ウィンドウ・サイド物語

蒼原悠

ウィンドウ・サイド物語




四月五日


 うちの隣の空き地で長いこと建設工事をやっていた大きなマンションが、今日ようやく入居を開始したらしい。

 ずいぶん豪華な建物だ。築四十年のうちの団地とは見劣りがするなぁ。そりゃ、団地の連中が『お見合いマンション反対!』って叫びたくもなるわけだ。

 ま、僕には関係のないことだ……。資金も貯まってきたところだし、春の引っ越しシーズンが終わったら新しい家でも探しに行こうかな。このオンボロな団地にとっとと別れを告げて、未来の奥さんを迎えられるような家を構えなくちゃな(笑)

 それにしてもマンション、近いなぁ。

 うちのベランダから手を伸ばしたら、あっちのベランダに届きそうだ。




四月十日


 引越業者のトラックがひっきりなしに道を占領している。轢かれないように注意しなければ。

 いったい何戸あるマンションなんだろう。駅の通勤ラッシュが悪化しないといいんだが。今だって都心の職場に出るのに一苦労しているってのに。

 ……そういえば、向かいの部屋にカーテンがかかっている。淡い緑色のやつ。

 もしかして早速乗り込んできた人がいるんだろうか?




四月十二日


 向かいの部屋に人が来たっぽい。夜中になると、カーテンの向こうで家具を置いたり荷物を片付けたりしているのが見える。

 どんな人が来たんだろうな。ずいぶん髪が長いみたいだったから、少なくとも女性がひとりいるのは間違いないんだろうけど。彼氏との同棲か、独身か、家族持ちか、あるいはまだ家族に養われている立場か──。

 あ、窓際に観葉植物みたいなものが置いてある。

 日中も家にいるような人種だと困るなぁ。こんなに近いと、僕の部屋が散らかっているのが向こうにも丸見えじゃないか。




四月十四日


 よく晴れた日曜日だ。

 布団を干していたら、例の向かいの住人を初めて目にした。カーテンを開けっ放しにして、部屋の掃除をやっていた。

 やばい。

 やばいぞ。

 猛烈に美人だ。

 これはきっと意識高い系の人に違いない。ちらっと窺えた内装にもかなりの手間がかかっていそうだったし……。弱ったな。僕のいちばん苦手なタイプの女性じゃないか。

 うっかり道で鉢合わせしたらどうしよう。何て挨拶をすべきだろうか。というか、あの人は結局のところ社会人なのか? それとも学生か?

 多少は警戒した方がいいんだろうか。




四月十七日


 会社帰り、例の女性を近所の駅で見かけた。

 驚いたな、見たこともないブランドものの紙袋を大量に抱えていた。やっぱりあの人は金持ちか、相当なリア充なのに違いない。僕とは縁のない人種だろう。それが証拠に僕の通っている格安スーパーでは見たことがない。

 ……当たり前か、まだ引っ越してきたばかりだもんな。

 いけないいけない。これじゃ、まるでストーカーだ。変なことに励んでいないで仕事に集中しよう。




四月十九日


 おかしい。

 探そうともしていないのに、妙に彼女のことを頻繁に見かける。昨日は帰りがけに立ち寄ったフィットネスクラブにいたし、今日は行きつけの本屋で姿を見た。

 いったいどうなってるんだ。偶然の産物ったって、いくらなんでも生活導線が重なりすぎじゃないか?

 変に顔を覚えられて痴漢扱いされたらたまらないしなぁ……。これからはもっと注意して生活しよう。

 あと、日中はカーテンをきっちり閉めておかなくちゃな。汚い家の中を見られないように。




四月二十一日


 最悪だ!

 顔を見られた!

 というか、知られた!

 いやいや! 今回ばかりは僕にも結果回避義務はないだろ! 日中カーテンを閉め切っていたら熱がこもって、暑苦しくてたまらなくなってカーテンを開けたら向こうも開いてたなんて──そんなのどうやって予知すればいいっていうんだ!

 ……彼女、目を丸くしてたな。

 しかも一瞬遅れて笑われた。なぜか。

 参ったなぁ、ばっちり視線が合っちゃったよ……。

 次に会ったらどんな言い訳をしよう。




四月二十五日


 マンションの前で話しかけられた。

 思ったより普通に話せた。

 近くで見るとやっぱり美人で麗しい香りがした。

 名前を聞かれた。どうしよう、教えちゃったよ。ついクセで名刺まで渡してしまった。やっぱり笑われた。

 急展開すぎて理解が追い付かない。これはつまり……どういうこと!?




