第十二話:キッチン・イン・ザ・B&G

 僕が赤城天音という少女を家に入れた理由は、ひとつは僕が彼女に「あ」を取られていること。そしてもうひとつは、言霊使いという存在に興味があったからだ。

 でも本当は、それだけじゃない。

 彼女の――まっすぐな、「覚悟」を持った瞳に、僕は惹かれた。

 ほんの少しの間、「いしき」をぼかした。と喫茶店で彼女は言った。

 彼女の言う通り、あのときは記憶というか――意識が曖昧だったし、あれが言霊使いがなせるワザだというのなら、僕はもう既に、彼女が言霊使いである証拠――言霊使いが成せる能力の片鱗を垣間見ている。

 あんな言葉に出せないような、言葉に出してとしてもあやふやで、ちぐはぐにしか説明できない現象に見舞われたのは、生まれて初めてだ。

 だから、今僕は彼女を信じるしかない。信じることしかできない。

 だから家に上げた。だから、中学生との共同生活を受け入れた――――

 でも……。

 まさか、布団を引っぺがされた後に引っ叩かれるとは、思いもしなかった。 


「ごめんなさいッ!!」

 ものの見事な平手打ちを天音ちゃんからお見舞いされてしまった僕は、打たれたところを氷とタオルで頬を冷やしていた。

 ぺこぺこと謝る天音ちゃんを、「大丈夫だって、痛くないから」となだめて、なんとも間抜けな格好でちゃぶ台を二人で囲んでいる。

「いいのいいの……布団かぶると暑くなるからね。仕方ないね」

 良くない。正直言うと全然良くない。でもこれはこっちの落ち度があったからこそだから、いい。


「宮川さんが、その……変態だとは思いませんでした!」

「へへへ、変態とちゃうわ!」


 と僕は全力で否定するものの、もはや、言い逃れはできない……。


「僕が悪うございました。ねーちゃんさん」

「さん、はいらないです!」

「はいはい、ねーちゃん」

「はい、は一回です!」

「ひゃい」

 僕は腕を組んで、ふう、と短く溜め息を吐く。

 目の前の女の子のことを、ねーちゃん。とは言ったものの、僕にはねーちゃんはいない。僕は姉も弟も兄も妹もいない、一人っ子だ。

 ねーちゃんの本名は赤城天音。僕が彼女のことをねーちゃんと呼んでいるのは、どうにもならない理由がある。

 僕が「あ」を喋れないからだ。

「ねーやん。じゃ……駄目なの?」

『なんですか、そのお笑い芸人みたいな名前はー』

 ごもっとも……。

『それじゃ、ご飯の支度してきちゃいますねっ。ささっ、宮川さんはもっと寝てていいですよー?』

 きゅっとエプロンの紐を締めて、元気で明るい口調で天音ちゃんは呟き、台所へと向かう。リビングでボケーっとしているのもアレなので、いそいそと自分の部屋の戻ろうとする。

「もっと寝ていいって、言われてもさ……」

 天音ちゃんのビンタのお陰で、すっかり眠気は取れてしまった。女子中学生の優しくて甘い声色が、鼓膜を揺さぶっていたことを思い出す。

「ん……? ご飯の……支度?」

 ぐわんぐわんと揺れている鼓膜と頭の間に、ふわりと駆け抜ける風と、小さな甘い声。実際には風は僕の部屋には一切吹いてはいないのだけれど、耳元を優しく撫でる風は、確かに僕を優しく包み込んだ。

「ご飯の……支度!?」

 僕の言葉に「そうです」と優しく呟く天音ちゃん。ささっ、変態さんはしまっちゃいましょうねー。と僕の背中をゆっくりと押しながら――

「もうちょっとだけ、待っててくださいね?」

 耳元で囁いた。少しだけ息が掛かる。

 その小さな風は、誰でもない――天音ちゃんが巻き起こしたものだった。


 見習い言霊使いである赤城天音こと「ねーちゃん」は、言うなれば仕込まれた女の子だった。

 いや、今のは言い方に問題アリだったかもしれない。仕込まれたってなんだよ。

 ――訂正しよう。

 見習い言霊使いである赤城天音こと「ねーちゃん」は、言うなればよくできた女の子だった。

「えっ……えっ」

 身なりを軽く済ませてから、居間へと上がるように言われた僕は、少し部屋でネットサーフィンをして、机の上にあった読みかけの漫画雑誌をペラペラとめくって時間を潰していた。居間にはすぐ行かない癖は両親といた頃からすっかりできあがってしまったもので、ゴロゴロするのが飽きたらリビングへと向かうようにしていた。それは、念願の一人暮らしになったときも、今でも変わらない。

「なん……だと……!?」

 朝起きてリビングのドアを開けたら――――

 朝ご飯が、ちゃぶ台の上に所狭しと置かれていたのであるッ……。

 もう一度言おう。

 朝ご飯が、ちゃぶ台の上に所狭しと置かれていたのであるッ!!

