん顔でそっぽ向いて黙っている。

「待った」

 ゲンが言う。

「何でお前血だらけだったんだ。というか話を聞いたら、なんか半分くらいお前不可抗力じゃないか」

 ベクトルの向きが違う質問を片付けるべく、羚はグッと眉間を寄せて言葉を選んでいた。しかし、言葉を発するより前に、細好が言った。

「……羚とやらは、殺されたか、自殺したんじゃないか。ナイフで。そして、羚自身はあんな見た目で、ナイフの扱いに長けているから、そういう世界何だろう。元いた世界は」

 世界とは業界的な意味でもあるんだろう。細好が静かに沈ませた声が、ざわざわと部屋を動かす。

「そうだなあ」

 羚が笑って、細好を見ながら頬を掻いて、目を細める。少し照れるように、口と頬を赤らめた。何か言うようで、言わない。口ごもって、本当に恥ずかしがって、言った。

「ちょっと戦場で、首はねられちゃって。その前に恋人が目の前で殺されちゃって体抱きしめてて、血だらけだったんだ。本当にね、嫌になっちゃうよ。結構気に入ってたんだ、あの服」

 最後の言葉は照れ隠しなのか、それとも本当の事なのか。わからないが、やはり、羚は何処か考える方向が違うのは確かだ。血液が零れて畳が汚される程度に血液を被っていたなら、確かに彼は戦場にいたのだろう。しかも、それが普通の世界にいたのだ。他者からの生殺与奪が平然と行われるような場所で、彼は生きていた。それが、態度でわかる。羚は暇になっている手でナイフを撫でる。おそらく、異界でも持っていたものだろう。

「それでまあ、畳代返済のために豊宮家で寝食やってたらその代金が差し引かれちゃって色々仕事貰っちゃってさ。おかげで、飼い殺しに合う処だった」

 ね? と、羚がカズを見つめる。カズは苦笑いでまた目線をそらそうとするが、そのそらした先には、一夜と細好がおり、どうしたら良いのだろうかと、ただ、正面を見るのみだ。

「でも僕は大宮家に行かないといけない。あぁ、大宮家っていうそれを知ったのは、カズ君に言われたからだけど、目的だけははっきりしてた。その目的を果たすべく、僕は今回のカズ君からの仕事と、駆けを受けた」

 ナイフを回す。ナイフは刺さりそうで、切れそうで、そのギリギリで、羚本人の細い指を避ける。

「仕事は簡単。細好君と一夜君が行く異界を箱で書き換えて、難易度をガンガン上げる。細好君に卵を作らせて孵化させて、分身を作らせる。賭けも簡単。その卵が本当に細好君の分身であったら僕の勝ち。一夜君の分身になってしまったら、カズ君の勝ち。僕が勝ったら僕はカズ君にどんなお願いもしていいことになっていた」

 その仕事の結果だと、彼は結論を付ける。箱を膝に置いて、撫でる。すると、その中か聞こえていた龍王の心音は消える。羚はその箱を床に滑らせて一夜と細好の間に置く。二人はそれを瞬間的に、本能的に開けた。

 そこにあったのは見たことのない魔方陣と紙切れ、一冊の赤い本。それが、異界を書き換えた術式の正体であったらしい。

「僕は賭けに勝った。細好君は自分で自分を選んだ。今回はハッピーエンドだ。次の物語を始めよう。そのために、僕は、大宮家に身元を持っていく。もうそういう契約は結んであるしね」

 契約とは絶大な権力がある。易々と口にするものではない。それは羚にもわかっているのだろう。最後の説得と説明の決め手に、それを使ったのは、そういう理由だ。契約だと言われてしまえば、一夜だって断る事は出来ない。

「誰に契約した?」

 一夜が言うと、いつの間にか二人の真ん中に居座っていた黒い獣が言った。

「俺だ」

 クロが、小さな獣の姿で言う。ツバキも共にやって来て、細好にすり寄る。細好の着物の隙間から、小さな龍が顔を出してキュイと鳴いた。それが合図だとでも言うように、クロが獣ながらに弁論を展開していく。

