龍の旅路を
「つまりどういう事だ」
「つまりそういう事なんだよ」
細好と一夜の、語彙の少ない問答は、まるで進まず、どちらとも理解を進ませる気も進める気も見られない。半分呆れて、ゲンとリュウがその様子を見守るが、龍王はしかめっ面で細好の言葉に援護を続けていた。それを邪魔だと何だと何度も制止しながら、一夜は話を続けた。
「卵が無いなら創るんだ。お前はそれが出来るんだから」
でも、という細好の言葉をゲンが制止する。
「選べっていうのはフェイクか」
「いや、創るってのは、幾つもの選択を経て、完成までの道を辿る行為だろ? そういう意味での選べってことだと思うんだ。どんなものを得たいのかっていう、選択。用意されたものを選ぶんじゃ、ただの博打だし」
博打という言葉に、細好が一瞬、震える。何故震えたのかは、一夜とゲンには簡単に理解が出来た。しかし、用意されたものを辿っていくという事を知らぬ二人には、何という言葉をかけるべきかがわからない。
「……とりあえず、現状として、目の前に使える卵がないんじゃ、そうやって、創造の能力を使うしかないのかもな。寧ろその方が、らしい儀式だ」
ゲンがそう言って、細好の背を摩る。すると、背を摩られる細好の顔が、少しばかり色を取り戻した。フッと、人仕事終わらせたように、ゲンが息を吐く。それと同時に、細好もまた、長く浅い息を出し切る。
「何をしたんだ?」
龍王が、少々不安げに、隣で共に見ていたリュウに問う。
「力が通る回路を修復した。能力を使い続けていると、それに必要な力を外に出す為に、回路の中を力が動き回る。するとその勢いで回路が摩耗したり、所々切れてしまう。それを治すことで、少しばかり体力が戻ってくる」
リュウが龍王へ説明をしているのを他所に、細好は既に、その手の中に光の塊を創り始めていた。
――――練習をしたからどうすればいいかはわかる。
だが、かなり不安ではあった。どんな卵を作ればいいか、自分でもわからないからだ。自分がどんなものを作ればいいのかが、わからない。焦る。光が壊れる。それの繰り返し。また、再び、治してもらった回路が傷付くのがわかる。そして今度は、上手くやらねばならないという罪悪感に駆られる。完全な悪循環の完成であった。
「…………」
その様子を一夜は当たり前のように見つめる。ただ、ただ、焦るなとも言わず、ちゃんとしろとも言わず。ゲンも同じく、しかしながら一夜とは違い、そっと背にもう一度手を出そうとした。だが、それを一夜の腕が止めた。ゲンの手を払うと、一夜は細好を見て言う。
「大きさはどうしたい」
ビクリと、細好の肩が震えた。
「……小さくていい……生まれてから大きくなればいい」
細好が無心に、答えた。それを、そうか、とだけ返して、一夜は続ける。それに細好は対応していく。
「色は」
「俺は白が好きだけれど、なんか弱そうだ。赤色がいい」
「形は」
「鶏の卵みたいな。手に収まりやすい形」
「柄つけたいか」
「イースターじゃないんだ。シンプルでいい。いらない」
覚悟を決めるが如く。全てを自分で決める。誰かに指図はされない。自分の意思で、自分の感情に即して、訴えるのだ。自分はどんな卵を孵したいか。自分を作り出すように、彼は黙って、瞼の裏で目を回す。夢心地に、現実と現実ではない場の狭間にいるように。自分が何処にいるのかわからぬように、逆に、自分で自分を探すように促す。そうすれば、他覚から、自分を知覚できる。自分が何者か、自問自答を形式化できるのだ。
「殻は硬くあれ。誰にも傷付けられないように、自分以外が割ることなど出来ないように」
まるで、自分がそうありたいと言うように、細好は言った。手元に、硬い丸いものが残る。手で撫でて、硬い殻の感触を楽しんだ。
「ハッピーバースデー、細好君!」