四月二十九日


 知らなかった。犬を飼っているらしい。ミニチュアダックスフントっていうのかな、ちっこくて足が短い犬にリードをつけて、散歩しているのを目にした。今日の夕方のことだ。

 そういえば時々、向かいの部屋からも甲高い声が聴こえていたような気がする。

勇気を出して話しかけたら、『可愛いでしょ? 抱っこしてみます?』だってさ。いやいや抱っこするならあなたですよ──なんて口走りそうになった。危なかった。さすがにまだ警察に厄介にはなりたくない。




五月三日


 友達との飲み会を終えて深夜に帰ってきてみたら、駅前のバーから数人の男を引き連れて出てくる彼女を見つけた。

 おかげで酔いが覚めた。

 驚いたなぁ、あんなに男をはべらせちゃって。彼女、なまじ外見がいいからなぁ。それに心根もとっても親切で友好的と来てる。

 彼女たちは繁華街の方に消えていった。

 あーあ、追いかけてやる勇気が僕にもあればいいんだが。




五月五日


 いつものように洗濯物を取り込んでいたら彼女がベランダに出てきたので、ちょっとばかり世間話に花を咲かせた。

 仕事は何をしているんだろう。今は何歳なんだろう。彼女、何を質問しても、焦らすばかりでまともに答えてくれない。でも僕の私生活には興味津々みたいで、仕事のことについてはずいぶん色々と質問を受けた。

 僕は背後の猥雑な自室を見られないようにするので精一杯だったけどな……。

 正直、まさかこんな風に他愛のない話のできる関係になるなんて思ってもいなかった。彼女は話を聞くのが上手いなぁ。




五月十日


 以前、引っ越しをするかどうか相談したことのあった上司が、結局どうするんだと聞いてきた。

 すっかり忘れてたよ。僕、あのお見合い状態の団地から転出する心積もりでいたんだった。

 とは言ってもなー。まだ何の当たりもつけていないし、強いて言うなら予算が確保できているだけなんだよな。それにせっかく仲のいい隣人ができたんだし……。

 そういえば駅ビルのショッピングモールで彼女を見かけた。下着売り場を熱心に見て回っていたな。とてもじゃないけどブランドを確認する勇気はなかった。




五月十二日


 またしてもベランダで鉢合わせした。

 弱ったな、転居を考えている話をしたら引き留められちゃったよ!

 『寂しくなりますね……』だってさ。どんだけあざといんだろうね、あんな上目遣いに呟かれたら誰だって心が揺れ動いちゃうだろ!

 やめておこうかな、転居。

 ここに彼女がいる限り、この団地に住み続ける理由があるわけだしなぁ。

 どうでもいいけど彼女、寝起きだったみたいだ。昼過ぎにもなって寝間着のままだったし髪はボサボサだったし、正直その……胸元が緩くて見てるこっちも鼻血出そうだった。彼女の生活リズムは不可解だ。




五月十五日


 また彼女がバーから出てきたのを見た。今度も今度で、洒落た服装の男どもを何人も率いて。

 昼間に見る姿とはまるで装いも、雰囲気も違う。……装いが違うのは当たり前か。まだ暑い季節にもなっていないのに、えらく胸の開いた服を着てたなぁ。

 その下には、こないだ選んだ下着を着てたのか?

 このあとの行き先は?

 てか、その男どもは誰?

 さっぱり分からない。分からない方がいいこともあるっていうのはわきまえてるつもりだけどさ。




五月二十一日


 最近、彼女の部屋から歌が聴こえてくる。よく知らないけど若い女性に人気の歌手だ。どうも失恋ソングらしい。

 失恋したの? いつの間に?

 だから変な男を侍らせていたのか?

 悶々としていたら今日はたまたま本屋で会ったので、ついでにと思って尋ねてみた。ハマってるんですかって。

 そしたら何て答えたと思う?

 『たまに仕事で歌わされるんです』って!

