蝶蛾を殺す

 落とされた先で、自分が、また似たような中で横たわっていたのに気がついた。白い空間。地と天の区別の付かない、稚拙な異界。自分の手と足と身体が見えるだけ、良いのかもしれない。この逆の、ただ黒で塗り潰したような世界よりは、自分が曖昧にならずに、自立を感じることが出来る。自分しかいないということを頭に叩き込めるのだ。それの、どんなに幸せなことだろう。

 ふと、一夜は、自分が現実にいた時の格好に戻っていると気が付いて、素足に温度の感じない違和感を覚えた。あの鬼の前では感じ得なかった違和感に、多少の不安と好奇が交じることを自覚する。

――――気配虚ろに、何も無い世界より、自らの後ろに小さな足音を感じた。

「誰だ」

 振り返らずに、ただそれだけ尋ねる。答えなくともいい。攻撃して来てもいい。攻撃も触れる手かなにかも、一夜には効かないのだから。

「瑠璃、瑠璃石なのか」

 一夜が問うと、後ろの気配は、音を立てて崩れるようで、ゴロリ、と、硬いものが床に落ちるような音が響く。その音が、音ではない、意思を際立たせた。脳に直接話しかける、とはこのことを言うのだろう。時折、一夜達のいるような世界では、こういうことをする存在に、出会うことがある。左程驚くこともなく、その意思、声に耳と意識を傾けた。

『石だなんて言わないでよ。こっちを向いて。私に姿を頂戴』

「振り向くことは出来ないんだ。感覚が麻痺する」

 嘘を吐いた。本当は、怖いのだ。得体のしれないものの言うことを聞く、それがどんなに恐ろしく歪んだことかを知っているから。

『嘘。カミサマに引き込まれるから振り返らないんだ。よく知ってるんだね』

 なるほど、あちら側も良く知っている。納得して、辛抱を耐えかねて、後ろを振り返らずに、手を繋ぐイメージをする。

「どんな姿が好みなんだ? 女の子で良いのか? 瑠璃、だし」

『そうだね、女の子の方が多かったし、女の子の方が可愛いから、女の子にして。年齢は君より少し、小さいくらいが私は好み』

「注文が多いな」

『まだ二つしか注文していないよ。顔とか色は君に任せよう』

 任せよう、というのが正直言って、一番辛い。自分が一番手を繋ぎたい人の姿を想像しようか、それとも、少し前まで反芻していたあの子供の姿を成り立たせようか。ただ、考えていくうちに、やはり、瑠璃石と近い人物が、目の奥に張り付く。アイツを女にしたらこんなだろうな、と、そんな姿が浮かんでしまうのだ。

「なんだ、結局、同い年くらいじゃないか」

 隣から響く、聞き覚えのある声色。まだ声変わりが来ていない、女の子のような声に、癖のある長い髪。服はかろうじて変化させられたからか、群青色の浴衣に白の帯。簪はイメージし損ねたから、付属品はダメなのか、つけていない。だが、そう、その顔は、真樹、その本人とそっくりである。

「悪いな。救わないといけないやつのイメージがあって」

「良いんだ。私達も、彼と同じようなものだし」

 「私達」と言うからには、やはり彼女らは寄り集まった何かなのだろう。思考はいくらでもある。何処にでもある正解。彼女らは、瑠璃石。生贄の塊。

「でもまだ、マサキはまだ、こちら側には来ていないから。貴方が引っ張って、外の世界に出られるから。大丈夫なの」

 少女が言う。

「外の世界に出るために、貴方を呼んだんだから」

 一夜は自分の能力を理解している。壊すことしかできない、そういう能力だと、自覚し覚えている。それが彼女らを救う手立てになる理由が、どうにも理解できない。樒に言われた時から、どうも、何が彼女らを救うことになるのか、真樹を救えるのか、頭が追いつかないのだ。

「破壊、の能力に、何か、出来るのか。外に出るために、どう使えばいい」

 一夜がそう言うと、少女は呆れた様子で溜息を吐く。

「貴方は何だって壊せるんでしょう?」

 問いに、一夜は頷いた。

「そういう能力だからな」

「なら、世界だってきっと壊せる」

「そういうことをするには、核を壊さなきゃならない」

 なんだ、と、安心しきった顔で、解放されたような、真に少女のような笑みで、彼女は言った。

「なあんだ、わかってるじゃない」

 彼女は一夜の手を引っ張る。一瞬コケそうになりながら、一夜は体勢を立て直し、少女の強い力を感じた。

「核を壊しに行きましょう。繭がこっちにあるから」

 嬉しそうに、楽しそうに、年頃の娘のように彼女はステップを踏む。裸足で、ペタペタというつまらない音しかしないのが悔しい。下駄を履かせれば、カランコロンと爽快な、可愛らしい音がしただろうに。と、一夜が思えば、彼女の足には、赤い下駄が履かされ、カラリコロリと音が鳴る。あぁ、やはり、彼女はそういう存在なのだなと、共に走りながら、どうも、どうやっても体温の感じられないその手を握って、一夜は喪失感に見舞われた。わかりきっていたのが幸いだ。まだ生きていると思っている人間の、体温が消える方が、恐ろしくて、失ったという現実を押し付けられる。