少年が笑う声が、すぐ側で聞こえる。既に臨戦態勢であるリュウ。ゲンがそれに続いて、少年を押さえつけようと組付きの姿勢をとっていた。だが、細好と一夜が、同時に、やめろと言って二人を止めた。少々驚いた表情で、二人はその姿勢を解き、それぞれの主人の後ろにつく。龍王と言えば、少年を睨み、腹の底から出すような声で唸っていた。
「よく出来ました! 一夜君に手伝ってもらったとは言え、合格合格。上手く能力を操って、それだけ創った。さあ、あとはその綺麗な殻を壊してあげるだけだ。殻が壊れて中の子が出てくるまでが課題だよ」
さあ、と、とっととやれと急かす。少年は何かが欠落した笑みで、そうやって、祝福するように、貶すように、細好の持つ卵を指で突く。
「触るな」
怒りの声。細好が今まで出した中では最も低く、少年のそれではなく、大人の男の声。先程まで出ていた、可愛らしい少年の声が清純であるならば、今、発した声は、獣且つ、父性を象徴する。声を音としてだけで聞けば、ただ、変声したようにしか感じられないが、それに含んだ要素を拾い上げれば、その成長の仕方が伺えた。
「わあ、びっくりしたなあ。そんな声出るんだ」
少年が笑う。細好は唸る。
「黙れ。お前に触られて何があるかわからん」
「うんうん。それもそうだ。けれど君はどうやってその卵の殻を割るつもり? 創り出すことしか出来ない君が、どうやって自分が創ったものを壊すの?」
「それは……」
幼い子供の声に戻る。弱々しい、清らかな声。それで覆い包んで、細好は元の華奢さが目立つ、潤んだ少女のような雰囲気へと逆転する。
「答えは一つだけでしょう? 隣に、破壊を専門にする子がいるんだから」
ねえ、一夜君。と、少年は付け足す。だが、一夜は黙ったまま、何も言わず、手で卵を守らんとする細好の小柄な体躯を見て、吐き気を誤魔化し溜息を吐いていた。返事も、問いも、誰にも必要は無いと悟ったからだ。守護者二人と、龍の王が細好一人を見つめていた。
「殻を……」
ぼそりと言う。
「殻を外から壊すのは、卵を食べるときだけだ」
心底驚いたような表情で、少年が、答えを提示した細好の目を見た。はっきりと、確信している。正解はそれだと、自信に満ちている。軽快な口で、音を発した。
「孵すなら、産み育てるなら、待つのだ。この子が自力で、中から殻を突いて割るのを。割れるだけの力を、体を与えて。そうやるのが、誰かを成長させる側に立った時、一番に必要なことだ」
細好の解答を聞くと、少年は、晴れやかな、喜怒哀楽の喜びを謳う。抜け落ちた表情であった、貼り付けた笑みは、自然的な、思春期真っ盛りの少年らしいものとして浮かんだ。頬を紅潮させて化粧をしたように赤く染まる。紅を指したように、人形に命が宿るように、少年に色が入る。それを瞳に写して、一夜は心底美しいと思った。
「正解! 正解だ! 勝ったぞ! 僕は賭けに勝った! 君は最高の花を摘み取った!!! 実に喜ばしい!!!」
先刻の、一夜のように、狂ったように、少年は叫び笑う。誰に勝ったのか、そんなことはわからない。ただ、ひたすらに、少年は、皆の前で高笑いを続けた。
――――ピキリ。
卵の殻の、割れる音。世界の崩壊する音。全てが溶けて揺らいで、陽炎、蜃気楼のようになくなる音。
――――ピキピキピキピキ……
細好の掌に、卵の殻の破片が散らばる。子供が顔を出す。誰も声を出していかぬうちに、少年の高笑いだけを置いてけぼりに、音を落とす。世界が終わる。花が散る。少年たちが地に落ちる。龍の女が、独りだけ、崩壊する世界の中で、立って泣いていた。安心しきった母の顔で、涙を流して微笑んでいた。少年たちを見下ろして、口パクをして、伝わらずとも良いと、言葉を紡いでいた。
『あいいえう。おうあ、いああえい』
口の動きだけで、おおよそが伝わった。何が言いたいのか、理解できてしまった。彼女が何者か、理解できてしまった、一夜がいる。
「――――あぁ、大丈夫。アンタの子供たちは絶滅なんてしやしない」
