網剪鍋

安良巻祐介

 

 山間の婆の家に行って、晩夏を過ごした時の話である。

婆は日中、畑仕事や山仕事に出かけて留守にするから、だいたい家には一人きりになる。東の仏間が、日当たりも風通りもよいので、一日の殆どを寝ころんで過ごした。

 ある日、出かける前に、婆がそろそろよかろうなどと言って、蚊帳を吊ってくれた。取り立てて蚊が多いわけでもないのに、田舎の雰囲気作りか、大袈裟なことだと笑うと、まあ見ておれと婆も笑った。

 それではこう見えていずれ虫が多くなるものか。少し気構えしながら、婆のいなくなった部屋で、蚊帳に籠って本など読んでいた。

 川底のように緑がかった視界を見上げ、いい心地で茫洋として、そのまま舟を漕ぎ始めた矢先であった。

 しゅう、と音がしたかと思うと、緑の視界が割れて、はっとして見れば、奇妙なものが蚊帳の上に現れている。

 ひどく体の細長い、虫のような、海老のような――それでいて一抱えも大きさのあるものが、縁側の外からその体を伸ばして、両手の鋏で、蚊帳を、しゅうしゅうと切り裂いていた。

 何だこれはと呆れて見上げていると、おう出おった出おったと嬉し気な声がして、いつの間に帰ったやら、仕事包みを背負った婆が軒先に立っていた。

 婆はこちらが何か尋ねるより先に、稲妻のごとき早さで腰の括り紐を解いて投擲し、両の手で器用に化け物に結びつけると、ぐいと引いて縊り殺してしまった。

 鳥に似た細長い声を上げてふわりと縁側に落ちたのを、破顔した婆が拾い上げ、今夜はこれで鍋じゃと言う。

 細長く畳まれてしまったそれをほれと渡されて、その異様な軽さに驚きながら、こりゃあどういう獣だと問うと、獣じゃねえ、網剪(アミキリ)じゃと婆は答えた。何でも、江戸の頃の本にも出ている、由緒の正しい化け物だという。

 化け物を食うのかと呆れ果てたが、モモンガアだのモモンジイだのと言うのも山の肉の事じゃ、昔から食えるものは食える、狸汁狐汁むじな汁と似たようなもんだと返されて、なるほどそんなものかと納得した。

 その晩の膳に網剪の身は上がった。

 見た目の通り海老に似ているものの、殻が多く身は少ないようだったが、いい出汁が取れるという婆の言葉通り、淡白だが滋味のある一品であった。

 これは昔から蚊帳を切りに現れるだけのものなので、近頃は専らこいつを寄せるために蚊帳を吊るのだという話であった。

 そうでもなけりゃあんな面倒なモノを使うかよと、電気蚊取のスイッチをパチリと入れて、婆は笑った。

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網剪鍋 安良巻祐介 @aramaki88

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