「もう……遅いですよー?」

 声を掛けられる。思わず、「うん……ごめん」という言葉がポツリと出てしまった。呆気に取られて出た言葉なので、自分でもビックリするほど低い声を出してしまっていた。

 驚愕の二文字が書かれた白い紙を「ベチンッ!」と思いっ切り顔面に貼り付けられるのは、これで二度目だ。

「ご飯はこれくらいで……いいですか?」

「うん……りが、どうも」

 咄嗟に出た「ありがとう」の言葉も、ぎこちない――というよりかは、出ない。

「はいどうぞー」

「……」

 会話が途切れてしまい、居心地の良くない沈黙が室内にゴロンと落ちる。持参して来たであろうエプロンの紐をスッと解き、丁寧にたたんで ちょこんと座る。正座――正座だ。

 オーバーサイズのスウェット一枚をまとった、ポニーテールの女の子が、目の前で正座をしている。

 気まずい、途轍もなく気まずい。これがお邪魔している他人の家での出来事ならまだしも、今僕と目の前の女の子が囲んでいるちゃぶ台は、僕の家のちゃぶ台だ。

 沈黙が、僕と天音ちゃんの間に流れ――ようとした瞬間、

「ぐぎゅるるるるるるるる……」

 僕の腹からものすっごい間抜けな音が鳴り響いた。

「…………」

 昨日は夕飯も食べずにそのまま寝てしまったから、朝食を見た瞬間に腹の虫の音が止まなくなってしまっていた。台所を覗いてはいけないと分かってても、腹の欲求は抑えることができない。

「……あはは、凄い。すごい、音ですね」

 ずっと「ぐぎゅるるるるうるん」と腹から間抜けな音色を奏でていて、ご飯を「はよ、寄越せや」と言わんばかりに自己主張をかまして来る。

 これには、流石の天音ちゃんも苦笑いだった。

「はいはい……」と腹を二度軽く叩いてから、目の前の料理と対峙をする。

 目の前の料理は――肉じゃがだった。

 少し味見をしていいかい? と訊くとすんなり「いいですよー」と透き通った声色が僕の耳元を通過したので、箸を持ってすっと肉じゃがを掬い取る。

 そして、口に入れた。

「えっ……えっ」

 口に入れたと同時に、僕は困惑してしまっていた。味にじゃない。味付けにじゃない。あまりにも柔らか過ぎるじゃがいもの食感に「ホァ……」とか間抜けな音は漏らさない。いや、「ホァ……」ってなんだよ。ホァって。

 天音ちゃんがつくってくれた肉じゃがを頬張った僕は、まさにこのとき――ただただ唖然としていた。そしてそれと同時に、電流も走っていた。

「どういうワケなんだよ」

 とは肉じゃがを一口頬張った時の僕の一言で、「どういうワケなんだよ」ともう一度漏らしていた。彼女の肉じゃがに、完全に語彙力を失った僕は、がくっしと項垂れて、陥落してしまっていた。

 どうやら、本日をもって宮川家に伝わる肉じゃがの味は、末代である僕で途絶えてしまったようだ。

「というワケなんだよ……お前がこっちに来るまでにそんなことがあったんだ」

「ホァ……」

 いや、だから「ホァ……」ってなんだよ。ホァって。

「ホァ」

 ほわほわとした煮物の良い香りを鼻で吸って嗅いでから、もう一度吉祥は「ホァ……」と間抜けな音を漏らした。それってなんなの? 言語なの?

 肉じゃがの香りにすっかりとやられている吉祥は、はたと我に返り首をブンブンと横に振って、ぺちんと頬を叩く。

「宮川選手? いいかね……俺は近況を伺いに来たんだ。お前がトンデモナイことが起きたって言うから、こちとら朝食も食わないですっ飛んで来たって言うのに……なんだ。このありあまさは!!」