今日は皆で堕ちていく。世界が反転していく。気分は、いつも通りの曇天であった。
そしてまた、風車の音が聞こえる。
目を開ける。自分が立っていることに気が付く。白い地平線と赤で彩られる世界。赤は曼殊沙華と風車の群衆。その真ん中、黒装束の男性。二度目の来訪。一夜は覚えていた。この不思議な感覚を。
「やあ、やっと来たね。兄さん」
赤い角と黒い髪、ひっかいたような顔の赤い模様。その鬼は笑って、手に持ったティーカップを一夜に差し出す。それを一夜は手で追い返す。
「すまん。また、時間が無いんだ」
実に残念そうに、声を発する。自分の声であって、自分の声ではないようだ。そう感じて、一度、一夜は目を瞑る。今日は違和感しかしない。違和感が波を作って襲ってくる。悪夢のような感覚が、足先から手先まで全てを覆う。
「大丈夫か、兄さん。気分が悪いならそう言ってくれ」
「あぁ、いや、違うんだ」
「何が違う」
少々、苛立っているような声で、鬼が言う。
「そんなにもふらついて、何が違うだ。休むなら休まねばならないだろ」
眉間に皺を作って、らしい顔で、鬼の形相。それが心配から来るのだと知っている一夜は、ハハッと笑った。
「笑い事じゃない。今日は実に危なかったじゃないか」
はて、そうだったか。と、ふと首をかしげる。如何せん、その日の半分くらいは自分が何をしていたのか、思い出せない。答えをばらまくことは、出来ないのだ。心配させることも出来なければ、安心させることも出来ない。その不甲斐なさに、すまないとだけ返して、黙る。
「全く。親友に再会できたからって、重要なことを見間違えないでくれ」
親友という言葉。首はかしげられない。また、知らないのに知っていることらしい。
「ヒルコは何回、稲荷山羚で生を受けるつもりなんだろう。いい加減、あんな誘惑するためだけみたいな姿、やめて欲しいもんだ。兄さんを誘惑してどうする気だっての」
カップの中身を啜って、鬼は不機嫌そうに言う。不思議そうに、何故そんなことを言うのか、という感情が芽生える。その言葉を吐き出したくて、もんどりうって反論したくて堪らない。
「……あいつはそんなに悪いやつじゃないぞ」
ふうん、どうだか。と、鬼は主張する。
「自分を犠牲にして他人を守るのはいいさ。でもそれに勝手に兄さんを巻き込むのは実におかしな事だ」
「まあ、でも、俺、自分で、アイツの手助けするって決めてるし」
いつ決めた? 自分で? 一体、いつの自分が決めたのだろう。それもわからず、理解出来ず、それ以降、何も言えずに黙りを決め込んだ。思考が溶けている。実に、不安要素しか残らない状態。体は軽く今にも動き回りたくなるというのに、気分は異常に冷静で、感情が情緒として動かない。
「……そう、それならいいんだ。それなら、兄さんがそう言うなら、それで
悔しそうに、鬼は言う。何故だか、不機嫌そうに。その不機嫌さの原因が、自分にあるのか、それ以外にあるのかが、重要で、必要性の高い答えだとわかってはいる。しかし、それがわからないままで、一夜は目を瞑った。
「もう行くのかい。兄さん」
鬼の声が耳に入る。目を瞑って暫く、その声が遠ざかっているのに気が付いた。
「あぁ、もう結構、時間食ったから」
振り返らずに、現実を肌に感じるまでは目を開けずに、暗闇の中を走って動く。少し隣に、同年代くらいの、二人の人型が通った気がしたが、それを自分の未来に託した。走る。外へ走る。そこがもう、身を投げた卵の世界ではないことを知っているからだろうか。一夜はズンズン、行先も知らぬままに走っていった。
肌に、風を感じた。目を開ける。板張りの天井。騒がしい外。傍で転寝する、金髪の青年。
「今何時だ?」
一夜は寝ぼけ眼に訴える。ゲンが目元を擦りながら、いつも通りの調子で、低音を響かせた。
「おう、起きたか」
