透明

金村亜久里/Charles Auson

はや孟夏初夏もうかはつなつ

空の青きと

雲の白きの

天蓋いっそう高くしてなおたかく突く真入道

川面の空色の、空の水の色の

*aerの澄んで冴えなおいっとう冴えわたり

彼方此方の間隙に溶けて去る*on


     ◆


 尾立加ひじかはよく本を読んだ。休み時間も、なんなら授業中も、暇さえあれば本を読んでいた。授業中が暇というのは失礼な物言いかもしれない。しかし尾立加にとっては大体の授業は暇なもののようだった。実際授業など聞いても聞かなくてもよかったのだ。定期試験ではほとんど満点をとり、張り出される順位では各科目、総合、ともに常にトップを維持していた。

 そういうわけだから、時事問題を扱う新書を読んでいても、生物や思想について論じるハードカバーを読んでいても、文庫の小説を読んでいても、どの教師も尾立加にだけは口出しできないのだ。授業で教えている内容はとうに理解していて、そのはるか先の事柄を彼女は今まさに書物から学ぼうとしているのだから。それを止める権利が一体誰にあるだろうか? この小説を読むというのが巧妙で、尾立加は休み時間には最新の、それもいっそ低俗なものさえ読むのだが、授業中はそれらを封印し、文学史上に燦然と輝くような古典乃至名著や教師の年代好みの文学作品を選ぶものだから、注意しようとする彼らもやはり出鼻をくじかれるのである。

 遠方のより学力の高い高校に行かないのは単純に家に金がないからという理由で、まだ小学生の弟と妹を思えば下宿などするような金も惜しいのだと彼女は言っていた。両親は機械の塗装や修理を手掛けている、自分は女子だから仕事を継ぐとしたら弟だろう、とも。高校は小高い山の中腹にあって、その山の西側に伸びる道路の、白い塗料の所々剥げたり削れたりして金属の色がうっすらと見えているガードレールの脇に自転車を止めて、一メートル五十センチはある柵の上に腕を置いて、空の青きと雲の白きとを眺めて昼間からたそがれる癖が尾立加にはあって、そうしている尾立加が以前それとなくそう言ったのを覚えている。

「昼間っからたそがれるっていうのは、言うのかな」

「それこそしつるよ」

 今昔物語集の絵仏師風に言って、尾立加は古語「ながむ」の語義をそらんじてみせた。ながむ……眺める、物思いに耽る。

 油蝉のやかましく鳴いて、日陰にいても暑い日だった。一陣強い風が吹くと尾立加の髪は横に流れて陰の中でいっそう陰影を作ってはためいた。烏玉の黒だった。自分の癖毛をひきくらべて羨ましかった。


 その尾立加が校舎の壁に落書きを見つけた。七月の、南にひときわ大きい入道雲の見える日だった。ちょっと枝でほじくればすぐ剥げてしまいそうな具合に塗り固められた校舎の壁の一角に、三角様に崩れた円が真上から反時計回りにぐるりと引かれ、その接点から右にまっすぐ線が伸びると八十度ほど折れ曲がり、左側の円と下限を共有する形で鋭いブイ字を描いて跳ね上がって「止め」で途切れている。円の上には二つ何やらコンマのようなものが大胆に付け足され、全体は濃紺のスプレーで描かれていた。

 素行不良の生徒など土地をひっくり返しても出てこないような、平和ぼけした片田舎の平凡な高校だったから、縦二メートル横三メートルの落書きでさえ例を見ない一大事であった。

 既にのべたとおり、第一発見者は尾立加だった。あまり目立たない場所の、敷地の内側を向いた壁に描かれていて、外からは発見できないようになっていた。現場にやってきた教師の一人が、尾立加の持っていた手提げかばんを見て言った。

「一応中身の確認を」

 あくまで念のためで、ほとんど儀式のようなものだった。担任の女性教師が尾立加の鞄をあらためるも、スプレー缶に類するものは全然入っていない。顔料の類でいうならば、もちろん、ボールペンはあるが。

「災難だったね」

 そう言うと、尾立加は大小の並んだ黒子のある右の前腕を撫でながら言った。

「誰だろうね、やったの」

「さあ」

「防犯カメラもないし」

「べつに見つからなくてもいいんじゃないかな、どうせ誰かのいたずらなんだから」

「誰かだということはわかっている」

「それでいいと思う」

 二度目の落書きはちょうど一週間後にあった。また別の壁に、同じ色のスプレーで、同じような模様が描かれている。今度は大きさが違った。すなわち、やや小さく、こじんまりとしたものに変わった。

