→甘すぎた口実

「神林」と書かれた表札を、俺はかれこれ五分ほど見つめていた。このまま見つめ続けていたらやがて視線はドリルになり、表札に穴を開けてしまうかもしれない。自分でもなにを言ってるかわからなくなってきた。それくらい混乱しているのだ。

 日曜日の午後。多くの人が休む日。けれども俺の心はまったく休めていなかった。

 この間は勢いで言ってしまったものの、話したこともなかった女子の家にこれから上がるんだ。……上がるのかあ。

 思えば、神林さんもよく「父親に会わせてくれ」なんてお願いを聞いてくれたもんだ。普通ならびっくりするだろう。


 神林さんの家は意外と近かった。いつも通る住宅街を抜けた曲がり角を、俺の家のある方と反対方向に進めば十分程度で着く。曲がり角を中心に土地を折りたためば、俺の家と神林さんの家はくっつくかもしれない。

 目の前の神林家は、ごく普通の一戸建てだった。庭もなく、駐車場もなく、ただ白く四角い建物があるだけだ。それこそ、ごく普通のサラリーマンが建てたような。

 サラリーマン。俺の心の中に勝手に住み着いている神林の印象はそれだ。さっきから俺がこの家の中に入るのをためらっているのは、この中に神林本人がいるかもしれないと思っているからだ。


 神林は何者なのか。なぜ《思考の谷》にいるのか。そして、本当に人間なのか。謎だらけのあいつの正体が今日、わかるのだろうか。

 乾いて貼りついた喉に無理やり唾を通し、意を決してインターホンを押した。ピンポーンという音が遠くに聞こえる。


「はーい」


 扉を開けて出てきたのは大人しそうな茶髪の女の子、神林さんだ。襟口の広い長袖のシャツとデニムパンツを着ている。女子の私服姿を見るのはずいぶん久しぶりに感じた。


「あ、佐々木野です。急にごめんね。お父さん、いる?」


「うん、いるよ。どうぞ上がって」


 言いながら、神林さんは家の中に招いてくれた。いいの? なにもやましいことはないのに、妙な罪悪感が俺の中に芽生える。

 ドアを閉めて靴を脱ぎ、神林さんのあとに続く。よく見ると神林さんの足取りもどことなくぎこちない。男を家に上げるということに対して、彼女なりに意識しているようだ。


「この部屋にお父さんいるから。飲み物持ってくるね」


 木目調のドアの前に来たところで神林さんは回れ右をし、去っていった。一人にしないで置いてかないでください。

 しかしここまで来てしまったものはしかたない。この扉の向こうに、本物の神林がいるかもしれないのだ。会って聞きたいこと、問い詰めたいことはいくらでもある。頭の中でそれらの質問を整理、ドアをノックする。


「すみません。海千うみせん高校の佐々木野ささきのです」


「ああ、入ってください」


 返事があったのでドアを開けると、中にはソファに座った中年の男性がいた。

 男性は立ち上がり、テーブルを挟んだ向かいのソファを差して座るように促す。

 少し腹の出ている、もとい恰幅のいい、眼鏡の奥の目が優しそうな男だった。


 ……神林じゃないのかよ!

 いや、神林さんには違いないんだけど、《思考の谷》にいる中肉中背の冴えないあのおっさんとはどう見ても別人だった。神林の過去や未来の姿というわけでもなさそうだ。

 どうしよう。最悪だ。勇気を振り絞ったのに人違いだった。


「どうしたね? 座って座って」


 俺は壊れたマリオネットのように対面のソファに沈み込む。


「はじめまして佐々木野くん。由紀ゆきがお世話になっている、のかな? そうそう、私も由紀と一緒にあの番組を見ていてね、失礼ながら本当に笑ったよ。あれからすっかりきみのファンなんだ」


 思わぬ形でドッキリ番組の傷跡が会話の潤滑油になってくれていた。なるほど。あの番組の存在のおかげで、神林さんも神林さんのお父さんも俺に対して初対面とは思えない打ち解け方をしているのか。少し納得した。

 そのとき、ノックの音がし、直後に神林さんがお盆を持って入ってきた。


「あの、これ、よかったらどうぞ?」


 そう言ってテーブルに置かれたのは俺と神林さんのお父さんの分のコーヒーと、そして、でんと皿に乗ったハニートーストだった。

 完全にあの番組を意識してるなこれ! 別に好物じゃないんだけどな!

 なにかを期待されている目で神林親子に見つめられる。その視線で俺の胃に穴が開くよ。


「……甘いひとときをありがとう」


 古傷の決め台詞を絞り出すと、神林親子は明らかにテンションが上がっていた。なんだろう、なんか悔しい。

 そこでこほんと咳を一つ、神林さんのお父さんは居住まいを正し、今度は真剣な目でまっすぐ俺を見据えた。


「それで、私に話ってなにかな?」


 ですよねー。

 そうきますよねー。

 ここまでお膳立てしてもらっておいて、やっぱり人違いだったので話すことはありませんなんていえるはずもなく。俺の目の前は物理的に真っ暗になった。俺ははじめて、《思考の谷》へ逃げ込んだんだ。



「いやー、思い切ったことしましたね。大変なことになりましたねえ」


 暗闇に溶けるような黒スーツを着た冴えない男が笑いながら頬を掻いていた。

 うるせえ。そもそもお前の正体が気になったからこんな窮地に陥ってるんだろうが。逆恨みだろうが存分に恨ませてもらうぞ。


「断っておきますが、僕はこの家のご先祖様や幽霊の類でもありませんからね」


 もうお前なんなん。いや、もういいわ。今はそれより、どうやってこの状況を切り抜けるかが第一だ。


(答えは簡単です)