ずっと座って、傍にいたらしく、痛そうに尻を摩った。ジャンパーは着たままで、フードで輝く髪を隠す。それを下から覗きながら、一夜は淡々と質問を重ねる。
「異界にいたのはどのくらいの時間だ? 俺が寝ていた時間はどれくらいだ? 他の奴らはどうした?」
その質問にストップをかけるように、ガラガラ声に滲み出す鉄の味を止めてやるように、ゲンは一夜の唇に人差し指を当てた。その仕草は、以前、百子が我が子の細好にやっていたような、そういうものであった。
「唇切れてんぜ。よくもまあ乾いた喉と口でそこまでホイホイ喋れるよ。丸々二日間も深い眠りについていたんだ、お前は。俺とリュウは意識があるまま帰ってきたが、そんときゃ、儀式の日からもう四日は経ってる夜だ。お前も細好も起きねえまま術式の中から出て来てよ。気が付きゃリュウが大騒ぎだ」
そうして、親指で外を指す。半開きの障子の奥には、淡い月明りがさしていた。上弦の月が昼の光に照らされていた。さしていたのは、太陽の温度だったのだ。一夜はかかっている布団を脱いで、白い寝巻のまま、縁側に出る。
「細好はまだ起きない。真樹はお前を心配しながら屋敷の色んなところを回ってやがる。特にアイツんとこを重点的にな」
苦虫潰したように、ゲンが言う。余程嫌いな相手なのだろう。唸り声がただただ飛ぶ。殺気が満ちて、少し、いつも通りと言う感じがして、心地がいい。
「あぁ、そうだ」
一夜が呟く。
「あの眼帯野郎は何処だ? それと、豊宮の連中はもう名乗り出てるか?」
眼帯野郎という言葉にびくりとしながら、ゲンは口を開く。
「あの野郎は豊宮と一緒にいるよ。そんで、その豊宮は屋敷の離れの方に隔離中だ。何しでかすか知らんからな。あの魔女の子と悪魔は」
ふうん、とだけ言って、一夜は歩く。心音を頼りに、自分と両岸に立つ少年を探した。眠っている、細好の隣に、弱々しいながらに潜む、親を呼ぶ声を聞きつける。それが卵の中からのものだと気が付いたのは、実際に、細好の眠る部屋に入ってからの事であった。
「…………」
独りで、何もない広すぎる自室で胎児のように身を小さくして眠る、細好のその手の中には、潰さないように、空間が創られ、その中に、卵が、異界で作った卵そのままが入っていた。コツコツと音がする。もうすぐ、外に出よう。外から殻を壊すことはしてはいけない。寝相の悪い卵の親に、はだけた布団を掛けなおして、立つ。
「俺が世界の全てを壊せるのなら、お前は世界の全てを作れるんだろうな」
羨ましいことだ。と、静かに心に落とす。言わないふりをして、実際に口には出さない。頭の中で中和して、憎たらしい眠り小僧を祝う。暗に、君は対等だと、祝福した。
ふと、細好の傍にリュウがいないことに気が付く。不自然に思いながら、離れを目指した。その後ろから、パキリと殻の割れる音が聞こえる。しれっと無視して、新たな、懐かしい心音と息遣いを辿る。背筋をゾクゾクとなぞる冷たい息。後ろにいないのに、後ろに、いつでも傍にいるような感覚。自分が彼を考えてしまうと、彼が後ろに立つようだ。
ギシギシと、不安な音が耳に入った。母屋より少しばかり古いその建物類は、あまりに質素で、客人を持てなすようなものではない。空気の重さが、だんだんと重く重く鉛のようになっていった。目的の障子の前に立ち、目を一度瞑る。シュミレーション。どうやったらどうやる。その咀嚼。意を決して、目を開けて、一気に障子を開けた。
「ひっさしぶりだなクソ野郎」
腹の底から、龍の咆哮のような声を上げた。一夜はそれも飽き足らず、そこにいる、ニヤニヤとこちらを笑ってくる茶髪の少年に暴言を落とし続ける。
「よくもまあ殺しかけてくれたよ俺らを。勝手に儀式の内容変えやがったよ。ほんとにクズだなテメエ。四年前から変わることを知らねえ。本当に腹立つお前。樒先生が主人をクソだクソだって言うはずだ。お前が主人なんだもんなあ」
止まらぬ。もとより乾燥していた喉が限界を迎える。咳き込んで、跪いて、それでももう一度、立ち上がって、指をさす。
