【花が咲き、遷移の元を断ち】

「おーい」

 聞き覚えのある声が、一夜の耳に届く。虚ろで白い世界の記憶が反芻される。いや、この声はその世界で聞いた声ではないと、頭を振ろうとした。が、後頭部で何かが当たって、どうも上手く動けない。皮膚の感覚をもう一度。冷たい触感。酷く懐かしい土の臭いが、体を動かしてすぐに感じられた。現実の香りに、数秒、酔うように深呼吸を重ねる。覚醒を兼ねて、自分を呼んでいた声の主の名を呟いた。

「源次、遅い」

 一夜の一声と、開く瞼に歓喜していたのは、遠く、小さく見える見知った親友と、流れる時間、沈んでいく太陽という象徴、夕日だった。

「一夜! 一夜! 見つけた!! やっと!」

 少し遠くから走ってこちらへ向かうヒヨと、フセ、その後ろから手を引かれてやって来るのは、歩くのを手間取る真樹。そして、真樹の手を引き、先程一夜を覚醒させる声を発していたのは、ゲン、近江源次だ。ゲンは大きく手を振って、それに合わせて、真樹も飛び跳ねながら手を振り叫ぶ。

「おかえりなさい! 一夜君! おかえりなさい!」

 恐れを知らなくなった足で、彼は周囲と同じように走る。それの何とも言えない喜びが、確かに一夜の中で咲いていた。そのうま味を感じながら、一夜は起こした上体、左の手を見る。確かに握った、彼女の手との繋がりを。ただ、目に留まったのは、握れない程に小さくなった、木でできた白い手。一夜と共に地面の土の上に落ち、その人形は存在していた。

――――赤い毛に、蒼い瑠璃ガラスの瞳。割れた胡粉塗りの額を一夜は、一つ、摩る。所謂現代のキャラクターフィギアと同じくらいの大きさのそれは、くすんだ黒の布をゆらり巻かれて、目と僅かに髪が出るようにだけされていた。ただ見ただけなら、それこそ、拘束しているようにも見える。

「一夜」

 目の前にフセが達していて、ヒヨを片腕で止めながら、一夜の顔を覗く。

「その人形は、瑠璃石ね」

「あぁ」

 思ったよりも疲れているような声が出てしまう。それを少し恥ずかしがりながら、フセに答えた。

「瑠璃って呼んでやってくれ。意外と、不本意らしいから」

 苦笑いでそう言うと、駆け込んだ真樹とゲンの目を眺める。

「真樹、もう、外に出られるぞ」

 一夜が笑うと、真樹は共に微笑んだ。

「うん」

 表情に、不安と期待が入り交差する。それが好奇心というものだと、一夜は知っていた。真樹の隣、ゲンの金髪と緑色の瞳がギラり、光る。そして、ふと、一夜は思い出したように立ち上がって、人形を抱える。いつの間にか肩に居座っていたクロが、ゆらと尻尾で一夜の顔を撫でた。必要なものを全て抱え込んで、一同は時止めの屋敷、絹糸散った場所から、夢より現実に、出でる。


 そこまで歩かない場所に自宅があるのは、疲労困憊の少年には良きことである。自宅である神社に足を踏み入れ、体は一気に軽くなった。共に一夜に着いてきたのはゲンと真樹、そして神社の主であるクロだけである。

「ササミの約束だ。無ければすーぱー行って買ってくるといい」

 神主屋敷の居間にそくささと入って、夕日に黒毛を照らす獣は、わがままにもそう言った。

「待てよ、鳥居の前に立て札置いていかなきゃ」

 だるそうに、一夜が無表情で言う。

「俺やっとくから、一夜はオカマに電話しとけ。疲れただろ」

 一夜が片手で取ろうとした、側にあった立て札をゲンが、両手で抱えて、鳥居の下に置く。

「『参拝時間終了』?」

 珍しいものを見たように、真樹が不思議そうに首を傾げる。それに気がついた一夜が、瑠璃人形を持ち直して、口を開く。

「黄昏時には神域は『あっち側の世界』の入口になる。一般人が入ればそっちに連れてかれる可能性もあるからな。夕焼けが見えたら誰も入れないようにするんだ」

 ふうん、と、突然興味を失ったらしく、真樹は軽く鼻を鳴らした。

「真樹は知らなかったのか? この辺りで知らない奴何て居ないはずだけど」

 一夜の問いに、思い出したように真樹が答えた。

「この神社に近寄らせて貰えなかったんだ。家と学校の通学路しか歩けなかった。他の場所に行こうとすると、迷っちゃって」

 そういう呪術をかけられていたのだろうと、一夜は察して、目を伏せる。人形を抱きしめる腕の力が、更に強くなった。

「おい。電話しろって言ったろ」

 呆れた声で、ゲンが言う。真樹がビクリと肩を震わせ、驚いて、一夜が溜息で答えた。仕方がないと言うふうに、一夜は屋敷の中、クロがウロウロとそわそわしている黒電話の前に立つ。靴は屋敷に入る前に外に脱ぎ捨ててしまっていたが、ゲンがそれを玄関へと運んで揃えていた。その様子を唖然と見ている真樹に、ゲンが笑った。