 三度目の落書きは、スプレーの色を朱に変えて、手先で書けるような小さいものを五つ横に並べたものが描かれた。

 尾立加は、生徒の間で話題になったそれらをやや遠くから見て、いつものようにうっすらとほほえんだ。

 放課後、わたしたちは駅前の古ぼけた喫茶店に行った。冷房がごうごう音を立てて作動している店で、どんなに多くても十五人程度しか入れないほど狭い。やや薄暗く、照明の光は黄色かった。カウンターやテーブルの使い古された深い飴色は、尾立加もわたしも気に入るところだった。一杯二百五十円のミルクティーを注文して、二人してそそくさと授業で出た課題を終わらせて、わたしは『さかしま』を、尾立加は古今集を読んだ。『さかしま』は前に尾立加が読んでいるのが気になって、図書館にあるのを借りてみたのだ。尾立加も図書館で借りたのを読んでいた。珍しい本、らしい。翻訳の澁澤龍彦は、わたしは名前しか知らなかった。

「それ読み終わったら『百頭女』とかどう?」

「ひゃくとうおんな?」

 尾立加はノートに字を書いてみせた。百頭女。La femme 100 tetes。tetes、の最初のeの上には山形の記号が乗っている。

「20年代のフランスの小説でさ。挿絵がすごくたくさんあるんだ」

「へえ、珍しいね。古いし、図版集とかでもないんでしょ」

 ふと、あの落書きの円の上に乗ったコンマを思い出した。

「あの落書きにも何か、上に乗ってたよね。あれもフランス語なのかな」

「ああ。あれは」

 尾立加は唇の端を少し硬く吊り上げて言った。苦笑いだった。

 ――少なくとも苦笑いが混じっていたのは確かだった。

「人称代名詞にonならあるんだけど、あれは多分o、v、だから、どうかな。Ov, ov …」

「英語ならofがあるけどね」

「英語だから」

「ふふ」


 落書きの犯人は見つからなかった。

 四件目は形も変わって、所々にがたがたと揺れのある一文字の線が、校舎の壁一面の全体に一本長々と引かれていた。緑色のスプレーだった。線の中央には串刺しにされる形で綺麗な円が書かれて、円の上に、Luna、と書かれている。

 油蝉が鳴く、うだるように暑い日だった。かんかん照りの日の下で、尾立加は一人、Lunaの四文字を睨みつけていた。黒に近い濃紺の膝丈のスカートの焼かれてじりじりと音を立てる、白いシャツの光を撥ねつけて照る、長髪の汀にうちあげられたわかめのようにじっとり黒々とする。コンクリートの上を陽炎が舞った。

「月?」

 そう言ったのはわたしだった。尾立加は黙って首を縦に振ると、

「犯人を見つけようと思わない?」

「これの?」

 頷く。

「もう四件だし」

「前の三つも全然犯人見つからないしね」

「美観上の問題もあるし、この暑いのに用務員さんにペンキ塗りさせるわけにもいかないし、そうでしょ」

 昼のみならず夜も暑かった。気の早い熱帯夜が続いていた。一日中、ひたすらに暑いので、皆平年より早い酷暑を恨んでいるところだった。

 わざわざ高校の敷地内で四件連続で落書き事件が起こっている――そして校外では事件は起こっていない――ことから、内部の犯行だろうということはおおよその予想として立てられていた。あるいは防犯カメラかそれに準ずる何かがあれば犯人もすぐ割り出せたかもしれない。でもわたしたちが通っている高校は、設備投資については体育館脇のトイレがいまだに汲取り式のままになっているような具合で、防犯カメラのネットワークなんて望むべくもなかった。

「でもテスト近いよね」

「そう、テストまであと三週間。でも一週間前から部活動禁止になるから、そうなったら放課後の活動もほとんどなくなる、犯人も捕まえにくくなると思う。だからそれまで。二週間で犯人を捕まえる」

