明けがたの山

 ハツは、ちいさな池のほとりへと走り出ました。露でいっぱいに濡れた足が不思議にひかります。

 そこには草つみのときに見たものよりも、明るくまばゆい山吹やまぶきいろの気が満ちていました。ちょうど東のかなたから、みずみずしい太陽がのぼり、花がいっそうつときだったのです。

 ふところから顔をのぞかせたかえるが、めいっぱいに鳴きました。

 「女精めがみさま、めがみさま! どうぞお手をべてください。この子を家に帰してやってください」

 ゆうら、ゆうら。ハツの前に零れきた花のひかりが、ひとところに集まりだして、ゆうら、ゆうら。背の高い、貴いかたのすがたを浮かびあがらせました。

 遠く、うしろのほうから爺婆の声が聞こえてきます。山鳩の問いに追いまわされたふたりが無理やりにりきってやってきたのです。

 けれどもハツは女精を見あげたまま動けなくなっていました。ひかりにふちどられておぼろに浮かぶまなざしが、しずかに語りかけてくるためでした。


  むすめよ

  ゆるしておくれ ひとのむすめ

  われら木精こだまのもの あれらもへだてなく


  よからぬ気に さわられて

  くされた水のぬし そのふたり……


 草をわけて爺婆も池のほとりまで出てきました。しかし、どうしたことでしょう。かがやく山吹のいろを目に入れたとたん、みるみるうちに足腰あしこしの力をくしてすわりこみ、ぎょうそうもふやふやくずれていくのです。

 女精の声なき声は枝葉をかしてくる朝日のように、どこにでもしみていきました。


  ぬしどもよ

  きょうまで きよめの山の気に

  ふうじてきたは さいごの情け


  木精のまことに かえらぬならば

  無垢むくのみもとへ いまいちど……


 あれだけじょうそうだった爺婆の体は、いま、くしゃくしゃして半分ほどになってしまいました。あとにあらわれた山鳩のつがいは女精をみとめると、うやうやしく地面へと降りました。

 吹いた風がまわりの草木をらして、なにごとかささやきあっているふうです。

 女精のうでが音もなくあがります。ゆうら、ゆうら。山吹のひかりが流れて、ふやけた木片もくへんみたいになったお爺とお婆を包み、また溶けさったときには、かれらをちいさなちいさな二匹のオタマジャクシへと変えていました。

 泥いろのからだになったふたりは、目をしろしろさせて、けんめいに尾でねて、池へと落ちていきました。


 ハツはそのぜんぶを、ちゅうからぽーっとなって見ていました。女精のふった腕はハツにもしめされ、山吹のひかりがほほをなでました。


  おかえり

  ひとの娘 山のむすめよ

  うたをうたい 草をつみ


  背かごにいれよ われらの知恵を

  ただゆるしておくれ こたびのことは……


 懐から見あげた蛙が、しっかりやるんだよ、と口を動かしました。ハツがあわてて、ありがとう、と答えると、蛙はこまかな口をちょっと曲げて笑ったようでした。それから、すぐにオタマジャクシを追いかけて池のなかへと飛びおりていきました。

 山鳩はハツと蛙とどちらを見るべきか迷いにまよい、二羽で首をふりふりしています。

 女精に抱きよせられると、ハツの頭も体も、あたたかなひかりでいっぱいになりました。自然とくちから、帰ろう、と言葉がこぼれました。最後に、春のあわい朝日のなかで、蛙の声を聞いた気がしました。

 「さあさあ、こどもたち。わたしが一から教えてあげますよ。まずはサギから身をかくす泳ぎかた……」


 くらく閉じていたハツの目が開いたとき、そこにはばっちゃんの背かごがありました。山は明けたばかりの日のにおいでいっぱいです。

 のぞき込むと、昨日つんだ覚えのあるたくさんの草は、どれも、ちっともくたびれていません。それに山吹の花が一輪いちりん、まばゆさを残してのっているのでした。

 ハツは座りこんだまま、しばらくそれをながめていましたが、やがて背かごに腕を通して立ちあがりました。山のしたのほうから、自分を呼ぶ妹たちの声がたしかに聞こえてきました。


(おしまい)

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草木の物語 きし あきら @hypast

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