「豊宮和姫。お前、何のために細好の儀式をぶち壊した。お前の欲しいものはなんだ」
名を呼ばれた少年が、座ってニヤニヤしたまま、一夜を下から見上げて、口を動かす。茶髪と紫色がかったの黒目。日本人ではなさそうな、そんな見た目と、異質な雰囲気。和装こそしているものの、どちらかと言えば、顔立ち的には、洋装の方が似合うだろう。ケタケタと少年は笑う。
「フルネームで呼ぶなよ一夜クン。カズで良いんだぜ。姉ちゃんと兄ちゃんからの仲だろ? 何、落ち着いて茶でも飲んで喋ろうぜ。ね、楓サン」
いつの間にか座敷の中でティーカップを手に持って正座していた楓を見やる。その前には、黒い布を垂らして顔を隠している女性と、その隣の山羊の頭の男。部屋の隅にいるのは、異界で散々暴れまわった黒髪青目の眼帯の少年と、リュウが対峙して動こうとしていなかった。異質なその空間の中でもマイペースに、楓はティースプーンを煽る。
「あぁ、喉に良いブレンドを作っておいたから、飲んで頂戴ね、一夜君。あ、カズ君は氷でいい? そうだったら用意するわ。あ、お水で良いんだったら裏の池で飲んできて」
「楓サン地味に怒ってません?」
カズの言葉に、楓は薄らに笑って、それでも目は半分睨みつけた形で、その身を一夜の傍に寄せた。
「はちみつ入りの普通の紅茶だけど、今日はそういうののほうが良いかと思ったの。ミルクも入れましょ。ちょっとね、のんびりすることを忘れないで。この通り、カズ君はこういう子だから。従弟だもの。よく知ってるのよ。よく分かってるのよ。正真正銘のクズってね」
「すごーい。ディスり方が結構心に来るー。一夜クンと俺と対応の差が結構グサグサ来るー」
おふざけの延長戦のままで、カズは言った。もう、どうでも良いことしか喋らないとおっぴろげている。もう、そもそも一夜にはカズの話を聞いてやる気は無いのだ。不意に、眼帯の少年の方を見る。彼もまた、紅茶を飲んで、にこにこと一夜を見ていた。
「すごーい。嫌われてるねえ。お客様」
少年が言う。お客様と呼ばれたカズは、ハッと鼻で笑って口角を下げる。
「口閉じてろ、羚。まだ契約は終わってないぞ」
少し考えたふりをして、少年、羚は肩を下げた。その様子を睨むのは、リュウと楓。そして、動きをあまりとらない、顔隠しの女性が声を発した。
「若。時間。私、もうすぐで定時なんでさっさと用事終わらせてください。あと卵、もう孵ります。というかさっきから聞こえてる声的に、多分孵ってます。あと定時なんで私さっさと帰ります」
定時は大事ですからね。と、女性が言った。それを何とも微妙な表情で、カズが見た。だがそれを止めるでもなく、仕方ないというように、カズはどうぞとだけ言う。どうも、うまくいっていない主従関係を傍から眺めつつ、一夜は、本物の龍の咆哮を、先程までいた母屋から聞きつける。それを聞いたのはその場にいた全員で、一夜以外、そして、羚以外の者が皆、驚いた顔で、母屋の方を見た。
「うっわ、本当に龍を作ったのか」
カズが。実にまずいといったように、声を震わせて言った。その耳に、気配を殺していたらしい羚が、両の手を当てて塞いだ。驚いたカズは振り向こうとしたが、羚が頭を固定しているのでそんな事は出来ない。
「だから言ったでしょ。賭けは僕の勝ち。契約は終了。担保は全部返してもらって、僕の身元は豊宮ではなく大宮へ持っていく」
少女と少年の混じった羚の声が、一夜に聞こえた。腑抜けた、へ? という一文字の問いが、一夜に立場を与え、訴える場を作る。
だが、羚は
「ではよろしく。一夜君、よろしく。説明は今から」
と、誰もかれも置いてけぼりにして、心底嬉しそうに、その体を幸せで満たして、カズから手を離した。
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