第四話:失われた「あ」を求めて
カウンターの奥で、モップをいそいそと掛けている音が聞こえる。
有線のラジオから聴こえて来るのは――「山本リンダ」の「どうにもとまらない」だ。
『あ』を返す方法を一緒に……一緒に探して欲しい。
心の整理が一向に付かない最中に、僕は制服の女の子に告白をされた。
しかも、雰囲気ある喫茶店の中での、全く嬉しくない告白。
名前も知らない女の子からの、告白だ。
言葉を何度も何度も噛んで、咀嚼して、飲み込んで、ようやく目の前に座っている女の子が僕の言葉を奪った「言霊使い」だという事実を受け入れることができたというのに、この少女が口を開き、言葉を紡いだ時、僕は、何度目か分からない眩暈を感じていた。
「ふぅ……」と天井を見上げ、短く溜め息を吐く。
瞳はとても美しく深く、僕のすべてを飲み込みそうだった。
それにしてもこの子、ビックリするくらいに表情が豊かだな……。
「『あ』を返す方法を一緒に探すって……その、どういうこと?」
「言葉通りの意味です……」
「…………」
彼女の言葉に僕は瞼を閉じ、腕を組んで考え込む。制服少女――言霊使いの言葉を、今回ばかりはすとん、と心の中にすんなりと落とすことができた。
それでも、彼女が言う「言葉通りの意味」に僕はむぅ、と唸り、首を傾げてしまう。曖昧な表情を彼女の目の前で浮かべて、「うーん」と喉を鳴らす。
「ごめん。それじゃ、質問を変えるよ。君は、どうして僕と一緒に、『あ』を返す方法を探して欲しいんだ?」
「それは……あなたの言葉を奪ったのは、私だから……」
「人から言葉を奪ったのはいいけれど、その『あ』を誰かに盗られたりしたの?」
「そそそ、そんなことないです!」とばん、と机から乗り出して反論する。
「あなたの『あ』は、私の中にあります!」と僕の目の前で言葉を落とした。
堂々巡りになってしまうだろう。僕はコホン、とせきばら咳払いをして、次に彼女にぶつける言葉を用意する。
「そんじゃ……どうして、言葉は君の手の中にあるのに、君は言葉を返すことができないのかな……」
そ、それは……。としどろもどろになって、「あわ、あわわ」なんて言葉にならない言葉を僕の目の前で振り撒いた後に、しゅん、と、なんともいえない表情を浮かべた後に、恐る恐る小さく言葉を口にする。
「言葉の返し方が――分からないんです」
「分からない、って――――」
なんだそれ、どういうことだよ。
僕は、唖然としながら、少女が呟いた言葉を頭の上で反復させていた。分からないんです――分からない。言葉を奪っておきながら、その言葉の返し方が分からないって、どういうことだ……。
どういうことだよ。
「それは、僕の言葉を、人様の言葉を奪っておいて、返せないってこと?」
「そ、そんなことは……ないです。返せる方法が見つかったら、すぐにでも言葉を返します!!」
「信用――――できないな」
僕がそう言うと、困ったような表情でたじたじと、小声で「あわわわ」と狼狽える。「残念だけれど」と付け加えると、
言葉に乗せる熱が――段々と上がっている。僕が言葉を紡ぐ度に、語気は強くなっていき、段々と息が荒くなっていく。
「言霊使いさん……ひとつだけいいかな」
「は、はい……ななな、な……なんですか?」
「君さ――――どうして、言霊使いな――――」
彼女に次の言葉を思いっ切り投げようとした瞬間――――
カツン。
「お待たせしました」
音がした方を振り向くと、そこには威厳ある眼鏡を掛けた壮年――この喫茶店のマスターがにっこりとこちらに笑って、僕の目をじっと見つめていた。
「…………」
「こちら、当店特性のウインナーコーヒーになります」
「…………ありがとう、ございます」
僕は慌てて目をそらしてしまう。何故か、どうしてか、視線に身震いしてしまった。全身の肌が逆立ってしまうような、マスターの、特徴的な紺碧色の眼差しは、胸の内側を覗かれてしまうような、そんな気分になった。