「どうしたの」

 少女が問う。何を問われたのかが、一瞬、理解出来なかった。

「何故こんな所で、泣くことが出来るの」

 突如不審がる少女は、軽快な足を簡単に止めた。どうやら、一夜が涙を流すのが、不思議か、おかしいらしい。

「知らない。俺はここに来たのが初めてだから、よくわからない」

 答えに不備でもあったのか、少女は更に苦虫を潰したような、全てを拒否するような表情を浮かべる。それこそ、勘を嫌った真樹の表情に見える。

「涙は他人に考えを押しつけるものよ。自分の考えが一番正しいって思ってる時に流れるものよ。何を貴方は、自分が正しいって思っているの? 何を勘違いしているの?」

 ゾクリと背をなぞる、異常性。少女の思いもよらぬ表情と言葉に、違和感以上のものを覚える。一夜の手を握っていた、手が崩れた。崩れた中身は、硝子だった。硝子は蒼く澄み切っていて、美しい。人の形を成していた、少女だったものは、酷い表情を浮かべながら、崩れて、ただの蒼い硝子の塊へと変化する。その塊が独りで結晶に分散して、一夜を取り巻いた。抵抗する気は起きない。結晶が、皮膚を刺す。激痛が走るが、受け入れる以外の選択をする気にはなれなかった。一夜は硝子が喉に入るのも気にせずに、深く息を吸う。

「悔しかったのか。それとも、悲しかったのか」

 結晶の動きが、止まる。

「生贄に出されるってことは、恐ろしいことだ。誰かの為になると思っても受け入れられない事だ。永遠にそこに縛られるんだから」

 また、硝子の結晶は、破片に変わって、塊に変容する。一夜の目の前に、人の肌の様な色が、指先が出来上がった。

「誰かが助けてくれるまで、必要とされなくなるまで、そこに居なきゃならない。いつ来るかもわからない終わりを待たなきゃならない」

 指先が手に、腕に、顔に、繋がる。髪は赤い、そう、赤髪だった。肌の色は薄桃色で、瞳の色が蒼い、硝子のようである。

「それを知りながら歩んだのなら、まだ救いがある。でも、知らずに、ただ突然大人達の欲望に食われたのなら、気持ちのやりようが無い。誰にぶつけるべきか理解しないままだから」

 あぁ、そうか、そうか、と頷きたくなる。まだ、幼い子供が、背伸びをして自分の目に触れようとする姿が愛らしい。

「蒼い炎を固めるなんて、どんな馬鹿が考えたのか知らないが、もう、その馬鹿はいない。終わりが来たんだ。水を拒む理由はもう亡くなったんだ、瑠璃、水より深い青色の贄」

 一夜自身でも臭い台詞だとは思う。ただ、それを言うだけの価値が、今日、この時点であったのだ。その証拠に、完全な姿を現した瑠璃石は、虚ろな気配を確固としたものに確立させて、そこに存在するようになった。意思のみではなく、石ではなく、自分が自分であることを理解している。それを表すように、赤髪と群青目の少女は、黒い浴衣を着て、一夜に顔を向けて立つ。その瞳は揺れる水でもなく、揺れる青の炎でもなく、深い、ゆっくりと動くべき動きをする、生物満ち足りた深海のようだった。

「核を壊した後、この世界を壊した後、お前はどこに行きたい?」

 問いを投げ入れれば、騒がずにそれは還る。

「お家に帰りたい」

 切な願いを聞く。

「お前らの家ってどこなんだ。出来る限り全員帰そう」

 そうすれば、きっと、何も背負わずに、次に行けるから。そう思った。だが、少女は今までで一番、無気力に言った。

「わからないの。家が、わからないの。誰の家も、わからない。思い出せないの。帰りたくても帰れないの」

 空虚の、空っぽな顔で、放つのは、耐え難い現実だった。どうしても、この生贄の儀式を考えた馬鹿は、誰も帰そうとしないらしい。そんな事をする、そんなことが出来る人間は、史上一人しか、一夜は知らない。だが、それを押し黙って、一夜は少女に言う。