「一夜が寝ている間に俺が契約しておいた。こいつは俺達に協力するらしい。ならば俺達もこいつに協力しようと思う。そうすれば仕事も捗る。そうだろう」

 こちらが知らない情報も持っているらしいしな、と、付け足して、クロは一夜の肩に乗る。ふわりと、首元の安心感が募った。

「支援者もいるしね。金銭面は気にしなくていいよ」

 羚はそう言って、また微笑んだ。何処かで見たことがあるような、そんな真っ青な青い目が、光って眩しい。冷え始めた茶を楓が一夜に差し出す。受け取るのを忘れて、一夜は一瞬、カップを持ち損ねる。それでも、気を改めて、一夜はカップをしっかりと持ち直した。

「そうか。なら良い。どうせ部屋は空いてる」

 一夜は紅茶を飲んで目を伏せる。その様子を細好は観察していた。そのせいだろう、手元の紅茶に小さな龍が興味を示して、カップの中に飛び込もうとしていたのに気が付けなかったのは。


――――ぼしゃん。

 美しい透き通った赤に、龍が首を突っ込んで、暴れる。


「あっ馬鹿!」

 細好の幼い声が、更に甲高く、嗚咽を少々交えて聞こえる。紅茶を被って暴れて布団に体を擦りつける龍の名を、細好は叫んだ。

「――コウ! こら! 紅茶は染みになると落ちにくいんだ!」

 咄嗟に叫んだのだろう。その名前を聞いたことが無いというように、リュウや楓が目を丸くしていた。濡れる布団を軒先に投げて、コウを両手で掴む。コウは酷く驚いて怯えており、目を丸くしたまま細好が言う言葉を淡々と聞いていた。

「皆が真剣な話をしてる時に暴れないでくれ。しかも紅茶は色が付きやすいから女中に怒られちゃうしな」

 私は別に怒らないけど、と、楓が言うが、背に紅茶を被っていた一夜は少々不機嫌そうに、いや、俺は怒る、と唸る。ゲンが話が終わったというのを見越して、立ち上がって消えようとした。

「一夜。俺は今日帰るために荷物用意するから、人形の話とか、終わらせておいてくれ」

 ゲンがそう言って、自分たちの客室に戻っていく。楓とリュウは濡れた布団を片付け、羚は箱を畳んで、カズに投げつける。不機嫌に、カズが眉間に皺を寄せながら笑った。

「本は良いのか?」

 畳んだ紙の箱をもう一度開くが、そこに、本と紙切れはない。

「あぁ、もう返してもらったからね」

 舌を出して、馬鹿にしている様子で、羚は両の手に紙切れと本を持って嘲った。一枚上手の羚の様子に、上着を脱いで乾かす一夜は少々感心して、溜息を吐いた。その隣に、真樹は座りなおしていた。細好がコウを首に巻いて暴れているのを抑えようとしてる。それを眺めながら、真樹は言う。

「瑠璃はどうしよう」

 人形を一夜に見せて、困ったように真樹は言う。瑠璃の見た目は綺麗に治っており、ちゃんと瑠璃の声も一夜には聞こえる。

「百子さんに治してもらったのか」

 一夜が問うが、真樹は首を横に振った。

「見た目だけ、百子さんの旦那さん……細好君のお父さんにやってもらっちゃった。おやつにもらったアイスをあげたらやってくれたんだ」

 まずかったかな? と、疑るように真樹は言うが、一夜は

「いや、良い。あの人がいるとは、運が良かった」

 と、無感情に言う。その二人の会話に気が付いた細好が、コウの頭を指で撫でながら言った。

「その人形の中身なら、俺が手伝ってやらんことも無い」

 突然の申し出に、一夜と真樹は目を見開いて驚いた。

「……何をそんなに驚くんだ。一夜は俺を助けたんだ。それに対する礼を、俺がしなくてどうする」

 細好がそう言うと、一夜は喉を震わせる。

「……龍なんて創ったから、もっと傲慢になると思ってた」

「そうだな、龍はツバキやクロよりももっと上の存在だ。それを分身として創ったんだ。きっと誇れることなんだろうな」

「誇ればいい」

「誇れないさ。結局は俺は、お前に手伝ってもらってしまった」

 一夜は黙る。細好はそれを確認して、言葉を続けた。

「龍を出すということは、俺は戦わなくちゃならないってことだ。それを持つだけの覚悟を持てということだ。甘えてられないんだ。それなのに、俺は一度、覚悟を出すために、お前に甘えた。お前が問わなきゃ、俺はコウを生み出せなかった」

