→青いハンカチ

 秋だな、と思った。

 いつも通りの帰り道。見慣れた風景のはずが、今日は一味違った。

 普段なら一人でとぼとぼ通る住宅街。その、俺の前の道を。二人の女子が並んで歩いていた。二人ともうちの学校の制服を着ていた。

 ついこの前まで半袖だったのに、もうブレザーを羽織っている。かくいう俺もしっかりブレザーを着込んでいる。


「ねえ、こっくりさんって信じる?」


 長い黒髪の女の子、三田村みたむらさんが自転車を押しながらもう一人の女子に話しかける。


「えー、なに、急に?」


 背の低い茶髪の子が戸惑った。俺だって突然オカルトの話を振られてたら困る。


「キューピッドさんなら信じてもいいかなー」


 茶髪の子があり得ない角度で言葉を続けた。こっくりさんとの違いがわからん。ついでに女子の気分も。

 今は試験期間中で、部活は休みだ。帰宅部の俺には関係ないが、普段から健康的に部活に勤しんでいる三田村さんたちは早く帰られるというわけだ。

 それにしても三田村さんの隣の子は誰だろうか。三田村さんは同じクラスだから知ってるけど、隣の子は見たことがない。たぶん違うクラスなのだろう。

 だから俺は話しかけもせずに、ストーカーのようになるべく気づかれないような距離を置いて同じ道を帰っているんだ。いや、三田村さん一人だったとしてもどうせ話しかけられないんだけどさ。人見知りと思春期のコンボは最強だ。

 自転車を押しているところを見ると、三田村さんが茶髪の子に合わせて歩いてあげているんだろう。さすがクラス委員だ。俺なら一人でさっさと風になるね。


「でもオーガニックって目に沁みそうだよねー」


「口も臭くなりそうじゃない?」


 ちょっと話を聞いていないうちに話題がまた飛躍していた。女子の会話はもはやワープだ。そしてオーガニックは別にオニオンとガーリックのハイブリットではないということだけ言いたい。でも口を挟む度胸なんてないしなあ。

 そこでふと、前方の道になにやら異物があるのが見える。ちょうど三田村さんたちのすぐ後ろに四角いなにかが落ちている。

 どうやらハンカチらしい。女子って律儀に持ち歩くよね、ハンカチ。俺はよく忘れるので手を洗ったあとズボンで普通に拭いたりする。

 きっと、女子にとってハンカチは乙女心の次くらいに大事な必需品なのだろう。そんな気がする。

 そうこう考えているうちにも三田村さんたちはどんどん歩いていってハンカチから遠ざかり、逆に俺がハンカチに追いついてしまった。淡く青いストライプ模様の、かわいらしいタオルハンカチだ。

 しまった。さっきなら「ハンカチ落としたよ」と声をかけるだけでよかったのに。どうしよう、拾うべきか、見過ごすべきか。自慢じゃないが女子に話しかけられる勇気と自信はあんまりない。しかも結局どっちが落とし主かわからないままだしなあ。困った弱った。

 すると、突如真っ黒な布をかぶせられたみたいに視界が暗転。ああ、そうだよねこうなるよな。すっかりおなじみの《思考の谷》に、俺は来ていた。



(悩んでますね? 迷ってますね? そのお悩み、ヌンガロベイド神に相談してみましょう)


 ちゃっかり俺の右隣にいる、バイザーを着けて白く輝く女性、自称天使はささやいてきた。

 そんな得体の知れない神に相談するくらいなら牛乳に相談するわ。あと三センチくらい身長欲しいし。


(このいかれ天使になに言ったって無駄だぜ。こいつの頭と信仰心はフランスパン並みに硬いんだからな)


 左隣で蝙蝠のマスクを着けた黒い悪魔が肩をすくめる。

 じゃあ牛乳に浸せば解決だな。牛乳に相談してよかったね。


(そうじゃあねえんだけどな……)


 悪魔は大げさにため息をつく。俺の心の中から幸せが一つ逃げていった。


「はいはい、皆さん。本題に入りましょうね」


 ぱんぱん、と手を打ち鳴らす音が黒い空間に響く。俺の正面にスーツを着た冴えないおっさん、通称神林が現れた。


「今回の議題はこの落ちているハンカチをどうするか、ですよね」


 珍しく神林が真面目に仕切っている。


(んなもん、見なかったことにして素通りすりゃいいじゃんか)


 悪魔が口を尖らせた。


(いけません。落とし物は持ち主に返すべき。これまでもそうして、事実その選択肢は正しかったでしょう? 全てはヌンガロベイド様のお導きです)


 得体の知れない神が功績を全部横取りしやがった。ろくでもねえな。


(というわけで、交番に届けましょう)


 なにもそこまでしなくとも! 落とした人がすぐそばにいるんだよ。二度手間じゃないか。あともう交番はこりごりだ。


(ところでよお、あの女子二人ともかわいくねえか?)