だから、僕は彼女に向かって思いっ切り投げようとした言葉を、そっと心の中にしまった。言葉を投げる代わりに、目の前に置かれたコーヒーとカップソーサーと、小さめのフォークに視線を移す。
「……あれ」
おかしいな。
僕は、ウインナーコーヒーを頼んだはずだ。
それなのに、目の前のコーヒーにはホイップクリームではなく、ソーセージがちゃぽんとカフェインの液体の中に浸かっている。
「……おかしいな」
あれ、ウインナーコーヒーって、確かウィーン風のコーヒーのことで。
コーヒーにホイップクリームを乗せたコーヒーのハズだ。
それなのに、小太りのぶたのちょうつめ豚の腸詰めが、「極楽極楽」と言わんばかりに、プカプカと、釣竿に付ける玉ウキのようにやや緩急を付けて浮いている。
「当店のウインナーは、シャウ〇ッセンのソーセージを使用しておりまして、注文の際に、『焼』や『炙』や『燻』と付け加えていただければ、それぞれのソーセージが入ったコーヒーをお持ち致します」
「…………」
「では、ごゆっくり」
ごゆっくりじゃないわ。
ソーセージの入ったコーヒーをひとくち口に含んでから――目の前の制服少女の、少し前に紡いだ言葉を思い出す。
「私は見習い言霊使いですが、師匠からは一応は言霊使いって名乗っていいって言われています」
見習い言霊使い――か。
ズボンのポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。時刻は昼の一時を回ろうとしている頃合だ。僕はコーヒーの中のソーセージを指でひょいとすくいあげて、そのまま口に放り込んだ。
「ど、どうですか……その、コーヒーの中に入ったソーセージって、美味しい……ですか?」
「うん。ボイルされているから、美味しいかな。でも……ちょっとだけ苦いかも」
そういえば、目の前の制服女子の名前を聞いていなかった。
「僕の名前は、宮川健人。高校生」
このまま気まずい雰囲気が続くのは、正直言って荷が重い。まだ知り合って一時間ほどしか経っていないのに、こんな重っ苦しい空気の中にいたら、僕が第三者でこの喫茶店にいたら、窒息してバタンとぶっ倒れてしまう。それでも倒れないのは、その空気をつくっているのは僕と目の前の言霊使いで、言葉を奪われたのが僕自身だからだ。
だから、せめて、お互い自己紹介だけでも――――という流れをつくった。空気がやんわりとすれば、
「私は、赤城天音って言います……中学はもう卒業して、今年の春から高校生になります。それと……言霊使いです」
「卒業? 今って三月の頭だよね……」
「三月の一日に、卒業式があったんです。それで、今は師匠と一緒に言葉を操る修行をやってて、それで、言葉を借りて来なさいって……言われてたんです」
「なるほど……そうか」
「どうか、したんですか?」
僕が喉を鳴らして頷くと、彼女は少し驚いたように、僕に訪ねて来た。
「言霊使いって、世の中に君と師匠だけ――ってワケじゃないんだよね?」
「はい……そうです」
「だったら、他の言霊使いと協力して、僕の言葉を返せる方法を……探せばいいんじゃないのかな。師匠とかもいるなら、僕じゃなくって適任がいると思うけど」
「駄目なんです……」
赤城天音さんは、僕の言葉を真っ直ぐと否定してから、ちゅー、と残り少なくなったコーラフロートを一気に飲み干した。
「えっ」とその言葉に、僕は若干眉をしかめてしまう。
「それじゃあ、駄目なんです!」
そのとき、射貫くような、まっすぐな目線と言葉が――僕の胸元に刺さった。
「大きく広がったこの世界の中に、溢れるほど人がいても……一緒に探してくれる人に、あなたの代わりなんて誰にもできないんです!!」
「そんな……世界中探してもだなんて」
あなたの代わりなんて誰にもできないなんて――――そんな、大袈裟な。