「そんなに言わなくても良いだろ」

「そうだ。言わなくていいはずだ。だから、本当に言わなくていいように、俺はお前を今回は助ける。借りを返すんだ。それだけのことだ」

 少年が大人になる。その瞬間を一夜は見届けたような気がした。自分が置いて行かれる気がする。しかし、それが寂しいとも思わない。その考えを感じ取ったのか、真樹が、瑠璃を細好の胸元に押し付けた。

「瑠璃は僕の家族なんだ。よろしくね、細好君」

 真樹の言葉に、細好がコウと共に答えた。

「あぁ、お前と話せるくらい、強くさせておく」

 受け取った瑠璃を撫でながら、細好は言った。細好が瑠璃に集中をしたせいか、コウが無理やり細好の視界に入った。

「俺も撫でろだってよ」

 一夜が代弁する。

「わかってるよ」

 細好がコウを指で宥めながら、言った。


 ゲンの準備完了を合図に、一夜はある程度乾いた上着を被って、立ち上がる。神域裏の屋敷玄関には既に見送る人々が準備をしていて、何だか、早く出て行けと言われているようで、心が痛む。

「じゃあ、瑠璃の修理がある程度終わったら、俺がそっちに行くからな」

 見送りに来た細好がそう言うと、周囲の者が少々驚いていたが、そんなことも気にせずに、一夜はあぁ、とだけ返して、クロの入った鞄を担ぐ。

「あら、クロは置いて行っても良いのよ」

 細好の足元にいたツバキがそう言うが、一夜は溜息を吐いて苦笑いで答える。鞄の中のクロが不機嫌そうに唸ったのが聞こえたからだ。それを見て、羚と真樹が笑っていた。

「羚の荷物はそれだけなのか」

 ゲンがポケットに紙切れをいくつか挟んだ手帳サイズの本と、ナイフを隠しただけの、身軽な羚を見て、少々心配そうにそう言った。

「まあ、着替えとかは明日には屋敷に届くし」

 冷静にそう言うと、ナイフをポケットから出し、これはバックに入れた方が良いかもだけどと、少しの心配を出す。そのナイフの刀身を見て、細好がふと、何かを思い出すように口に出す。

「そのナイフはお前自身が前から持っていたものなのか?」

「いや、豊宮家から頂いた。魔力が込めてあるから使いやすいだろうって」

 成程通りでという納得いったらしい顔で、細好が頷いた。

「刀身に掘ってある文字は一夜に意味を聞くと良い。結構面白いからな」

 細好がそう言って、残る荷物を一夜に手渡す。少々重い、ノートの束。

「母上がお前に依頼した分の仕事の報酬だ。母上が書いてくださった、柳沢邸に関する記述だ。相当昔のネタも入ってる。それで千宮が持っている情報は全てだ」

「そうか。ありがたい」

 無機質に答えると、つまらなさそうに、細好が眉間に皺を寄せていく。コウも尾をパタパタと揺らして、やはり、不機嫌そうである。気分がリンクしているのだろう。態度が丸見えなのだ。

「……お前はもっと愛想っていうのを覚えろよ」

「お前はもっと態度を隠せよ。俺に対して思ってることダダ漏れだぞ」

 細好の語尾のきつさと、一夜の言葉の選び方から、ゲンが、あぁ、また始まったぞと割って入ろうとする。しかし、それ以上の何かが起きる気配もない。何も、心配していることが起きないなと、ゲンが気が付いた。

