ノクティルカ

らきむぼん/間間闇

ノクティルカ


 それは夜の晦冥の唯一の輝きだった。

 海沿いの堤防の上で薫風が運ぶ潮の香りを聞きながら、真崎遥は青白く光る海を眺めていた。海と砂浜との境目が際立って光を放っている。寄せては返す波の動静に合わせて、光は姿を変える。消えそうなほどに仄かな光、強く躍動する光。強弱、陰影は波の律動に呼応していた。どうやら海ではなく波が輝いているようである。

 彼女はこの現象を知らなかった。正確にはこの現象が「赤潮」であることに気付かなかった。決して無知ではなく、寧ろ聡明な彼女だが、偶然にも今までの人生で、この青白く輝く海に出会うことはなかったのだ。

「不思議……」

 初夏の風が遥の独り言をどこか遠くへ連れて行ってしまった。その声を聴く者は周辺にはいない。

 真崎遥は歴史小説家である。そして同時に二十一歳の私大生だ。歴史小説と女子大学生という二つの言葉は、どうやら結び付き難いらしい。歴史小説家として有名な彼女は、一般大衆には初老の男性の印象で定着している。これは当初、意図的に行われたことではなかった。一大学生としてその個人的な生活を自衛する為に、彼女は情報を開示せず覆面作家同然の秘密めいた作家活動を始めた。これは数年前、彼女が玄人として認められた頃の話である。その後、名を上げた彼女の印象イメージは商業戦略的な情報操作も経て今のものへと変化してきた。若き女性小説家は数年にして実力派男性作家ということになったのだ。

 そんな異色の経歴を持つ遥であるが、普段は大学生の範疇に留まっているのだ。何しろ、彼女がここに来たのは大学の旅行部の活動によるものであるし、その場所も都心の私立大学から程近い神奈川県内である。旅行部と銘打って近場に目的もなく泊まりがけで遊びに出掛けてしまうところが、実に学生らしいようにも見える。もっとも、遥が深夜に独り海辺に訪れているのは「活動外」の行動であるのだが。

 彼女は不意に海が見たくなって深夜に宿を抜けだしたのだ。

 今宵は初夏にしては暖かい夜だった。風は穏やかで、微温い。しかしティーシャツと肌の間を抜ける爽やかな微風には不快感はない。心地よかった。彼女は砂浜に降りたい衝動に駆られた。もっと近くで、あの朧気に光る波を観てみたい。

 ジーンズの裾を捲し上げて、砂浜に降りた。卸したてのビーチサンダルで軟らかな砂を踏みしめる。思えば海も、砂浜でさえ、もう暫くの間訪れていなかった気がした。海に対する記憶が曖昧だった。かつて海に来た記憶が実体験なのか妄想なのか、どうも判然としない。もしかしたら初めて砂浜を踏みしめたかもしれない、そんなことを一瞬思った。

 砂浜を進む。砂が指と指の間に絡みつく感触が新鮮だった。海に近付くと、波の音がより細やかになる。耳を澄ますと、重なる波音たちの向こう側に小さく異音が混じった。足音だ。誰かが砂浜を歩いている。近付いている。

「先輩」

 男の声だった。遥は声の主の居る方へ顔を向け、暗闇に目を凝らした。とはいえ旅行部の後輩で、今回の旅に参加した後輩の男子は一人だった。誰であるか検討は付く。

「やっぱり君か」

 顔は暗くてよく見えないが誰であるか確信した。哲学部一年の古河尚だ。まだ入学したてだが、妙に落ち着きがある学生で遥とは親交が深かった。

 尚は遥の隣に立った。

「やっぱり、というのはどういう意味ですか?」

「私を先輩と呼ぶ学年の学生で今回参加しているのは君だけだし、こんな深夜に私がどこにいるのか当てられるのも君だけ。君はいつも突然じゃない」

「僕が先輩を探してここに辿り着いたとは考えないわけですか?」

「考えなかったわけではないけれど、どうせ判っててここに来たんでしょう」

「偶然ですよ、僕も海が見たかっただけです」

 尚は白々しくそんなことを言った。遥は一度も海が見たくなってここに来たとは言っていないのだ。それなのに尚は「僕も」などと言う。遥の予想通り、尚は遥の思考を見通していたのだろう。