「落ち着け、吉祥……肉じゃがは逃げたりしないぞ」

「お前が食ったら、逃げているのと同義だ!」

「意味分かんねぇぞ。カツラ野郎!!」

 大盛りによそられたご飯を見やってから、吉祥の方へ視線を移す。

「吉祥……お前朝食は食べない主義なんじゃなかったか」

「朝ご飯が肉じゃがなら、食べるさ……食べるんだけどな――」

「うん」

「どうして、三人でちゃぶ台を囲んで、宮川はのろけをかましてるんだ? 俺はお前さんのののろけを聞きに来たワケじゃない……」

「誰がのろけじゃい」

 よかったらどうぞ……。と天音ちゃんは吉祥に肉じゃがを持った皿を手渡す。ありがとう、と言って受け取った吉祥は、一口分を箸で摘まんでから、「ホントだ。宮川のつくった肉じゃがよりも……美味い」とこぼした。

 吉祥も吉祥で定食屋さんで「肉じゃが」のメニューがあれば四の五の言わず肉じゃがを頼んでしまうほどは肉じゃがスキーな人間だ。

 その吉祥が舌を巻くほど絶賛するということは……。

 おほぉ、なんかもう駄目だ。変な声しか出ない。

「どした? おほほほぉ……とか気持ちの悪い声出して」

「おほほ、もう僕は肉じゃがは作らないって決めたんだ。おほ、おほほ……」

「ホァ……ホァホァ、ホァホァホァ。ホァ」

 なんてやり取りをずっと交わしていると、せっかく天音ちゃんが作ってくれた朝ご飯があっという間に冷めてしまう。

「いただきます」

 それにしても、吉祥の食べっぷりを見ていると、どうしてか食欲が腹の底から湧き上がってしまう。天音ちゃんも「食べたい……」と言わんばかりの じっと見つめてると、つぅと、ほんの少しだけよだれが流れ出た――気がした。

 うん、気がした。

 そういうことにしておこう……。

「それじゃ……いただきます」

 吉祥はいつの間にか現れたワケじゃない。僕が呼んだ。

 それには、ちゃんとした理由がある。

 僕が肉じゃがの味見をした瞬間に、「これはヤバい」と内なる小学三年生の僕が告げた。僕が初めて肉じゃがと出逢ったのは、小学三年生になった始業式の夜。

 おふくろがつくってくれた肉じゃがに、僕はとても感動した。なんで感動したのかは、もちろんのこと美味しかったからなのだけれど――――

 控えめに言って、運命を感じた。

 この世にこんなおいしい食べ物があってもいいのだろうか……。

 それからというものの、僕は肉じゃがに病みつきになってしまい、ことあるごとに肉じゃがを食べるようになり、終いには肉じゃがを自分で作るようになってしまった。ここからはどうして僕が肉じゃがをつくるようになったのかをしっかりとかいつまんで説明したいのだけれど――――割愛する。ご飯が冷める。

「いやぁ……やっぱし肉じゃがってウンマイなぁ……なぁ、宮川」

「ウマイウマイ……まるで味の旨味パラダイスやー」

 会話の歯車を無理矢理回そうと、「」

 吉祥のことを僕が呼んだのには、ちゃんとした理由がある――

 それは、会話を途切れさせないため。天音ちゃんとの会話を円滑に進めるために、話し上手で聞き上手なパーフェクトカツラマンである彼に参上していただいたのだ。つまりどういうわけかというと……。

 彼こそ頼みの綱だった。

 彼女とどうやって会話を繋いでいけばいいかも分からない。そもそもクラスメイトの女子――特に三鷹さんと会話しているときだって、言葉と一緒に舞い上がる気持ちをどうにか抑えて言葉を伝えているっていうのに、こんな至近距離で、こんなに近い間隔でちゃぶ台を一緒に囲んで……。

 恥ずかしいに決まっているじゃないかぁあああああああああああッ!!

「ヤレヤレ系主人公には、もう飽きたんだ。後鈍感系主人公にもな……お前がどっちにも該当しなくってホッとした」

「僕は……そんな人の好意に気が付かない馬鹿たれじゃないっての」

「はいはい」

 鮭の切り身をほぐして口へと運んだ吉祥は、またも頬を綻ばせて「うまい」と小さく呟く。おい、黙るな。黙らないでください。だままままま。

「で……順調か?」

「で、まだ一日も経ってないんだけど……順調とかお前は馬鹿なの!?」

「気になるじゃん。友人として唯一、言霊使いの秘密を共有してるんだから」

「それ、他の誰にも、バラしてないだろうな?」

「……美樹には情報共有として、言霊使いの手掛かりをネットで掴んだって言った。都市伝説としての言霊使いの――」

 へらへらと笑いながら、今度はじゃがいもを箸でつまんで、そのまま口へと放り込む。「おいしー!」と頬を緩める。

「口軽すぎじゃないどすえか……吉祥どん」

「おやおや……そうでごわすか。それはかたじけないでごわす」

「かたじけてねぇだろそれ」

 赤城天音という女の子を家に上げていること自体には、幾らでも言い訳はできる。彼女ができました。とか、親戚の子が四月から都内の学校に通うことになったから、その間までちょっと家に泊めている等と、嘘をウソで上から塗りたくってしまうことだってできる。