「……豊宮はいつになったら釈放だ?」

 話題を変えてやり過ごそうと、一夜が提案すると、細好も乗って

「うちに持ち込んだものを全部提出したらだ。今日には帰れるだろう」

 と、静かに返した。それ以上言うことも、渡しあう物も無い。ゲンが荷物を持って歩き出した。羚がその半分を受け取って歩く。真樹が、一夜の着物の裾を引く。


「じゃあ、また」


 一夜が、再会の約束を置いて、振り返った。階段が、幻術を解いて、数段だけになっていた。その下に、バスがもう来ている。三人から四人になった男衆は急いで走る。細好が、振り返って、廊下を歩いて行った。




 一夜の故郷、現在住んでいる、亥の島は、夜は街灯があれど、昼間よりも暗い。神社は特に神域の森で囲まれているため、暗さが人間を寄せ付けない。屋敷に光が灯っていて、それが、酷く安心感を呼んだ。きっとテトリンがいる。そう思って、暗さで黒く見える鳥居を潜った。

「ただいま」

 一夜がそう言って、屋敷の玄関に足をつく。他の三人も、玄関に荷物を置いて、靴を脱ぎ始める。しかし、その返事はいつもの女性らしい男声だけではない。

「おや、お帰りなさい」

 柔らかい若い男の声。一夜と真樹は確実に聞き覚えがある。いや、それに足して、羚も絶対に聞いたことがある声だ。

「……何でいるんですかね。樒せんせー……」

 皮肉と苦々しさを足して足して割って割って、もう訳が分からなくなるくらい、煮詰める。

「いえ、ね? こちらもこちらで色々とありまして。異界での傷や心障を治すには、この家がばっちりだということで、ヒヨ君と伏子さんと話し合って、使わせていただいております。まあ、まあ、テトリンさんにも許可は頂いておりますし? お夕食も用意させていただきましたから、そう怒らずに」

 何があったのかは知らないが、どうやら、一夜の知らぬところで何か事件でもあったらしい。異界という言葉はもう、暫くは聞きたくない。

「あ、そう」

 それだけ言って、一夜は居間に向かう。そこには食事の用意をするテトリンと、それを手伝うヒヨとフセがいた。ふと、ヒヨの周りに蝶が舞っているのに気が付く。その蝶は襖に描かれている赤い蝶に似ていて、首筋を撫でる。

「ヒヨが異界に行って、分けて来たの」

 フセがそう言って、一夜が座るべきところに座らせる。上着も剥いで、洗濯場に放り投げた。

「色々あったのよ。聞かないであげて」

 宥めるように、実に、いつもは殴り合いのような口喧嘩をしているような仲だとは思えないくらい、フセはヒヨに気を使っているようである。それを察して、一夜は開きかけの口を閉じた。

 目の前には天ぷらと、急いだのだろう、丸く整ってはいない、まだ季節には早い素麺。麺つゆは好きなものをとれという、実に大雑把な方式だ。

「おや、羚君。若に勝ったんですか」

 樒がそう言うと、部屋に入ろうとしていた羚はにっこりと微笑む。

「うん。明後日から、佑都さんと同じ中学校です」

 つまり、羚は既に、一夜達と同じ中学に行くことを決めていたらしいのだ。それを耳元に聞いて、一夜と真樹とゲンは畳に足を畳む。

「羚って何歳なんだ」

 ゲンが問いで、皆を座らせる。談笑に入れば、否が応でも席につかなければならなくなるからだ。テトリンは手際よく足りないものを冷蔵庫から取り出して、残りのヒヨと共に座った。

「僕の年齢? 早生まれの十四歳さ」

 何の怖気もなく、羚は自分の目の前にあった箸で麺を掴んで麺つゆにつけていく。放っておけば全て無くなるような気がして、一夜達は急いでそれぞれの器に取り始めた。

「なら三年生ですね……それにしては、身長が高すぎる気がしますが」

 樒がそう言うと、羚は笑って返した。

「そうかなあ。この世界の人たちが平均的に小さすぎるだけだと思うけど」

 樒とゲンが啜った麺を噴出しそうになるのは、二人が高身長が故だろう。傍で一夜と真樹が泣きそうになりながら麺を啜っていた。フセとヒヨは目をそらして、枝豆を食む。話を逸らせるテレビのリモコンは何処だと、テトリンは懸命に床を捜索していた。

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