「だったら尚くん、よく私だって判ったね。この暗さで」

「僕は夜目が利くんですよ」

 これもきっと出鱈目だろう。

「私が何をしてたか訊かないんだね。それとも、それももう知ってるのかな?」

「夜の海辺で人が立っていたら大抵は海を観ているでしょう。まさか入水自殺でもしようというわけではないでしょうからね。ここで死ぬのもなかなか意味深長かとは思いますが」

 そう言って尚は笑った。

「やめてよ、縁起が悪い」

 遥は苦笑する。彼は一体何を思ったのだろう。遥はこの男の考えていることがいつも解らなかった。

「時に先輩、何か次回の小説へのインスピレーションでも浮かびましたか? あまり見かけないでしょう、夜光虫の輝きは」

 古河尚は、真崎遥が小説家であることを知っている。これは彼と彼女の出会った経緯、そして親交を深めた理由に関係する。尚は大学入学後暫く経って、旅行部への入部申請をする為に真崎遥の所属する旅行部「ノクティルカ」の部室を訪れた。その日、遥を除く部員達は入部勧誘に出払っていたので、部室には遥のみが残っていた。そして尚は部室で遥から一通りの説明を聞き、最後にこう言った。「歴史小説家真崎遥と話してみたくて来たのです」と。

 歴史小説家真崎遥の小説を初めて読んだ時に作者が若い女性であると看破した、と尚は説明した。そして入学後、史学部史学科に歴史マニアの四年生が所属していて、その学生は女性であるが歴史小説家真崎遥と同姓同名なのだ、と風の便りで聞いたという。その瞬間に尚はその学生が同姓同名どころか同一人物であると思い至ったのだ。俄には信じられない超人的洞察力に、遥は驚愕した。幸い、秘密を明かしても誰かに言いふらす質ではなかった尚は秘密を共有したまま、今では遥と奇妙な友人関係にある。

 そんな尚の問いかけに聞きなれぬ単語が含まれていた為か、遥は質問に質問を返してしまった。

「ヤコウチュウ?」

「先輩、小説家なのに夜光虫を知らないのですか? 夜の光る虫と書いて夜光虫ですよ」

 なるほど「夜光虫」か、と遥は胸の内で半ば納得がいった。聞いたことはあるのだ、だがウミホタルだのヤコウチュウだのを識別できないどころか、それらが何なのか、知識は乏しかった。

「この青白い光は夜光虫なの?」

 彼女は浜と海の境目に帯状に広がる輝ける波を改めて眺め観た。

「昼間は赤潮という現象を引き起こす直径二ミリにも満たない暖海のプランクトンですが、夜になると青く光を放つんですよ。正確には刺激を受けると光を放出するのですが、夏の大量発生と宵の暗闇という条件が揃えば、このように波打ち際から浅瀬いっぱいに光の帯を創り出します」

「なるほど、それで波に合わせて光るんだね。波の刺激を感受しているんだ」

 普通ならば妙に詳しい尚の説明に驚くところであるが、彼はいつもこうなのだ。出会った当初は博識に驚いたものだが、今となっては遥は便利な百科事典とでも思っている節がある。

「先輩は自分の部活の名前に興味を持たない質ですか」

「どうして?」

「僕らの旅行部の名前は『ノクティルカ』でしょう。あれは夜光虫という意味です。僕の調べでは数年に一度この辺りに旅行に来るというのが『ノクティルカ』の伝統のようですよ。今となってはただの旅行ですが、大先輩達の世代では部名にちなんだ旅行だったのでしょう。この海では五月に夜光虫を見かけることは多いようですし」

「ほんと何でも知っているな、君は。気持ち悪い」

 三年以上も部に所属している遥でもそんな伝統の存在は知らなかった。彼女は入部したての尚に目的もないと思われていた旅行の真の意味を聞かされて、そのちぐはぐさに思わず笑った。

「そういえば尚くん、さっきここで自殺するのは意味深長である、というようなことを言っていた気がするけれど、あれってどういう意味?」

「自分で考えてくださいよ、これは哲学ですよ」

「私は哲学専門じゃないんだ、知ってるだろう。歴史は手っ取り早く結論だけ教えてくれるから私は考えることが苦手なんだ」

「まあ、僕は先輩のそういう功利主義的なところは好きですけれど、今回は哲学のやり方に従っていただきましょう」

 それは遥にとって少少意外だった。彼女から観て尚はいかにも功利主義を批判しそうなタイプである。また出鱈目だろうか。

「しかしね尚くん、哲学だって歴史と知識の蓄積だろう?」

 偶には反論してみるのも良いだろう、と遥は平然と嘘だか本当だか判らぬことを言う尚に仕返しを目論んだ。

「その歴史と知識が自身を批判しているんですよ。純粋理性批判の冒頭で、カントはこう言っている。哲学そのものを学ぶことは出来ないが哲学することは学べる、と。つまり歴史や知識はヒントなのです。それをいかに自発的哲学思考に役立てるかが哲学の本義ですよ。僕はそう考えます」