 頭が冴えてて、尚且つ切れ者で、常に言葉の本質を考えているような輩じゃなければ、そう簡単には言葉そのものをウソだって見破るのは、難しいことのハズだ。

「まぁ、流石に簡単にはバレんだろ……」と吉祥は味噌汁を啜ってから、またけらけらと笑った。


 今日の朝ご飯の時間は、やけに長く感じた。

 僕と天音ちゃんはすぐに食べ終えて、片付けも済んでいるのだけれど、吉祥の食べっぷりが今まで類を見ない凄さで、もうご飯大盛りの六杯目に突入していた。

「家の白米全部食い尽くしたら……米十キロ買ってもらうからな」

「合点承知の助!」

「そうじゃねぇだろ!」

 ふぅ……と溜め息を吐いて、僕は台所に向き直る。今は洗い物は終わって、お昼ご飯の準備のために、

「お昼の準備って……早くない?」

「惣菜をつくるんですよー。宮川さん。冷蔵庫の中の食材……ちゃんと使ってますか? 大丈夫ですか?」

「ちょ……そんな僕不摂生に見える?」

「見てくれは……ですけれど」

 一人で広々と使っていた台所は、流石に二人でいっぺんに入れるようなスペースは無い。互いに

 僕がちゃぶ台の上にキッチンペーパーを数枚敷いて、その上から金属ボウルやタッパーの群れや炊飯器を、よいしょと置いていく。

 天音ちゃんの料理の手際の良さは、控えめに言って恐ろしかった。

 彼女には全くもって無駄が無いこと無駄が無いこと。そのために、普段料理ができるまでの待ち時間を使って新作映画や『映画フリックス』『アルマゲドンプライム』に追加されたドラマや映画・アニメの情報を追うことができないでいた。

 こんなに忙しなく台所を動くのは、生まれて初めてかもしれない。

 真剣な表情をずっと浮かべていた天音ちゃんの顔が唐突にぱぁっと明るくなる。それと同時に「できましたぁ!」と両手を叩いてから、「どへぇ」とその場にへなへなと崩れ落ちてしまった。

「しかし……驚いたな。一人で六品の料理をこんなにもあっさりつくっちゃうなんてなぁ……」と吉祥も「おぉ……」と感嘆の声色を上げて、「おみごと!」と拍手を叩いていた。

 いや、本当の本当に、驚きだ……。まさか炊飯器で牛すじ煮込みをつくってしまうとは思わなんだ。ビックリ。

「いや、いやいや……本当に凄いよ。ねーちゃんは」

 すっかり語彙力を失くしてしまった僕は、天音ちゃんに激を送ってから台所に戻って洗い物をすることにした。流石に肉じゃがからの連戦は身体にこたえたらしく、「お水……いただきますね」と息を吐いて、小さく呟く。

「ちょっと待っててね」と洗剤の泡を水で落とし、紙コップを取り出して、捻ったままの蛇口にコップを向ける。

 水道水でごめんね――――と言って、彼女の方に翻ると。

「ちょっと味見してくれませんか?」

 なんてことを言って、菜箸を持って僕の目の前で待機していた。

 えっ、ちょ……天音ちゃん。

「なにしてんの?」

「味見待機です。牛すじ煮込みの」

 それは、見れば分かる。箸に掴まれた牛すじ煮込み将軍が、「はよはよ」と小刻みに左右に揺れながら、食べられるのを待ち遠しにしている。

「ちょ、自分で食べれるって」

「そのまま洗うじゃないですか、ほら……もう箸で掴んでるんですから、食べちゃってくださいってば」

「分かった……分かったから」

 と言って僕は天音ちゃんが向けた箸に、ひょいと食らいついた。

「美味い!」

 しっかりと混ぜ合わせた調味料の味が効いている。一口噛むたびに牛すじからタレと肉汁がぶわっと溢れて来る――

 これは、これは……。控えめに言って、最高だ。

「うおぉん」と僕は間抜けな声を出していた。

 それを傍目で見やっている吉祥は、なんでだろう。どうしてか、ものっそい悪い顔をしているように見えるんですが。吉祥、何を考えているんだ。

 嫌な予感がする。吉祥が何かよからぬことを言葉にしようとしている気がする。そんなことにどうどうと思考を巡らせていると――――

「なんか……そうやって二人で台所に並んでいるのを見ると、カレシとカノジョってよりかは……旦那さんとお嫁さんって感じだな」

「えっ!?」

「旦那さんとお嫁さん!?」

 僕にとっては予想通りの、天音ちゃんにとっては予想外の言葉が僕ら二人の耳元に飛び込んだ。

 だから、どうして話が突拍子も無く飛躍するんだよ。数秒前までカノジョとかなんとか言っていたじゃないか!

