第一章 書けない原稿(5)
「いえ、こっちの話で……」
俺は敵意がないことを示すために笑って見せたが、正直、かなり引きつったものになっていただろう。そんなことを思いながら横目で美羽さんを見る。
「…………」
美羽さんは無言で震えていた。さっきまであんなに快活だった女性が、今は完全に別人のようだ。
「で、兄ちゃん、さっきの質問には答えてくんないのかい? それとも……」
ガラの悪い男は背を向けて小さくなっている美羽さんの首を掴む。
「この女に直接聞いた方がいいか? 俺から逃げたと思ったら、こんなクソ田舎でこんなガキみたいなヤツとイチャイチャしてるとはな! あんまりガッカリさせんなよ」
「ひっ!」
短い美羽さんの悲鳴。俺はそれを聞いて思わず、男の腕を払いのけてしまった。
「くっ!」
それで美羽さんは支えを失って地面にしゃがみ込んでしまう。首を掴まれただけで腰が抜けてしまっていたらしい。
「兄ちゃん、やる気かい?」
払われた手をさすりながら、男が俺の方を睨む。
「話し合いで……というわけにはいきませんよね?」
俺は一応、冷静になって欲しいと伝えてたつもりだったが逆効果だった。男は拳を握ると引き絞るように後ろに引いて、それを放ってきた。
「行くわけないだろが、ボケェエエ!」
同時に放たれた俺への怒りの言葉。
「志男くん!」
震えたままなのに美羽さんの俺を心配する声も聞こえた。
「……あん?」
結論から言えば、俺に男の拳は当たらなかった。
俺は作家っぽいという理由で文豪っぽい和服を着ているが、決して座学一筋の男ではない。作品のためになるかもしれないと思って武術の嗜みもある。そんな俺からすれば男のパンチは見え見え、これから打つと教えてくれるテレフォンパンチってヤツだった。
要するに俺はさっと避け、男のパンチは盛大に空を切ったというわけだ。
「俺はあんたの舎弟じゃないからな。鉄拳制裁をそのまま受ける義理はない」
避けられたこと。そして俺の挑発の言葉で、男はますます頭に血を上らせたのが見て取れた。おかげで体に力が入り、見え見えのパンチがますます遅くわかりやすいものになってるのにも気付かない。
「て、てめえ! 避けてんじゃねええ!」
そしてさらに怒り、ますますバレバレのパンチを打ってくる。
「避けなきゃ痛いじゃないですか」
俺は三発避けた後、手首を掴みそのまま引き込んで、その勢いをのせたまま地面に投げ落とした。
「かはっ!」
男は声というよりは肺から空気が出たというだけの音を上げて動かなくなった。
「光、君は武術も出来るのかい?」
それを見て感嘆の声を最初に上げたのは土地神のヤツだった。
「いわゆる合気道ってヤツだよ。作品の参考になるかと思って習ったけど、こんなところで役に立つとはな」
「君は本当、作家以外の才能が凄まじいな」
「はあ? 作家としての才能も凄まじいですが?」
俺は土地神の言葉にカチンと来て場違いな口ゲンカを始めてしまった。それは本当に迂闊で無意味なことだった。
「志男くん!」
いつのまにか立ち上がった男が刃物を美羽さんに突きつけていた。
「兄ちゃん、随分と舐めたことをしてくれたな、オイ」
こうなっては俺としても降参するしかない。ホールドアップってヤツだ。手を広げて両腕を上げるしかなかった。
「兄ちゃんも黙ってついてきな。こんなクソ田舎じゃ誰かに見られて通報されないとも限らないからな」
「……そうですね」
俺は土地神に期待を込めて視線を投げるが、コイツと来たら俺にしか見えないのだから誰かに知らせてくれることすら出来ない。
「こんな情況で言ってもなんの足しにもならないかもしれないけど」
なのに土地神のヤツはまだ俺の不安を煽るようなことを言う。
「この男も祟られてるみたいだ」
正直、俺も祟られてるんじゃねえのかと疑う気分になった。
***
男が俺たちを連れて行ったのは誰も住んでない廃屋というヤツだった。過疎化で解体されることもなくそのまま放置された家だ。
このガラの悪い男が美羽さんを探すための仮の拠点として利用していたのだろう。
「何もないし、お茶も出せねえけど、ゆっくりしてくれや」
笑えない冗談。そして言葉の通り、居間の電灯がついても家具らしい家具はなかった。それでも脱いだままの服が散乱しており、前にも男がここに来ていたことがわかる。
ただの廃屋かと思っていたが、電灯がついたということは正式に使う契約を電気会社としていたということか。
「私たちをどうするつもり?」
当初は震えていた美羽さんだったが、今は怒りを露わにしていた。俺を巻き込んでしまったことで責任を感じてるのかもしれない。
俺はと言えば、ただ機会を窺っていた。男は刃物を持ってはいたが使い手としてのレベルを考えたら、それが俺に向く分にはそんなに恐ろしくはない。美羽さんを救いに行く間に彼女が刺されるかもしれない。そこだけを心配していた。
要するに、数秒、注意をそらせればそれで十分だと思っていたのだ。
「私たちってのはどういう意味だ? 本当にこのガキがお前の新しい男なんか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「だよなあ。この兄ちゃん、童貞感丸出しだもんなあ」
反撃のチャンスをうかがっていた俺だが予想外のことで動揺してしまった。
「ど、童貞ちゃうわ!」
「それが童貞だっつんだよ!」
男はそのやりとりですっかり自分が優位に立ってると思い直したみたいだった。攻撃が全くあたらず伸されたことよりもそっちの方が重要とはさもしいヤツだ。
「じゃあ、兄ちゃんがコイツと一緒だったのはたまたまだったんかい」
「そうよ。ただのご近所さんよ」
美羽さんの言葉は俺をかばうためのものに違いなかった。でも男にはそれがわからないらしい。
「そうか、そうか」
妙に機嫌が良さそうだ。俺みたいなガキに寝取られたと勘違いして憤慨してたということなのだろうか。
「兄ちゃん、家に帰っていいぞ」
その誤解が解けた結果、男は意外なことを俺に告げた。
「は?」
「お前には用が無いから帰れって言ったんだよ! 何度も言わせんな!」
このまま俺が帰ったら美羽さんがどんな目にあわされるか想像するのは簡単だった。故に答えはノーということになるのだが。
「さっさと帰りなさいよ!」
なのに美羽さんも男と同じことを言い始める。
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