 遥はなんとも反論しがたい言説を返されてしまった。なるほど説得力はないでもない。

「君への反論は成功した試しがないなあ。まあ、だったらそのヒントとやらを戴かないことには私もどうにも考えられない」

「なるほど、それもそうですね。じゃあこうしましょう。夜光虫の気持ちにでもなって波の中に入ってみましょう」

 言い終わらぬうちに尚は波打ち際に足を踏み入れてしまった。脛の辺りまでの深さの場所まで進んでいく。彼の脚が波を押し返す度に夜光虫は青白く瞬く。

 彼女が尚に付いて行くのを躊躇っていると、彼は引き返してきて遥の右腕を掴んだ。

「えっ」

「ほら、先輩もどうぞ」

 尚に引きづられるようにして遥も海に踏み込んだ。まただ。また虚実入り交じる記憶の中の久しい海の感覚だ。波飛沫の感触もまた新鮮だった。海の躍動感を脚元から強く感じた。夜光虫の輝きは、視覚からも強い感動を発信している。

「さて先輩、僕は夜光虫の明滅もこの幾千年も続く波の明滅も、根底に同じものを持っていると思っています。遥先輩はこのせかいに、何を感じ取りますか?」

 尚はにこやかな表情でそう言った。非常に楽しげである。

「明滅が続く……か。それこそ夜光虫の気持ちにでもなってこうやって波の中に佇んでみると、ただの綺麗な光って訳でもないのかもね。なんというか、死を感じる」

 これは遥の出鱈目ではなかった。尚という男は体験せずして経験するのに長けているのかもしれない。確かに、体全体で感じ取れる「何か」が、この海にはあった。それを外から眺めるだけで、彼は感じ取っていたのだ。

「夜光虫の光は刺激がなければ発生しない、それに無数のプランクトンがいなければ強く輝くことはできない。波も同じです。犇めき、ぶつかり合わなければその躍動は知れない、それに水の粒子が無数に集まって初めてそれは波足り得る。そしてそれらの輝きや躍動は無限ではない。光は輝き、消え、また輝く。波は飛沫を上げ消滅しまた飛沫を上げる。ここでは生と死の連続が一体感を生んでいるんですよ」

 尚は同じ光景をマクロな視点とミクロな視点で同時に観ているのだ。遥が考えもしなかった幾つもの哲学が彼の脳内の宇宙で弾けている。遥は自分の中の価値観が変わっていくのを感じた。曖昧な海の記憶も違った色で塗り直されていく。心の隙間に何かが満ちていく。

「尚くん、人間も同じかもしれないね。無数の人間の集まりが『人間』なのであって一人ひとりの主張は強くない。生まれて、死んでいくだけだけれど、それが連続して――」

 ――歴史になるのだ。

「それが先輩の求める答ですよ」

 尚は言った。きっと尚には尚の答があるのだろう、遥はそう感じた。

「僕はこの夜光虫の輝きによく似た光景を観たことがあります」

「夜光虫の光に?」

「彗星です。夜空に突如現れ尾を引きながら青白く輝く。古代から不幸の前兆とも言われた。だけれど、僕には同時に幸福の前兆にも思える。何にしろ、彗星は人々に何かを与えて、次に現れる時まで長い旅に出る。先輩の居る旅行部に入ったのは先輩と話してみたかったからですが、もう一つ理由がありました。ノクティルカという名前、この名前を思い出す度に夜光虫の輝きと躍動する波が創りだす地上の彗星を想うことができます」

 古河尚の答。それが何であるか、遥にはその片鱗が見えてきていた。

「僕は人の哲学が辿り着く究極の幸福を知りたい。その答が与えられる気がして、僕はこの光を自ら創り出すノクティルカに至上の魅惑を感じるんです」

 尚は不思議な男だ。遥はこの不思議な後輩にこそ魅惑を感じる。

 光の帯の中に佇む古河尚は、まるで地上の彗星から出でた聖人のようだった。



 了

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