「気が変わった。仲睦まじい様子でございますねぇ……仲睦まじい夫婦っぽい感じ出てるよ。知らんけど」

 なんて意味不明なことを、腕を組んで言って見せた。

「それ……どういうことだよ」

「天音ちゃんには、途轍もない嫁力が隠されている」

「よめりょく?」

「よめちからだ」

「『よめりょく』じゃなくって『よめちから』……? なんでそっちだけ言いにくい言い方すんだよ」

「だまらっしゃいッ! 夫婦ロードは、誰しもきっと開かれるんだよ」

 夫婦ロード。その言葉を聞いた瞬間、何故だか僕は失笑してしまった。

 オイオイオイ……何言ってんだ。こいつ。肉じゃがの食べ過ぎで頭がアッパラパッパーになってしまわれたか。

「その話……良く分からないけれど、聞かせて貰おうじゃないか」

 こうして僕は、吉祥が語る「夫婦の計算式」を耳で追うことになった。

 吉祥曰く、僕の旦那力が100万パワーだとして、天音ちゃんの嫁力が100万パワー。それを足すと100万パワー+100万パワーで200万パワーになるらしい。そんでもって、思いやりのチカラが200万パワー。それが二人で400万パワー! 更に旦那力と嫁力を加えて、600万パワー!!

 とそこで吉祥がやり切ったと言わんばかりの表情でガッツポーズをつくる。

 僕の隣では、天音ちゃんが「んん?」と喉を少しだけ唸らせて、首を傾げている。いや、天音ちゃん。

 どうやら、思いやり+優しさ=愛情になるらしい。

「どういうことなの?」

「まぁまぁまぁ……」と僕の言葉を遮って、話を続ける。

 吉祥はこの「思いやり+優しさ=愛情」のことを「ゆで理論」と言ったけれど、

 つまりは、思いやりと優しさと愛情は、時として天も次元も突破するんだよ。ということを吉祥は説明したかったらしい。

 いや、口下手にもほどがあるだろ……。もっと分かりやすく説明した方がいいんじゃないか。と僕が呆れていると、天音ちゃんは、何かを閃いたような、急に明るい顔付きになって、正座の体勢を崩し、女の子座りのまま吉祥の方へと歩み寄る。その仕草がとても中学生とは思えなくって、なんというか、エロい。

「つまり……愛と勇気は、言葉ってことですか!?」

「そういうこと!!」と近寄られた当の本人は、頬を真っ赤にしながらパチンと指を鳴らした。

 いや、そうはんらんやろ……。

「ほら、彼女ができましたってのろけてやれば、皆から祝福の嵐だぞ。喜べよ」

「飯冷めるぞ。二人とも……」

『彼女……ですか?』

 吉祥の言葉に、天音ちゃんは声のトーンを変える。落ち着いた声色から、少しだけ明るい声色に変化して、じっと僕のことを見つめている。いや、見据えている。深紅の瞳を、その中に宿る焔を、ふつふつと湧き上がらせている。

 そして、今度は吉祥の方に視線を合わせて、『彼女……ですか?』と僕に向かって言ったのと同じトーンで、優しく呟いた。

 そのせいで、僕は理解に遅れ、反応が遅くなる。

 ちょっと待て。

 ちょっと待てよ……。彼女ができた!?

 言い訳の中でも、それはちょっと無理のある言い訳なんじゃないか……?

『宮川さんに彼女ができたということは……私には彼氏ができたってことなんですかね……?』と天音ちゃんは悪戯っぽく呟く。

 頭がくらっとした。ふぅ……と溜め息を吐いて、「あのね」と呆れ口調になって天音ちゃんを咎めようとする。そういうのは、こういう朝の場でするもんじゃないんだぞ、と小説の中で通学路で遭遇する箒を持った爺さんが言いそうなセリフを、口元まで持って来た――――その時、

『もし……私がお嫁さんになったら、宮川さんは……どうしますか?』 

 天音ちゃんは僕の耳元で、僕だけに聞こえる小さな声で囁いた。

「…………」

 頭が、さっきりよりもくらっとした。

 ちょっと待て。天音ちゃん、ねーちゃん。どうして、そうなる……。

 どうして、そうなるんだ。

 誰か説明してくれよぉ……。

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