 悪魔のその意見には同感だ。三田村さんはぴしっとしていてきれい系、隣の茶髪の子はふわふわほんわか癒し系ってとこか。


(……このハンカチ、いくらで出品できるかな)


 オークションに出そうとすんじゃねえよこの悪魔め! 違う意味で交番沙汰になるだろうが!


「まあまあ、落ち着いてください」


 神林が場をなだめる。


「今回の答えは簡単です。ただハンカチを拾って、女の子に渡すだけでいい。ちょっとやってみましょう」


 今日の神林は明日の天気が不安になるぐらいまともだ。神林はハンカチを拾い、俺に差し出した。


「あのー、ハンカチ落としましたよ。ついでに僕の心も落ちちゃったんで、拾ってもらえませんか?」


 俺ぜっっってえ言わねえからなそんな台詞! お前が落っことしたのは羞恥心だろ!


(なるほど。その手があったか)


 悪魔が神林からハンカチを受け取る。どの手だよ。

 悪魔はハンカチを広げて両端をつまんだ。


(今からこのハンカチの柄をボーダーからストライプにしてみるぜ)


 誰がマジックしろっつったよ! しかもしょうもないやつ!


(じゃあ私! 鳩出します!)


 張り合わんでよろしい天使この野郎! モノボケ大会かよ!


「どうやら調子が戻ってきたみたいですね」


 ? なにを言っているんだ神林は。


「あなたは実は迷っていない。心の奥ではもう答えは出ているんでしょう? にもかかわらず《思考の谷》に来たのは、背中へのあと一押しが欲しかったからなんですよ」


 ……そうか。そうだ。俺のするべきことは最初から決めていた。でも心のどこかで渡せるかどうか不安があったから、天使と悪魔と神林は緊張をほぐすためにわざととんちんかんなことを言っていたんだ。あれ? でもそれいつも通りだな?

 まあ、でも。緊張が和らいだのは本当なわけで。

 だから俺は悪魔の手からハンカチを受け取り、笑った。

 さすがに「ありがとう」なんて、照れ臭くて言えなかったけどね。俺の心とともに、

 暗い景色が晴れていく。



「あの、」


《思考の谷》から抜け出した俺は、少し早足で女子二人に追いつき、背中に声をかけた。上ずったりしていないだろうか。

 三田村さんと隣の子が同時に振り向く。

 すると、三田村さんは歓声を上げながら隣の子の肩を叩いた。


「あっ、この人が佐々木野ささきのくんだよ! よかったじゃん、話しかけられて! 気になってたんでしょ?」


 なぜかテンションが上がっている。どういうことだ。

 隣のゆるふわ女子も両手で口元を押さえていた。その指の隙間から驚きの声が漏れる。


「……実在したんだ」


 するわそりゃ。人をUMAみたいに言わないでくれ。

 というか、なんで俺のことを知ってる風なの。

 ふわふわ茶髪の子はぎゅっと目を閉じ、それから意を決して口を開いた。


「あ、あのっ、ボルダリング見ました! 面白かったです……!」


 ……あー。あれかあー。謎は解けた。

 以前俺が仕掛けられたドッキリ番組で、変な名言残しちゃったもんだから、中途半端な芸能人扱いにされていた時期があった。もうすっかり鎮火したかと思っていたのに、まだ燻っていたのか。


「それはどうもありがとう。でも忘れてください。それよりこれ、落としてない?」


 二人にハンカチを見せると、茶髪の子が目を少し見開いた。


「あっ、あたしの。ありがとう」


 俺はハンカチを彼女に渡し、胸を撫で下ろした。なんだ、終わってみればあっけないものじゃないか。変な覚悟をしていた自分がばからしく思えてきた。

 これで安心して家に帰れると思った矢先、三田村さんが茶髪の子を肘でつついた。


「しっかりしなよ神林―」


 かん、ばやし?

 このハンカチを落とした子の名前は、神林っていうのか?

 ただの同姓かもしれない。なんの関係もない可能性の方が高い。

 でも、俺の好奇心は爆発してしまった。


「あの、神林、さん?」


「はい?」


 声が上ずるのを感じる。けれども、どうしても確かめたくなってしまったのだ。俺の中にいる、天使でも悪魔でもない第三の男、神林。彼はいったい何者なのか。ずっと知りたくてしょうがなかったんだ。

 だから、俺はありえない発言をしてしまう。


「神林さん、もしよかったら、きみのお父さんに会わせてくれないか?」


 三田村さんも神林さんも、目を丸くしている。

 どう考えても初対面の女の子に言う台詞じゃない。どうやら、俺もなにかを落っことしてしまったらしい。

 神林さんはというと、なんとこくんとうなずいてくれた。


「今度の日曜なら、家に来てもいいよ。お父さんいるから」


 かくして、今度の日曜日、俺ははじめて女子の家に上がることになった。

 昔の映画に幸せの黄色いハンカチというのがあったのは知っている。ならば青いハンカチは、いったいなにをもたらしてくれるのだろうか。

 次の日曜日、俺は本物の神林に会うかもしれない。緊張の冷や汗が背中をくすぐる。ああ、くそう。俺も明日からハンカチを持ち歩くことにしよう。

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