「こっちおいで。靴を揃えて屋敷に入るのくらい、出来るだろ?」

 あぁ、馬鹿にされたのだと思いながら、一夜は、目的の、甲高い男の声が聞こえるのを受話器を耳に当てて待つ。肩にふわりと黒い柔らかな毛が当たった。



 日が落ちた頃に、屋敷の一部、生活感溢れる居間に、手っ取り早く作られたカレーのスパイスの匂いが漂う。台所からはまだ水が流れる音が聞こえ、真樹が慣れないレタスの感触で遊びつつ、隣の女のような男の支持を煽っていた。それを待つクロが、二人の足元で尾を揺らしているのを確認する。そうしながら、一夜は瑠璃人形を観察するゲンに問うた。

「ゲン、これ、直せるか」

 一夜に目も合わせずに、愛用の伊達眼鏡を通して、ゲンはずっと人形を見ている。特に丹念に瞳を読んで、木でできた胴体を撫でた。

「さあね。中身の損傷具合によるな。場合によっちゃ、千宮の方に頼んだ方が良いぜ。あぁ、あとは主人が必要だ」

「主人?」

「人形師が使役する主人として居なきゃ、いくら直しても壊れるか、何処か遠くに消えるだけだ」

「そいつは誰でもいいのか?」

 また一夜が問いていると、台所からサラダを運ぶ真樹が視界の端に座った。

「誰でもいいわけないだろ。そこの咲宮とかじゃないと」

 ゲンが座った先にいた真樹は、サラダの上に乗っかっていたササミ肉をクロに与えていたが、ゲンの発言に気づくと、こっくり首を傾げる。ククッとゲンが笑って、真樹は更に不思議そうな顔をした。真樹の手元の肉を無理やり奪ったクロは、心底満足そうな顔をして、ゲップと共に言う。

「同じ素質の生贄同士ならば相性は良かろうよ。契約するなら早めにしろ。準備にかかる時間がある」

 それに、と、一夜が続けた。

「咲宮家は人形師の家系だしな。いいかも知れない。早速準備を頼んでいいか」

 準備という言葉に反応して、ゲンが、あぁ、と返事を続く。一人置いていかれたような真樹は、未だ不思議そうにそれらの会話を見ていた。カレーを運ぶ数歩の足音が重なって、甲高い男の声が今に響いた。

「もー、皆、そういうのはちゃんと全部一から説明しなきゃダメでしょ? 真樹ちゃんはまだそういうのわかってないんだからぁ」

 男のような女のような、不思議な雰囲気の男は、そう言って、クロ以外の全員の前に皿を並べる。テキパキと動きながら、会話に割り込んでいく。

「真樹ちゃんに説明するとね、真樹ちゃんは宮家っていう、こういう霊とか妖怪とかの世界にいる人間の、トップにいる一族の一人になるの。それで、咲宮家っていうのは特に、人間が作った物を扱う一族で、真樹ちゃんの出身は宮家の中でもそこなのよ」

 机を囲んで、全員が食事の前になると、いただきますと男は声をかける。全員が命を食う祈りをしたと確認すると、そのまま話を続けた。

「人間が作ったものの中で、一番よく使われるのが人形なの。身代わりってやつとしてね。それを元として、術を使ったり儀式をするのは咲宮家なら誰にでもできるんだけど、一番上手なのは、その人形と似た人間なのね。貴方は本来はその人形の一部になるはずだったから、その人形とは似ているとかいう話じゃないくらい、同一なの。だから、貴方はその子を使うのに一番いいのよ」

 掬って口に入れを繰り返すのを止めて、ポカンとしている真樹の肩を叩いた。

「いつか理解出来る。今は、瑠璃とお前が家族になるんだって思えばいい」

 一夜の言葉に、うん、と、頷くと、真樹はカレーをぐちゃぐちゃに混ぜ始めた。味が均一になるまで混ぜようとしているらしく、それを見るに耐えかねた一夜は、目をそらすために男に声をかける。