 歌を歌わされる仕事って何だ! そんな愉快な職場があるなら僕にも紹介してくれ! ──もちろんそんなことは口には出せなかったけども。

 これから仕事だって言ってたな。例の薄着の上から、これまた薄っぺらい上着を羽織って。ああ神様、つい胸元に視線の向いてしまう僕をどうか許してください。これでもまだ若者のつもりなんです。独身なんです。




五月二十五日


 僕はおかしくなってしまったんだろうか。

 最近、バカみたいに彼女の夢ばかり見るようになった。

 ああ、そうだ。カーテンを引いて窓を開けると、彼女は向こうのベランダから身を乗り出して笑っているんだ。そうして僕らはまた他愛のない雑談に興じるんだ。僕の仕事の話、近所に新しくできたカフェの話、マンションの敷地に咲いた花の話、好きなものの話……。

 でも、目が覚めてカーテンを引いて窓を開けても、彼女はベランダには出てきていない。

 というか昨今、昼過ぎにならないと見かけないようになった。

 たぶん夜通しで起きているんだろうな。いつも並んでバーから出てくる、あの男どもと一緒に。ってか、今にして思うとあの連中、どっかのテレビ番組で見かけたタレントに似ていたような気もする。彼女はそんな大物さえも相手にしているのか? 金は自腹? それとももしかして彼女は従業員の側だったりする?

 こんなに近くに住んでいるのに。

 誰よりも近い場所で暮らしているのに。

 ありふれた日常を生きる彼女の姿、誰よりも頻繁に眺めているのは、この僕なのに。

 僕は彼女のことをちっとも知らないじゃないか……。




五月二十七日


 仕事に集中してないと怒られた。

 そんなことは自分でも分かっている。




五月三十一日


 会って、この胸にたまりたまった感情の正体を知りたいと思ったんだ。それであのバーの前で待ってた。午前二時くらい。

 そうしたらまたしても彼女が出てきた。今度はひとりだった。

 思いきって声をかけに行った。

 逃げられた。『見つかった!』って顔しながら。

 信じられない。

 そんなことをする人じゃなかったじゃないか。

 バーを覗いてみた。ガールズバーってやつらしい。それとなく彼女のことを聞いてみたかったけど、とても自分のいていい雰囲気には思えなくて退散してしまった。




六月六日


 彼女を全く見かけなくなった。

 毎日が真っ暗だ。

 ダックスフントの声さえ聞こえない。




六月十日。


 勇気を振り絞ってバーに突撃をかました。彼女はいなかった。

 店員に聞いてみると、やっぱり彼女はここの従業員だったらしい。

 『あなたのこと、よく話してますよ。貢いでくれそうだって』

 そう聞かされてすべての謎が解けた気がした。いや、たぶん実際には半分も解けてはいないんだけど。

 彼女はいずれ僕をここに引き込む気でいたらしい。……ということはもしや、今までのはぜんぶ営業スマイルだったのか? 仲良く話していたのは営業トークだったっていうのか?

 窓を開くとそこで笑っている彼女は、作り物だったのか?

 一気に不信感が出てきた。

 どうしよう、聞くんじゃなかった。明日はますます仕事になる気がしない。




六月七日


 一晩寝たら感情が落ち着いた。

 そうだよ、彼女がどんな魂胆で僕に近づいたかなんて何でもいいじゃないか。

 僕は彼女のいる日常を楽しんでいるんだから。営業スマイルでも営業トークでも構わないだろ? 笑って話してくれるんだから、それで何も問題はないだろ?

 今まで付き合ってきたどんな女性よりも素敵じゃないか。隙のない笑顔。プロポーション。ときどき見せる、油断しているような素振り。聞き上手。なぁ、そうだろ。彼女はまさに僕の求めていた存在じゃないのか。

 だったらそれで、いいじゃないか。

 すっかり疲れてしまって仕事は休んだ。彼女は今夜も窓の向こうに閉じこもっている。でも照明が灯っているから、元気に過ごしてはいるらしい。




六月九日


 今日も彼女に会えなかった。

 避けられ始めたのかな。




六月十一日


 今日も会えなかった。

 ダックスフントの声だけが虚しく聴こえた。




六月十三日


 会えなかった。




六月十五日


 会えなかった。




六月十九日


 会えなかった。




六月二十日


 会えなかった。

 彼女が心配だ。

 考えてみれば、あんなに仲良く話していたんだぞ。職場を知られたくらいでどうして僕を怖がるんだ。嫌がるんだ。そういえばこないだ店に突撃した時も来てなかった。そうか、きっと体調を悪くして寝込んでいるに違いない。そうに違いない。見舞いに行こう。幸いにも団地とマンションの間はほとんど空いていないから体力のない僕でも飛び移れるだろう。お見合いマンション万歳。ついでに薬や食べ物も持って行こう。




 今行くからね。








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