「なら一度、俺達と暮らそう。わかるまで、全部が還るまで、いつまでも一緒に」

 パッと、少女の顔が明るくなる。その表情の中に、沢山の面影と、大量の複雑に絡み合う糸のようなものが見えた。全ての意思が繋がって、彼女を成形しているのだと、彼女の意思は、知らずに淘汰された全員の意思なのだと、頭の中で呻く。

「本当はね、核の場所なんて知らないのよ、こんな道も何も無いところで、目印も無い場所で、わからないの。ごめんなさい、一緒に居たかったから、騙したの」

 自分が泣き出したことを異質だと思ったのは、一夜本人が、生贄だと思ったからだろうか。そんなことは、ここに落ちたことが、このプログラムの中に突き落とされたことが、今までになかった一夜には理解は出来ない。

「引っ張ってくれると思ったから呼んだんじゃないのか」

 ただ一つの質問を彼女は俯いて答える。

「だってお人形さんが言ってたんだもの。生贄は生贄にしか救えないんだよって、だから、いつも、何度も色んな人を呼んだわ。皆、引っ張ってくれるって信じて。でも結局皆、迷子よ」

 これは総意ではない。ハッキリとわかった。彼女を構成する気配が、迷いを最も大きく見せたのだ。

「大丈夫、自分の手が見えるなら、まだ、ハードモードじゃない。まだまだノーマルだ」

 自分が曖昧にならないこの世界なら、まだ、探すことは出来る。そういう確信が、一夜の中にあった。

「目を瞑れ、皆。俺の左手をしっかり掴んでいろ」

 そう言って、一夜は少女に手を差し出す。それを一瞬強い迷いの中で、少女は掴んだ。

「俺がいいって言うまで、目を開けるな。ずっとイメージしろ。自分を外に出してくれないものを」

 一夜はそこまで言って、確信した。あぁ、探さなくてもよかったのだと。そこにもう、あったのだと。包む、白い、糸のようなもの。一本の切れ目の無い糸が、少女を包んだ。自分の手ごと包まれても、一夜は少女の手を離さない。少女に、生贄達に、外に出る意思があるのなら、最後まで包まれても、離さないはずだと踏んだからだ。

「まだ?」

 不安そうな声で、少女は言う。

「もう少し」

 一瞬、一夜は自分で少女の手を離そうとしたが、彼女自身が自ら手を強く握りしめて引いたのを感じて、そっと目を閉じた。

――――さあ、さあ、全てを現せ。そうしたら、全部壊してやる。

 若干の殺意は、経験上の、十二年間で出会った出来事への殺意でもある。少女の目も姿もすっぽりと、糸は覆う。覆った糸の全体図を見れば、納得がいく。未熟なものを一度殺してバラバラにする、そのまま大人にせずに、また違う大人にしてしまう、まったくの別物にしてしまう、そんな、蛹の一つ。その中身を羽化する前に殺して、糸を紡ぐ、繭。あぁ、未熟者の活用にはそれがいい。未来を奪うことの肯定にはならないけれど、それが一番いいやり方だ。

 中身がドロドロになる感覚はない。手はちゃんと繋がっている。それを再確認して、一夜は右手で繭の壁を撫でた。

「もう、目を開けて良い。安心してくれ」

 触れたところから、砕け散るように、糸がほどけるようではなく、ただの鶏の卵の殻のように、バリバリと繭が壊れていく。触れた感覚も分からなくなっていく。だが、わからないのが怖い一夜は、しっかりと力を入れた。

「これ何」

 不安そうな顔で、繭の破片の隙間から、少女は一夜の顔を覗く。

「この白い世界の核。だと思う。お前がそう思ったんだから、そうだと思う」

 破片を踏み潰しながら、丹念に丹念に、繭の原型が無くなっても、丹念に丹念に、それそのものを無にしていく。一瞬、空気がピリッとして、遠くから崩れる音がした。ガシャガシャと、割れる音と、ぴちゃぴちゃと、少し粘度の高い液体が弾けている音が、すぐ足元から聞こえる。それをリズムよく聞きたくなって、一夜は何度も何度も破片を踏み潰す。

「ねえ、何で」

 崩壊がすぐそこまで来て、白い世界が、黒く塗り替わっていく。その最中、最後の破片を踏み潰す前に、少女の声を聞きつけた。

「もう、血だらけだよ。痛いよ、ダメだよ」

 少女の指先が人形のように、所謂、関節球体人形になって、自分の右手の血を拭っているのに気が付いた。気が付いてすぐ、自分の血だらけになっていた足で、最後、本当に最後の、世界の欠片を無に帰した。

「もう、遅いんだ、何もかも」

 一夜は、崩れた世界を落ちていく少女にそう呟いて、自らも、黒い黒い、懐かしい世界に墜ちて行った。

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