「なあ、佐々木さん、人形の修理って、どんな仕事やれば対価になると思う?」

 いやあねえ、と、男は体をくねらせながら言う。

「佐々木さんじゃなくて、テトリンって呼んで。テトちゃんでもいいわよ」

「テトさん」

「……うん、良いでしょう」

 少し悲しそうにしながら、テトは一夜の問いに答えていく。

「千宮さんに頼むなら、もう一つ事件を解決するくらいじゃないかしら。ゴミ掃除は流石に楽過ぎるから」

「やっぱり」

「元治君の仕事を一つ回されるかも。それくらいは覚悟しておいて」

 でも、と、テトは更に続けて苦笑いで唸った。

「あの人、出来ないことは出来ない人にやらせないから。大丈夫よ、心配しないで」

「知ってる」

 一夜も共に苦笑し、それを両脇で見ていたゲンと真樹に苦笑いが伝染する。

「まあどうせ、来週、千宮行くしなあ、一夜も俺も」

 ゲンが発した言葉に、驚いた一夜が声を震わせた。

「それってどういう――――」

―――一夜の言葉を遮るように、消防車特有のサイレンが外からした。かなり近い音で、一夜たちの耳を一時的にダメにする。

「あら、何があったのかしら」

 テトがそう言って食事時にはつけないテレビをつけた。ゲンは消防車の音の方向を確認する。何が起きたのかわからないまま、言葉の咀嚼をしながら、一夜は、テレビに見入った。それは生中継のニュースで、速報が流れる瞬間だった。

『速報です。東京都の亥の島地区で大規模な火災が発生しています。大きな木造建ての建物からの出火で――――』

 その映像で流れていたのは、オレンジ色に燃え盛る柳沢邸と、それを消そうとするオレンジ色の服の男達と、野次馬だった。その野次馬に紛れて、カメラをチラと見て、こちらを笑う樒を一夜は見逃さなかった。

「あぁ、そういうことか。あいつあの家の奴か」

 一人、一夜は納得して、再度落ち着いた様子でカレーを食べ始めた。



 燃えたあの邸の様子が、網膜に未だ焼き付いている。オレンジ色がかった世界が、樒が目を瞑る度に蘇った。夕食を済ませていた主人と、自分と同じ立場にある女、そして自分で、鴉数羽が眠る庭で茶を飲んだ。啜った茶は、眠る前のものにしては苦味がすぎる。主人である少年は、後ろでついているテレビの速報を聞きながら、満足気に言った。

「一夜は壊せたんだな。良かった良かった」

 その良かったは、どうせ一夜に向けたものではなく、自分の予想が当たった、賭けに勝ったというものなのだろう。そう察して、樒は黙ってまた茶を啜る。音を立てると、いつも、女は嫌そうな顔をするが、一仕事終えたのだから、それくらいは自由にさせてくれても良いのではないか、と、心の底から思っていた。うざったらしいくらいの最後の渋みが、樒の発言を助長させた。

「繭は簡単に壊せたでしょう。ただ、まさか救い出すとまでは思っていませんでした。損傷が激しすぎて、一緒に壊れると思ってましたから」

 鼻で笑って、樒は主人に言う。それを聞いて、主人も笑った。

「一夜も伊達に大宮家の当主じゃないさ。壊すことしか出来ないが、壊さないように触れないようにすることは御手の物だろ」

 全てを知っている訳では無いくせに、知ったように言う彼のことが、樒は嫌いであった。露骨な表情を浮かべると、女に露骨に返される。

「しかし、樒、流石に邸を燃やしてしまうのはやりすぎじゃなかったか? 利用方法はいくらでもあっただろ?」

 女が問うた浅はかな質問に、樒は煙草を取り出しながら、ライターで火をつけて笑った。

「煙草の火が欲しかったんです。丁度、ライターの燃料を切らしてて」

 ライターの炎が煙草の炎になって、その光を煙が反射させ、柔い夜に、小さすぎる明かりが灯った。煙臭いのを微笑む、少年が心底機嫌良さそうなのを、苦虫潰したように睨む一夜の顔を想像して睨んだ。

「来週の千宮の成人式で会ったら、ちゃんと挨拶しなくちゃ。なあ、そうだろ」

 えぇ、そうですね、と言ってやる気力もなく、思い切り、酸素を吸うように、煙を吸って、主人に吐きつける。咽せる主人を横目で嘲笑いながら、樒は言った。

「調子乗んなよクソガキ」

 ポケットに忍ばせたプレゼントを隠して、ハハッと笑い、その場を後にした。

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