 尾立加はすぐ行動を開始した。用務員室、職員室を回り、次いで陸上部を筆頭に屋内外の運動部、美術部吹奏楽部以下文化部に聞き込みを行った。それまでわかっていた通り、二件目以降も犯人が落書きをする現場を見た者はいないということ、ただし四件目だけはスプレー缶が茂みに投げ捨てられているのが発見されたこと、その二点しか明らかにならなかった。

 次の、そのまた次の日の昼休み、気まぐれに汗を垂れ流したくなったわたしは八月並みの熱い大気に満ちた校庭を歩いていた。頬と額が日差しと光に焼かれて生焼け風に熱を帯びる。流れる汗で髪が次第に根元からじっとりと濡れていく。白い半袖のシャツは光り、濃紺のスカートはほんのわずかに光を透過しながら火照った。照りつける日の下でじりじりと蝸牛の歩みでデトックスの精神の行軍をしていると、前から一人が近付いてきて声をかけた。

「足立さんですか?」

「ええ」

 彼女は吹奏楽部の一年生だった。実家は山の麓にある商店街の雑貨屋で、工具の類も扱う。

「昨日落書きの犯人を捜してるって言ってましたよね。それで実は、それらしい人知ってるんです」

「どんな人?」

「見たのはわたしじゃなくて母なんですけど、背はわたしと同じくらいの男子で、髪が長くて、後ろ髪が大体シャツの襟を隠すくらいまであるらしいです。その人が、緑色のスプレー缶を買って行ったって」

「そう……どんな顔の人だとか、覚えてる、お母さんは」

「あんまり特徴のある顔じゃなかったみたいで。服も私服で。顔立ちで、大体高校生かなってあたりはつけてたけど、落書きがあって「アアあの男の子はうちの生徒だったんだな」って思い出したらしくって」

「ありがとう」

 それでわたしはその生徒と別れた。別れてから名前を聞いていないことを思い出した。吹奏楽部の一年……顔で覚えられるだろうか。四件目の容疑者一人目は、その髪の長めの男子ということになった。

 昼休みが終わろうとしていた。午後のコマが始まる前に汗を拭いておかなければならない。校舎をさして、やや歩調を速めて歩いていると、後ろから軽やかに走る足音が近付き、わたしの隣で止まった。尾立加は背中を指した。

「ブラ透けてるよ」

 指先はシャツ越しにちょうど下着に触れていた。暑さに負けて直接ワイシャツを纏っていたのだ。にわかに恥ずかしくなって、わたしは速足で戻ることにした。


 倫理の授業中のことだった。

「ヨーロッパにおける宇宙観は時代の変化と共にたびたび書き換えられてきたわけですが、最初に洗練された学問的な理論を打ち立てたのは古代ギリシアのアリストテレスでした」

 今年で五十二になる、年の割には老け込んだ顔の、好々爺然とした先生は、黒板に二本の線を引いた。それから線の間の空間に、全部で五本の薄い線を引く。そして一番下の線の中央に、円を、線でもって貫かせるように描いて、円に沿えるように「Luna」と記す。Luna ……月。ちょっとしたどよめきがあがった。

「Luna、月ですね。この線、月の軌道の下にあるのが地球、軌道の上にあるのが太陽と水星から木星までの惑星、そして一番外側に恒星が来ます。今書いた軌道、というのが天の球体と書いて天球と呼ばれていて、外側から第一の天球、第二の天球……と並んでいくわけです。この天球は殻のようなものをイメージしてみればよいでしょう。殻の上に一つ一つの星がはりついている。惑星は文字通り惑う星、と呼ばれていますが、古代ギリシアでも、他のたとえば無数の恒星とは違った軌道を描いて飛ぶこれらの特殊な星の動きを説明するために、ギリシア人は惑星にのみ複数の天球を与えました。違った向きに回転する天球がいくつか重なっていて、複数の動きが互いに干渉しあうことで不規則な軌道が生まれる」

 それからくだくだしい宇宙論と、「第一の天球の外にいる不動の動者」についての話が展開された。落書きと同じ図形に興味を示していた生徒たちからは軽いブーイングが飛び、興味を失うポーズが示されたりした。一通り、おそらくは手短に話し終えた先生は、ペットボトルのお茶を一口飲んで、「で、この月についてですが」と続けた。