「大袈裟だって、言いたいんですか?」
彼女の思わぬ一言に、彼女に視線を合わせてしまう。心を読まれたのか、どうかは分からないけれど、僕はぎょっと目を見開いて、口を開けて無言で驚いた。
「大袈裟なんかじゃ、ありません」
「大袈裟だって――」
口角を引き攣り、無理くり上げた苦しい笑いを、赤城天音さんは遮った。
「宮川さんと一緒じゃないと、この問題は……絶対に解決できないんです。どんなにお金を持っている人でも、どんなに日本で、世界で名を馳せている人でも……今私が抱えている問題は、解決できないんです」
「だから、お願いします!!」
射貫くような、まっすぐな目線と言葉が――再び胸元に刺さり、今度はそのまま言葉だけが僕のことを貫いた。潤んだ瞳の中には、燃え盛るような赤い瞳が、めらめらと焔をあげている。
僕にそれは眩し過ぎるし、刺激が強すぎる。
僕は目の前でちょこんと背筋よく座っている女の子のことを、まだ何も知らない。それでも、こんなまっすぐな瞳を赤い眼に宿らせた女の子は、生まれて初めて目の当たりにする。
彼女が持つ瞳は――――なにかを背負っている、「覚悟」を持った瞳だ。
これは――――決して、大袈裟なんかじゃない。
「仕方ない……な」
ここまで頭を下げられたら、流石に断ることなんてできない。
僕は「ふぅ……」と溜め息を吐いて、天音さんの方に視線を移し、肩を竦めて見せた。降参――――の意を込めて両手を肩まで上げたつもりなのだけれど、彼女は何を思ってか、僕より腕を高く上げて驚いたような口調で、
「いいん……ですか?」と呟いた。
「いいもなにも、君が僕の言葉を持っているんでしょ……それに、あんなにお願いされたら、断る方が失礼ってもんだよ」
「あっ、あ……あああああああ、ありがとうございます!!」
手を下げてから、何度も何度も座ったままお辞儀をする天音さん。よっぽど嬉しかったのか、さっきまで潤んでいた深紅の瞳には、ぽたぽたと涙がこぼれている。
僕は、湯島駅に付いた時に貰ったポケットティッシュを彼女に無言で手渡し、窓の方を少しの間だけ見やってから、もう一度向き直る。
なんだか少しだけ、肩の力が抜けた気がした。室内なのに、灰色の靄が掛かっていそうだった重っ苦しい喫茶店の雰囲気は、クラシック音楽によって喫茶店らしい雰囲気に戻っていた。これだと、言葉を伝える方も受ける方も、のびのびとトーンや抑揚を抑えずに、口にすることができる。
「どうして『〇』を借りようとしたんだい?」
僕は、さっきとは違う、少し明るい口調で――言葉を紡いでみた。
「間違えちゃったんです……」
「えっ」
「本当は……誰かから、『阿』を借りるつもりだったんですが、『あ』を借りちゃったんです。他人から言葉を借りるのって、今回が初めてだったし……それに、肩ぶつかっちゃった勢いで、宮川さんの『あ』がビックリしちゃったのか……」
開いた口が、どうにもこうにも塞がらなかった。
えっ、なに……。肩がぶつかっちゃった?
それに、僕の『〇』がビックリしちゃって、僕の身体から飛び出しちゃった。
そーんな、夢やおとぎ話のようなことがあるワケが――――
「…………」
僕は、まさかと思い、ゆっくりと天音さんの方を向く――すると彼女は震えながらコクコクと頷いた。まるで、「そうです」と言わんばかりの表情で。
どうやら、そういうことらしい。
彼女の表情からでも十分に窺える。「やっちまった」の六文字。
お互いの血の気がすぅーっと引いていくのを、僕は肌身で感じていた。
赤城天音さん。
返してくれ。いや……返してください。
言葉を、「あ」を、そして――さっき芽生えてしまった感情を。
感動を、返してください。
なんだって、なんだってピンポイントで僕なんだ……。
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