 俺の右隣に天使がぼうっと光とともに現れる。


(ヌンガロベイド教の素晴らしさを語りに来たと言えばいいのです)


 お前は開口一番か二言目にはすぐそれだね。今そういうのほんといいから。うさん臭い布教とか門前払い待ったなしだから。

 天使は困ったように顎に手を添える。


(ではそれはまたの機会ということにして、)


 来てたまるかそんな機会。


(正直に人違いでした、と謝ってみてはいかがでしょう)


 でもそれだと「誰と?」って返されるんだよなあ。そして残念ながら説明なんてできっこないんだ。


(なんでも馬鹿正直に考えるから息が詰まるんだよ、天使よう)


 俺の左隣で蝙蝠マスクを着けた悪魔が笑う。


(こういうのはてきとうに嘘をでっちあげてその場しのぎにするのがいいのさ)


 例えばどんな?


(……娘さんに取り憑いている悪霊を払いに来ました、とか)


 なんならお前を払ってやろうか。ヌンガロベイド教に負けず劣らずうさん臭いわ。人を勝手にエクソシストにでっちあげんな。


(っつてもよお、知り合いの父親に会う理由なんかそうそう思いつけるもんかよ)


 両腕を頭の後ろで組んだ悪魔は投げやりそうにそう言った。そうだよなあ。我ながら無茶ぶりだと思う。


(じゃあ実は生き別れの父親だった、とかどうよ)


 悪魔にしてはだいぶましな意見になったけど、まだインパクトが強すぎる。


(あーもー、こーなったら指名手配犯に似ていてぴんときたとかでいいじゃんか)


 悪魔がどんどん拗ねていく! めんどくさいけどもうちょっと頑張れ!


「でも、お父様に個人的に話があるというのは事実ですしね」


(佐々木野信人まことさんがおじ様に個人的に興味がある!? いいですねそれ!)


 神林の言葉をねじ曲げた天使が鼻息を荒くする。ヘイ、ストップ。ストップ。


(それでいきましょう! 一目惚れです! このおじ様こそが佐々木野信人さんの運命のお相手なのです! ヌンガロベイド神大喜び!)


 だめだこの天使、堕天してやがる。


「ふむ、一目惚れとはいい線かもしれませんね」


 お前までそっち側だったのか神林!?


「いいえ違いますよ。要するに――」


 神林の提案を聞いて、俺はもう腹をくくった。天使と神林と俺は顔を見合わせ、うなずく。悪魔だけは「お前らの方がよっぽど悪魔だぜ」とぼやいていたけど、なんにも聞こえませんなあ。




「それで、私になんの用なのかな」


《思考の谷》から戻ってきた俺の耳を、神林さんのお父さんの質問が打つ。俺は横に立っていた娘の神林さんの方を見て、立ち上がる。


「神林さん、実は俺、きみのことが気になってたんです! もしよかったら、俺のひとときにつき合ってくれませんか!?」


「へぇ!?」


 突然矛先を向けられて目を白黒させる神林さん(娘)。自分でも無茶苦茶だと思うが、もうなるようになれだ。どのみち、神林の正体を探ろうとした時点で、俺はおかしくなっていたのだから。


「ほう」


 神林さん(父)は眼鏡に手をかける。俺はそちらにも顔を向けて頭を下げた。


「お父さん、娘さんとおつき合いすることを許してもらってもいいですか?」


 二人がぽかんと呆気に取られているのがいやでも肌に伝わってくる。居心地の悪い沈黙。またもや《思考の谷》に逃げ出したくなったとき。

 二人の笑い声が、部屋に響き渡った。


「やっぱり面白いなあ、きみは。でも、お父さんと呼ばれる筋合いはない。これ、一度言ってみたかったんだよね」


 出た腹を抱えて笑う神林さんのお父さんは上機嫌だ。


「どうするかは若い二人で決めた方がいい。由紀はどう思う?」


「あのね、佐々木野くん。えっと、まずは友だちからはじめましょう? 私たち、あんまりお互いのこと知らないでしょ。もー、カメラどこにあるのー?」


 意見を求められた神林由紀さんは、目尻を拭いながら部屋を見回している。ドッキリだと疑っているらしい。


「ごめん、これは本気なんだ」


 そして、俺は本気で振られると思っていたし、その覚悟はできていた。だけどなんだろう。不思議と今は夢の中にいるような、悪くない居心地の中にいる。


「じゃあ、神林さんのことを教えてくれない? 俺も、これから自分のことを知ってもらえるように頑張るからさ。よろしくお願いします」


 差し出した俺の手を、由紀さんはそっと取ってくれた。


「うん、友だちからね、こちらこそよろしくお願いします」


 そしていたずらっぽくウインクまでするのだった。


「甘いひととき、楽しみにしてるからね」


 神林家は温かかった。

 ターゲットは的外れだったものの、神林のことを知るという俺の目的は、字面だけは達成されたのだ。

 しかし、悪魔の言葉がよぎる。

 あの場を乗り切る言い訳に告白するなんて、確かに俺は悪魔なのかもしれない。

 でも、人を好きになるきっかけというのは、意外とその場のノリだったりするんじゃないだろうか。


 こうして、二人目の神林という名の知り合いができた。この関係が友だちのままか、それとも恋人に発展するのかは、それこそ神のみぞ知るというやつだ。

 とりあえず目下の悩みは、テーブルの上にある食パン一斤のハニートーストをどうやって平らげるかだ。こればかりは《思考の谷》に行ってもどうにもできまい。

 今日は甘々な日曜日になりそうだ。

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天使と悪魔と神林 二石臼杵 @Zeck

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