「いってしまえば月は、宇宙全体を二つに分ける境界のちょうど境目にあるんですね。古代ギリシア以来の世界観では、月の上と下では、世界を構成する物質が異なると考えられてきました。地上を構成するのは火、水、土、空気の四元素。一方月から上の世界を構成するのはエーテル、ギリシア語ではアイテールといいますが、これただ一つきりです。地上にあるものはもとをただせば四つの元素からできていますから、なにかあるとすぐばらばらに離れて壊れてしまう。けれども恒星や惑星は壊れたりしない永遠のものである、何故ならこれら星を構成する物質はアイテールただ一つであるから……近世から近代にかけてこのアイテール、エーテルというものが光を媒介するものであると物理学の分野でいわれたりするのですが、それはまた別の機会に話すこととしましょう」

「先生、もう一個の落書きは何か意味あるんですか」

 と、生徒の一人が聞いた。

「そうだ、足立と尾立加お前調べたりしてるんだろ」

 と、また別の、右斜め前の席の一人がわたしのほうに振り返って言った。

 わたしは尾立加を見た。彼女は横六列縦六列の席の、廊下から数えて横五番目、後ろから二番目にいた。わたしは横三番目の最後列だった。水を向けられた尾立加は、閉じた唇をぎゅっと平たくして、まぶたの陰をいっそう暗くしていた。

 先生は黒板に反時計回りに円を描くと、チョークをほとんど黒板から離しながら思い出したように薄く線をつなげて右に手を動かし、濃くブイ字を描いて止めた。そして円の上に、コンマの円部分を横向きの線にした記号と、その右隣に同じ長さの斜め線を付した。

 わたしは、先生があまりに馴れた手つきでそれを記したことに驚いた。全体でみるとその図形はやはりアルファベットのオーブイovに何やら記号を足したもののようにしか見えなかった。フランス語か、さもなくば北欧ないし東欧のどこかの言葉の一単語のように思えた。

「で、この図形、実は文字なのですが、これは」

「先生」

 尾立加が突然手を挙げて言った。

「保健室に行ってもよいでしょうか。気分がすぐれないので」

「ええ、どうぞ」

 尾立加が出ていくと、ちょうどチャイムが鳴った。

「時間ですね、では今日はこれにてお終い。次回はルネサンス以降の宇宙観についてからはじめます」


 捜査を続ける間にも落書きは増えていった。コンマ付きの円とブイ字を繋げたあの記号が、あたかも細胞分裂で二倍、四倍、八倍と増えていくかのようだった。

 十件目の落書きまでの記録をつき合わせると、四件目と八件目を除いてはすべてが「円とブイ字」で、色は紺、朱、黒、緑の四種類。場所は、北校舎に三件、西校舎内側に一件、西校舎外側に四件、体育館に二件。四件目の線と月は西校舎外側の南側の壁に、八件目の五芒星は北校舎の最初の「円とブイ字」の落書きの脇に書かれていて、色はそれぞれ緑と黒だった。緑色の「円とブイ字」も七件目に書かれていた。「円とブイ字」は一つだけ書かれることも複数書かれることもあって、一番多かったのは体育館の壁に描かれた二十四個だった。

(敷地内の構造について……北から西にかけてL字型の校舎が、東には体育館があり、南には運動場が開けている。西側の校舎は北側と直接つながっている内側とそうでない外側の二棟が並列している。)

 何か法則性があって、次に書かれる場所を予測できるかもしれない……そう考えたけれど、結局どうにもならない。順番に線でつないでも、円や三角の記号に重ね合わせてみても、これといった規則性や一致があるようにはどうしてもみえなかった。

 その間も色々と聞き込みをしていたが、結果はそれほど芳しくない。犯人は巧妙に人目を避けて行動しており、目撃情報もほとんど入ってこなかった。せいぜいわたしの手帳に黒子の位置の記録が増えたくらいだ。人に会うと黒子の位置を記憶する癖があった。右の後輩の左目脇の大小の泣き黒子であるとか、サッカー部の先輩の親指の付け根に三つ固まった三角の黒子であるとか、数学科の先生のこめかみにある染みのような黒子であるとか、「黒子情報」が手帳の中でそれなりの存在感を発揮していた。尾立加の右腕の黒子も、ちゃんと入っている。

 十日が過ぎた。それまでで描かれた落書きの数は十五に及んでいた。描くスペースが極端に減るのを避けるためだろうか、段々サイズが小さくなっているようにも見えた。

 昼休みはわたしと尾立加の二人で、放課後は尾立加一人で探索を続けた。調査開始から十日が経ったその日、わたしたちは北校舎の裏で偶然にも落書きの犯人に遭遇した。

 北校舎と塀の間には太い針葉樹が何本も植わっていて、日の光がそれほど届かないこともあって、昼でもひんやりとして薄暗かった。シルエットで見えた犯人は、なるほど吹奏楽部の後輩の証言と一致してスラックスを履いている。体格も(あまりあてになるものではないが)骨張っていて肩幅が多少広いように見えた。

 影を捉えた尾立加は早かった。影目指して一直線、五十メートル六秒台のスプリント。追われる人物はぱっとその場でスプレー缶を放棄して走る。影はすぐに北校舎の隅にたどりつき、右に折れて、ロストしてしまった。尾立加が同じく突き当りを右に曲がったときには、もはや彼の姿はどこにもなかった。

 二人で現場に戻った。図像はあの「円とブイ字」。しかし随分と下手な見た目で、線ががたついて塗料が垂れている。スプレーの色は…………黒。

 尾立加は何も言わない。ただしゃがんで、うつむいて、土の上に落ちたスプレー缶をじっと注視しているようだった。それが突然缶を掴み「ov」のoの中空めがけて塗料を噴射した。黒……壁に定着しきれず溢れた分が重力に引かれて、巨怪な黒い点とそこから涙のように垂れる黒いざらざらした線ができた。

 ちょっと……何してるの!

 先生呼んできて。今のうちに。

 平素の柔らかさからは想像もつかない低く冷たい声で彼女は言った。わたしは周りを見た。他に誰かがいるようには思えなかった。また新しい落書きがあった旨を報告に行き、戻ってくると、ovの図形は全面真っ黒に塗りつぶされていた。


 次の日、わたしは尾立加に頼まれて美術の課題(人物画)のためのモデルとなり、姿見の前で丸椅子に座っていた。

 美術室にわたしを呼び出した尾立加は、この課題を明日までに仕上げなければならない旨を説明しながら、席に着いたわたしの肩を揉んだり、髪を軽く弄ったりした。

 十一日目になる。

 もう日がなかった。それは尾立加も当然承知しているはずだった。窓の外から運動部の声が聞こえるのもあと三日だけ、落書きはつい昨日だってあったところで、これから増えない可能性はどこにもない。取り逃がせばきっと捕まえられなくなる。

 こんなこと、と言ってしまうのは乱暴だが、こんなことに時間を費やしていていいのだろうか。そもそも授業中の課題なんて……

「ありがとね、わざわざ。あ、ちょっと鏡の方見てて」

 昨日は少しだけ荒れていた尾立加も、今日はいたって静かに日中を過ごしていたようだった。今も、わたしの髪の不規則に細くまとまっているのを一房ずつ指先で撫でるように触りながら、あたら慈しむような目をしている。鏡越しに見えるその顔付が如何ともしがたく気恥ずかしくさせた。赤くなったわたしを見て、尾立加は一言、

「かわいい」

 とだけ言う。

「髪、綺麗だよね」

「わたしは、尾立加の髪の方が好きだけど。まっすぐだし、のばせるし」

「絵にしたとき綺麗なのは、断然足立の方だよ。写実でも、印象でも。きっと髪の毛が光って見えるよ」

 わたしの髪……癖毛で、地で薄ら茶けて、日に当たると所々はほとんど落花生の殻の色になるような、わたしの……

 尾立加は、やはりにこにこと笑いながら、髪に戯れ、時折耳に触れしていたが、突如目をぐわっと見開き、隅に置いてあった鞄にとびついた。

「ごめん、手帳借りる」

 尾立加は一種神憑りのように手帳をめくっていき、あるページの一点に目を落とすと、手帳を持ったまま美術室をとびだしていく。

 どこに行くのかと聞いたが、彼女は、追いかけようとするわたしを手で制したのち、一人でどこかへ駆けていってしまった。


 その日の内に落書きの犯人が明らかになった。三年生の男子生徒で、聞き込みの途中で会ったサッカー部の、親指の付け根に三角の黒子のある先輩だった。一足先に走り出して近付いた時に視界に捉えていたのを、偶然思い出したのだ。先輩は自首し、事件は解決するかに思われた。

 曰く、四件目の「Luna」と十日目(十六件目だった)のものは自分がやったものだが、それ以外についてはまるで覚えがないのだという。

 それを聞いたらしい尾立加は、「ふうん」とだけ言った。あとは軽く鼻を鳴らすきりで、そそくさと美術室に戻り、その日の下校時刻まで尾立加はわたしの前にイーゼルを置いて鉛筆画を描いた。


 次の日、十二日目。

 課題だという鉛筆画を切り上げると、もう夕方の茜色の光が南から差している。借りている本を「重いから」と教室においてきた尾立加共々、人のはけた教室に戻ってきていた。ハードカバーを探り当てた尾立加に、

「ねえ」

 と聞いた。

「他の落書きの犯人、誰なのかな」

 尾立加は、彼女は、表紙を撫でながら(『シェイクスピア悲劇全集 オセロー・リア王』)、あの柔らかい笑顔で答える。

「もうわかってるんでしょう?」

 わたしだって思い浮かばないわけではなかった。尾立加の家はちょっとした工場のようなもので、当然塗装だって受け付けている。だからどんな形であれ、建物の壁に使われる類の塗料がないなんてことは絶対にありえない。

「そう、やっぱりそうなんだ。でも」

 知りたいのは、どうしてそんなことをしたのか。

 茜色の壁、茜色のシャツ、茜色の机、茜色の肌。焼け焦げた黒のスカート。たそがれ時。

 唇の端が少しだけひきつったように歪んで、(苦笑いだ)、それでも笑顔のまま尾立加は言った。

「模倣犯を捕まえようと思ったのは、完璧さを崩されたのが我慢ならなかったから。六芒星を入れたのは、勝手に別のものを書き足された後で正直少しどうでもよくなっていたから。どうしてあんなものを大量に描いたのかは、それは、存在になりたかったから」

 存在?

 尾立加は黒板に向かっていき、チョークを持って、黒板に反時計回りに円を描くと右に手を動かし、ブイ字を描いて止めた。そして円の上に、コンマの円部分を横向きの線にした記号と、その右隣に同じ長さの斜め線を付した。

「で、この図形、実は文字なのですが、これは、オン」

 On?

「フランス語じゃないんだよね」

「ノン、ノン」

 古典ギリシア語存在動詞*eimi現在能動分詞中性単数主格。

 そう一息に言った。

「ものがあるということ。Being, Sein, etre」

「どういうこと?」

「人間じゃなくて、あるということそのものになりたかった。ありたかった、かな。とにかく、別の何かになりたかったんだ、自分以外の、別の、何か。もっと別の何かでありたいんだ」

 ここで尾立加が何を言おうとしていたのかわからなかったし、それからもわかっていない。

「何でもないものになりたかった。いかなるものでもない何か。そういうものがあるとしたら、それは多分きっと『存在』にほかならないだろうから。何ものでもない、何でもない、無味無臭無色透明の存在するもの未満の何か。少なくともわたしは、今のようでないことのような何かになりたかったし、そうありたいと思っている。そういう風に思ったこと、足立はある? ない?」

「そんなの、考えたこと」言葉が続かなかった。それを見て尾立加は薄く笑ったように見えた。

「それならきっと、思ったことがないってことだよ」

「でもわたし、尾立加の髪は羨ましいって思うよ。昨日も、言ったけど」

「そう」

 沈黙。

「十日もわたしのわがままに付き合ってくれてありがとう。これ、ここに置いとくからさ、返却おねがい」

 と、わたしの視線が机の上に置かれた『シェイクスピア悲劇全集』に落ちる。

 たをやめの僅かに焼けた腕の暮空の陰に橙になるのがすうと持ち上げられた。

「じゃあ」

 手指がサッシにかかる……そして、頭から落ちていった。

 三階の高さから落ち、真っ逆さまに地面に衝突し、頭と首を折って死んでいだ。上履きのまま駆け寄ったときにはもうとっくにこときれていた。胴体は暖かかった。背中は血や透明な液で濡れていて日が落ちていくにつれ冷えていった。重くなった体を抱いて泣いた。暖かい日の光が彼女を照らすことのなくてよかったと思う。砕けた頭と生気の抜けた目はきっとひどくむごいものだったろうから。

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透明 金村亜久里/Charles Auson @charlie_tm

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